浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

みんな、みんな国民負担!

2015-03-24 09:12:32 | 政治
 さあさ寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。日本というところの住民はいい人ばかりだよ。そこで企業活動すれば大もうけできるから、来なさいよ。

 日本という国では、1000万円以上の収入がある人には、残業代を払わなくていいんだよ。それにさ、内緒だけど、今は1000万円だけど、今後はどんどんその基準を下げていくから、美味しい話しだよ。それにさ、日本には労働組合があっても労働者を守らないし、労働者も経営者に文句も言わない、だって、労働者は残業しても残業代の請求はしないから。

 ほら、あの東京電力を見てごらん。原発事故の収拾のために政府からカネを借りている。でもそのカネにつく利息は、国民に負担させるんだってさ。それにね、だいたい借りたカネだって、電気料金から返せばいいんだから。要するに、企業がカネを借りても、すべては国民や利用者に負担させるんだ。こんな美味しい話しはないだろう。

 安倍首相も言っている、日本を世界でいちばん企業活動がしやすい国にする、って。つまりは儲けやすい国だってことだ。労働組合が経営者に賃上げを求めても相手にしないけど、政府が要請すれば大金が眠っている「内部留保」から少しは出してくれる。つまり、政府の方だけ見てればいいんだ。政府はもちろん企業の味方だから、この国はいいよ!


除染費と東電損賠費の利息 最大1200億円超国民負担に

2015年3月24日 東京新聞朝刊

 会計検査院は二十三日、東京電力福島第一原発事故で、国が税金で負担している除染や、東電の被害者への損害賠償費の利息が、最大で千二百億円を超えるとの試算を明らかにした。

 試算では、国が肩代わりしている除染や賠償の資金援助額が上限の九兆円となった場合、返済を終えるまでに最長三十年間かかり、その間の金利負担が最大で千二百六十四億円に上る。国は金融機関から資金を調達して東電に援助しているが、利息分は返済を求めず、国民の税負担となる。

 また、検査院は福島第一原発1~4号機の廃炉・汚染水対策に国が投じた費用が、これまでに総額千八百九十二億円に上ったことも明らかにした。

 検査院によると、国は廃炉・汚染水対策として、1~4号機の建屋周りの地盤を凍らせて壁をつくり、地下水の流れを止める「凍土遮水壁」の建設に三百十九億円をかけた。汚染水からほとんどの放射性物質を取り除けると期待される高性能の除染装置の開発には百五十億円を投じた。

 このほか、原子炉格納容器の水漏れ場所を特定する技術開発(十六億円)をはじめとした補助金事業や、研究委託費などに支出された。汚染水対策は問題が次々と起きているほか、原子炉から溶け落ちた核燃料の状況も不明で、今後も研究開発などの財政負担が増す恐れがある。

<福島原発事故の賠償制度> 政府は2014年1月、東京電力への新たな支援の枠組みを決めた総合特別事業計画を認定。約2兆5000億円の除染費用などを見込み、東電への資金援助として原子力損害賠償・廃炉等支援機構に交付していた国債の上限を5兆円から9兆円に拡大した。資金回収には東電を含む電力各社などが機構に支払う2種類の負担金に加え、機構が保有する1兆円分の東電株の売却益や、国が機構に交付する中間貯蔵施設関連費用約1兆1000億円を充当。各社の負担金は、国民が支払う電気料金などで賄われている。

<会計検査院の検査対象> 内閣から独立した地位で国の予算が適切に使われたかどうかチェックする会計検査院は、国の機関や、国が2分の1以上を出資する法人、国の出資法人がさらに出資した企業などを検査対象としている。国から財政援助を受け、原子力損害賠償・廃炉等支援機構からも出資を受けている東京電力は対象となる。民間企業ではほかに日本郵便やJR北海道なども含まれる。
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国民だけが素直でいる

2015-03-24 08:37:23 | 政治
 消費税増税。消費税は、相対的に貧しき者の支出に占める割合が高い、逆累進性の高い税だ。つまり大衆課税。消費税が導入されたときも、増税されたときも、その金は福祉につかうなどと政府はいう。しかしいずれのときも、法人税などがさげられ、消費税はその補填としてつかわれてきた。政府に入るカネに、これは消費税からのもの、なんていう区別はされない。

 日本国民は素直なので、政府の借金がすごいからということで、消費税の増税も仕方がないよ、などという。だが、そうした税金がどうつかわれているのか、日本国民には興味はない。できるだけ税金はだしたくないという気持ちが強く、出した後の支出明細なんか目もくれない。

 だが、ボクはいつも思う。確かに政府は国債を発行して借金をしている。だが、国民が借金をしたわけではないのだ。赤の他人がした借金を、あなたは返済してあげますか?おそらくノーと答えるだろう。政府は借金をした、だが、借金をしたのはボクでも、あなたでもない。借金を返さなければならないのは借りた人だ。なぜそうなったか、収入に応じた政治をせずに、放漫な財政の支出をおこなったからだ。借金をしたときの官僚や政府、そしてその借金を認めた議員が払うべきではないか。国民に責任はないのだ。

 さて安倍政権。しばしば外国に行く。安倍首相は日本を欧米の「列強」のなかに押し込んで、「一等国」になりたいのだ。国連の常任理事国に入りたくて仕方がない。だからどこかの国を訪問すると、巨額のカネをばらまく約束をする。日本の常任理事国入りを支持してもらおうという魂胆だ。政府がカネがないから節約しようなんてことは考えない。

 また自衛隊という組織がある。軍隊というのは、「国防」型の装備と「外国侵略(外征)」型の装備とは異なる。日本は基本的には前者の装備だ。しかし今、自民党公明党が画策している「集団的自衛権」行使というのは、海外で活動することとなり、外征型の装備にしていかなければならない。ここでも多額のカネが必要となる。
 ちなみに、どこかの国からミサイル攻撃を受けてはならないということでPAC-3という装備があるが、それらは米軍基地や自衛隊基地の周辺にあり、原発についてはまったく無防備である。日本を攻撃する場合、原発にミサイルを撃ち込めばいい、しかしそれについて何らかの防備をしようという声はない。

 また原発事故で多額のカネが費消されている。今日の新聞報道に以下のようなことが載っていた。ここでも節約しようという姿勢はない。要するに、政府や地方公共団体に集まるカネは自分のものではないので、節約するという発想はなく、「このカネつかっていいよ」などと渡されれば、どんどんつかうのである。
 要するにあぶく銭。パチンコでもうけたからといって、おごってくれるひとがいるが、あれと同じ。自らの労働で稼いだカネではないし、思わぬところからのカネなので、パーッとつかうのだ。でも本当は、そのカネはその人が今まで「投資」してきたカネでもあるのだが。

 
汚染水対策700億円無駄に 東電 除染装置不具合など

2015年3月24日 朝刊

 東京電力が福島第一原発事故の汚染水対策に投入した一部の除染装置などが十分に機能せず、約七百億円が無駄になっていたことが、会計検査院の調査で分かった。 

 検査院によると、東電は二〇一四年三月までに廃炉・汚染水対策として三千四百五十五億円を支出した。東電はこれまで対策費用の内訳を「個別の契約内容」として明かしていない。

 最も多額なのは、一一年四月に仏アレバ社など六社と三百二十一億円で契約した除染装置。汚染水の放射性セシウムを薬剤で分離して濃度を下げる。だが処理効率が悪く、高濃度の汚泥が発生する問題もあり、三カ月動いただけだった。

 日立GEニュークリア・エナジーや東芝などと百八十四億円で契約した、処理水を蒸発させて塩分を取り除く装置も問題視された。水漏れが相次ぎ、五~四十四日しか動かなかった。

 処理水をためるため百六十億円かけて設置したボルト締め型タンクは一三年八月に三百トンの水が漏れた。二十一億円をかけ整備した地下貯水池も一三年四月に処理水漏れが起き、使えなくなった。海側の地下トンネルにたまった高濃度汚染水の抜き取りに向けた実証実験を、子会社の東京パワーテクノロジーに一億円で委託。汚染水を凍らせて止水する狙いだったが、実験のようには凍らず、作業員が手作業で氷を投入した。

 東電は一二年七月に実質国有化され、会計検査院が国会の要請で東電の経営合理化の状況などを調べた。調査結果の公表は一三年十月に続き二回目。

 東電の小林照明原子力・立地本部長代理は「設備は事故発生以降、発電所を安定的に保つためのもので、不要とは考えていない。機能は発揮していたのではないか」とコメントした。



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ニューヨークタイムズ東京支局長の語ること

2015-03-23 19:57:15 | メディア
 以下は、『日刊ゲンダイ』の記事である。読む価値あり。

NYタイムズ東京支局長指摘 「大新聞は国民を見下している」

2015年3月16日

国の根幹が変わるのに、新聞が反論を載せない異常
 相変わらず安倍政権の支持率は高いが、不思議なことだ。庶民にアベノミクスの恩恵はまったくないし、イスラム国の人質事件は最悪の結末に終わった。政治とカネの醜聞が噴出し、大臣がまた辞任した。そんな中で、安倍政権は平和憲法をかなぐり捨てる法整備を進めているのに、世論は怒るわけでもない。その理由を尋ねると、来日して12年になるニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏からは明快な答えが返ってきた。

「報じない大メディアが悪いのです」――。

――この調子でいくと、今月中にも自衛隊が世界中に出ていって、戦争協力する法案が提出されることになります。国の形が完全に変わってしまうのに、日本人は関心も示さない。どう思いますか?

 こうなっているのは2つの大きな要因がありますね。ひとつは自民党一強、野党不在の政治状況。もうひとつはメディアが安倍政権を怖がって批判を控えていることです。

国の根幹が変わるのに、新聞が反論を載せない異常

――やっぱり、怖がっているように見えますか?

 見えますよ。日本はいま、これまでとは全く異なる国家をつくろうとしている。憲法に基づいた平和主義を守るのではなく、米国や英国の仲間になろうとしている。果たして、それでいいのか。大きな岐路、重要な局面に立っているのに、そうした議論が何もないじゃないですか。これは本当に不思議なことです。恐らく多くの国民は、戦後以来の大きな変化が起こっていることすら知らないんじゃないですか。私は何も新聞に反安倍のキャンペーンをやれと言っているわけではないんです。安倍政権はこういうことをやろうとしているけれども、そこにはこういう問題点や危険性がある。こういう別の意見もある。せめてさまざまな立場の見方を紹介して、幅広い議論を喚起することが必要なんじゃないですか。

――しかし、それすら大新聞はめったにやらない。何か安全保障の問題はタブー視されているような印象すらありますね。

なぜ、タブー視されるのでしょうか。9・11の直後、米国では国を守るためには団結しなければダメだという危機感がメディアの批判精神を鈍らせました。これは大きな失敗でした。あの時こそ、メディアは冷静になって、きちんとブッシュ政権に問うべきだったんです。本当にイラクに大量破壊兵器はあるのか。本当に、この戦争をしなければいけないのか。しかし、それをやらなかった。それと同じ失敗を日本のメディアは犯そうとしていますね。いま、日本の国家はどういう危機に直面しているのでしょうか? 台頭する中国への不安や懸念ですか? イスラム国の脅威ですか? そんな小さなことでジャーナリズムが批判精神を失うのでしょうか。

――イスラム国の人質事件ではニューヨーク・タイムズ紙に掲載された風刺画が非常に印象に残っています。「イスラム国は平和主義から逸脱する日本を後押しするか」というタイトルで、車夫(=日本人)の鼻先にイスラム国の旗をぶら下げ、「憲法改正」の車を走らせる安倍首相が描かれていた。キャプションには「安倍晋三“大統領”は復讐を呼びかけた」とあった。

 ニューヨーク・タイムズの論評を扱う部署には複数の風刺画家がいます。そのうちのひとりがアイデアを提示した。私が関わったわけじゃありません。

権力を見ない新聞を国民が信じますか?

――ということは、米国人は一般的に安倍首相のことを、そういう目で見ているということですね?

 そうだと思いますね。ひとりがアイデアを出して、みんながそうだね、と賛同したわけでしょうからね。

――それなのに、日本の大メディアは風刺画どころか、安倍政権が人質救出に何をしたのか、しなかったのか。イスラム国と戦う国への2億ドル支援演説の是非もほとんど論じていませんね。

 私は中東で調査をしたわけではありませんが、東京から見ている限り、安倍政権はあらゆるルートを駆使したわけではないでしょう。最初からあきらめていたように見えます。身代金の支払いにしても早い段階から拒否しているし、この事件を政治的に利用し、テロに屈しないと宣言して米英の一員であることを国内外にアピールするのが狙いだったように感じました。

――人質救出に全力を挙げると言っていましたけどね。

 政治っていうのは、みんなそんなもんですよ。オバマ政権も一緒です。ただ違うのはメディアが政府の言い分をうのみにするかどうかです。私は列強の仲間入りをしたいという安倍首相が悪いとは言いません。彼は素直に自分のやりたいことをやっている。それは就任前の言動から容易に推測できたことです。問題はそれに疑問も挟まず、従って何の質問もせず、説明も求めないメディアの方です。だから、安倍首相が積極的平和主義を唱えれば、多くの国民が何の疑問も持たずに“そんなもんか”と思ってしまう。ここが危険なところです。

――積極的平和主義で、米国と一緒になって戦う。それが日本を守ることになる。こういう主張の政治家、官僚、学者、評論家たちは、米国がやっていることが正義であるという大前提に立っていますね。ただし、そういう人々の多くは、アーミテージ元国務副長官に代表されるジャパンハンドラーと呼ばれる人としか付き合っていない。このほど、ファクラーさんが出された孫崎享さん(元外務省国際情報局長)との対談本、「崖っぷち国家 日本の決断」(日本文芸社)の中には、こういうことが書いてあって、本当に驚きました。ハンドラーという言葉は「犬を扱う」ようなイメージだというし、そのジャパンハンドラーの人々が米国を動かしているわけでもない。これは非常におかしなことだと思います。

ジャパンハンドラーの人々は非常に保守的で、オバマ政権にも入っていないし、決して米国の意見を代表しているわけではありません。それなのに、自民党の政治家や外務省の官僚はジャパンハンドラ―に頼ってしまう。

――対談本でファクラーさんは、「ジャパンハンドラーは『既得権益集団』で、コンサルティンググループなどをつくり、強欲な商売をしている」とおっしゃっていた。

 鳩山政権の時に脱官僚を唱えた瞬間、日米関係がぶっ壊れたでしょ? あんなにすぐ壊れるものかと驚きました。このことは日米のパイプがいかに細いかの裏返しです。一部の自民党の政治家や官僚とジャパンハンドラーとの付き合いしかないのです。日米関係に関わっている人は非常に少数で、そういう人が同盟関係を管理している。だから、普天間基地の移転問題にしても辺野古しかないという結論になってしまう。もっと幅広い人脈と付き合っていれば、さまざまな意見、選択肢が出てくるはずです。

――集団的自衛権についても、それが日米同盟では当たり前ということになってしまう。

 確かに戦後70年間、米国と一緒にやってきて、ある意味、安全だった過去の実績はあります。でも、今後もそれでいいのか。平和憲法を捨てず、平和主義を貫く選択肢もあるし、鳩山政権や小沢一郎氏が唱えたようなアジア重視の道もある。どちらがいいかは国民が考えた上で決めるべきです。

――ところが、日本人には、それを判断する情報すら与えられていないんですよ。新聞が選択肢すら報じないものだから。

 日本のエリートの上の方で、物事が決まっている。大きな新聞はそちらの方を見て記事を書いている。そんな印象ですね。新聞社は読者の側に立って、権力を見ていない。権力者の側に立って、国民を見下ろしている。そんなふうに感じます。こんな新聞を国民は信じますか? 

――このまま米国追随路線をエスカレートさせたら、この国はどうなっていくと思われますか?

 イスラム国のような事件がまた起こりますよ。米英豪仏などと同じ一員になれば、彼らの敵が日本の敵にもなる。日本人はそこまでの覚悟をしているのでしょうか。いずれにしても、民主主義国家でこれほど異常な一党支配の国は私の知る限り、見たことがない。戦前と似ていると言う人がいますが、野党不在で政権と違う意見を許さないという雰囲気においては、似ているかもしれません。健全な民主主義に不可欠なのは議論なのに、それを忘れているとしか思えません。

▽マーティン・ファクラー 1966年生まれ。ダートマス大卒業後、イリノイ大、カリフォルニア大バークレー校で修士。ブルームバーグ東京支局、AP通信東京支局、ウォールストリート・ジャーナル東京支局などを経て、ニューヨーク・タイムズ東京支局長。近著に「崖っぷち国家 日本の決断」(日本文芸社)。


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深夜営業

2015-03-23 15:19:37 | 社会
 以下のような記事を目にした。

深夜の閉店、じわり増加=来客減で―外食チェーン

時事通信3月23日(月)5時17分

 24時間営業が普通だった牛丼店やファミリーレストランなどの外食チェーンで、深夜に閉店する店舗がじわりと増えている。背景には、少子高齢化や生活時間の変化で来客が減少し、採算が取りにくくなったことや人手不足がある。
 牛丼の「吉野家」は、全店舗の4割強に当たる521店舗で、深夜営業をやめている。かつては24時間営業が当たり前だったが、「コンビニの増加などで客が減り、働く人の確保も難しくなっている」(広報)という。
 牛丼チェーンでは「すき家」も、昨年10月に深夜の1人勤務「ワンオペ」を廃止したため、1254店舗で深夜休業に追い込まれた。今年6月末までに24時間営業の再開を目指すが、店員の採用は難航している。
 ファミリーレストラン「ガスト」などを運営するすかいらーくは2013年以降、約650店で閉店時間を早めたり、深夜は閉めるようにした。谷真社長は「来るのは完全に20代だけ。営業しても割に合わない」と説明する。
 ハンバーガーチェーンの日本マクドナルドも、「東日本大震災後は夜に動く人の数が減った。開いていてもお客さんが十分に来ない店もある」(広報)と話す。24時間営業の店はこの2年で400店以上減り、全店舗の半分にも満たなくなっている。 
[時事通信社]


 ボクはこれは喜ぶべきことだろうと思う。なぜ24時間営業をするのかと疑問に思っていた。コンビニもそうだ。24時間営業する必要はあるのだろうか。

 ただこういう問題が起きる。つまり働く人の労働時間のことだ。工場での仕事は、二交代制、三交代制のところがある。すると、就業時間の終わりが深夜になることがある。深夜に帰宅して食事の用意をすることもたへんだからと弁当を購入したりすることもあるだろう。また公共料金についても、深夜は銀行などはあいていない。コンビニでそれもできるようになっているし、さらに銀行預金の引き出しもできる。深夜に行動しなければ成らない人にとっては、必要なものかもしれない。

 だがボクは、昔から、こういう変則的な労働時間、さらには長時間労働などはあるべきではないと考えている。人間は夜は寝て、昼行動するのだ。人間は夜行動物ではないからだ。

 企業は、そこで働く人が自家用車をもっているからこうした変則労働、長時間労働ができるのであって、それに依存して人間の生活時間を大いに変えてきた。自動車文明(?)の発達が、こうした労働時間を生み出してきたのだ。

 21世紀、人間はもっと人間らしい生活ができるようになればよい。人間らしい生活のなかに、夜は眠る、がある。

 
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植村隆講演会

2015-03-23 08:29:10 | メディア
 昨日も静岡市に行った。もと朝日新聞記者・植村隆氏の講演会があったからだ。植村氏は、韓国の「慰安婦」について『朝日新聞』のなかでも早い時期に記事にしたことから、激しいバッシングの対象となっている。

 近年、軍「慰安婦」の存在を否定したい者たちが跋扈するようになり、ちょうど昨年8月に「朝日新聞」の「慰安婦」記事の取り消し・訂正の発表が契機となって、「朝日新聞」バッシングが巻き起こり(といっても朝日バッシングは以前からあった)、早い段階で「慰安婦」報道を行った植村さんがその標的となったのだ。そのバッシングは、いつもの例に漏れず、きちんと調べて発言するのではなく、根拠もなく、口まねで、罵詈雑言を浴びせるという低劣この上ないものであった。そのバッシングには理性のかけらもなく、唖然とするようなひどいものであった。

 「朝日新聞」が訂正したのは、吉田清治証言。ボクは彼の本を刊行されてから早い時期に読んだが、それを読んだからといってあまり強い衝撃は受けなかった。済州島で吉田清治が「慰安婦」狩りをしたということであるが、このようなことは日本軍が中国で行っていたこと(「中国人強制連行」)なので、そういうこともしたのかという感じであった。その後そうした事実はなかったようだ、というのが現在の研究段階だが、当時はその証言が注目され、吉田は全国で講演活動などを行っていたような記憶がある。

 だが、吉田証言の信憑性には早くから疑いがかけられ、主な研究には吉田証言はほとんどつかわれていない。

 吉田証言に疑問符が打たれても、だからといって日本軍が「慰安婦」を連れ歩いたことは確かで、ボクが発見した輜重部隊の兵士の手紙にもそうした記述がある。

 「慰安婦」に関する研究や関心は、金学順さんのカミングアウトがきっかけになったといってもよいだろう。植村氏は、金さんに関する報道をいち早く行った。吉田清治証言を植村氏が報道したことは一度もない。

 にもかかわらず、『読売』、『産経』なども吉田証言を報じているのにもかかわらず、『朝日』と植村氏をバッシングするのである。

 「ねつ造記者」とレッテルを貼られた植村氏は、ほんとうに丁寧に「ねつ造」なんてあり得ないことを説明されていたが、バッシングする側はそんなことはどうでもよく、「朝日」と「慰安婦」を報道した植村氏をたたくことに目的があるのであって、それ以外ではないのだ。

 しかしそのバッシングによって職を脅かされ、脅迫された植村氏とその家族の苦しみはどれほどであろうかと想像する。日本の言論が、まさに脅かされているのであって、はたしてこれが民主主義国家かと疑わせるものとなっている。このバッシングについては世界的に報道されていて、日本の現状に疑いがかけられている。バッシングする側は、こうしたことが日本の「恥」になることを知るべきである。

 植村氏は、そのバッシングに徹底抗戦しようと決意している。応援していきたいと思う。


 
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善良な人でも、人を殺す

2015-03-22 07:55:29 | 近現代史
 昨日静岡に行った。基本的にボクは鈍行で行く。往復2時間余の間、電車の中だ。昔は鉄道の旅と言えば、線路の継ぎ目でゴットンゴトンとしたものだが、今はそれがほとんどない。昔は、昔はということを記さなければならないのが残念なのだが、深夜電車の通行がないとき、保線区の国鉄の労働者が夏は汗にまみれ、冬は寒風のなか線路の保守に従事した。彼らは国鉄労働組合の労働者たちだった。しかし、1980年代、その国鉄労働組合をつぶそうと、国鉄の分割民営化が行われた。JRだ。今、おそらく保線区の労働は非正規労働者か下請けの会社にやらせているのだろうと思う。公が民(企業)に売られた結果だ。そのために労働者の賃金は大きく下降し、企業はもうけ口を確保した。資本を持つものが優雅を誇り、持たない労働者が生活水準を落としていく。もう今の若者は、そうした社会のなかに生まれ育ち、それが当たり前となった社会で生きる。

 さてその往復の電車の中で、一冊の本を読み終えた。森達也・礫川全次『宗教弾圧と国家の変容』(批評社)である。主題はオウムである。地下鉄サリン事件という多くの犠牲を生み出した教団についての対談本である。オウム真理教という教団を、そしてその中にいる人々を、国家や社会は自分たちとは異なる「異物」として見続けた。排除すべきものとしてである。
 しかし森達也は、オウムの信徒を対象にして撮り続け、『A』『A2』というドキュメンタリー映画を制作した。森がそこに発見したのは、ふつうの日本人であった。「異物」として排除されるような者たちではなく、普通の人々。その普通の人々が、サリンをつくり、松本で、東京でサリンをまき、普通の人々を殺したのである。

 普通の善良な人々は人を殺さない、というのが、日常を普通に生きるボクたちの見立てである。その見立てのなかにボクたちは生きる。

 ところがそうではない。普通の人々が人を殺すことがあるのだ。その例は戦争である。すでに過去のものとして、日本人は想起することすらなくなった戦争。1945年に終わった戦争は東アジアでは日本が起こし、ふつうの日本人が兵士としてアジア太平洋地域に動員された。戦争である。戦争とは殺人と破壊を基本的な手段として、一定の政治的目的を達成しようとするものだ。戦争に動員されるということは、殺人と破壊を担うということなのだ。

 動員されていった兵士たちは、命令により人を殺し、破壊行為を行った。彼らは日本の社会のなかで特異な者たちであっただろうか。いや、そうではない。日本では善良な農民であり、労働者であった。

 つまり、一定の条件さえあれば、善良な人間でも人を殺すのだ。そういう事例は、振り返れば、あるいは世界を見渡せばたくさん転がっている。ボクたちは、人間がそういう存在であることをきちんと見つめるべきなのだ。

 オウムの事件でも、オウム真理教を信仰している者たちを、あるいはサリンをまいたオウム信者までも、特異な者たち、排斥すべき者たちとみるのではなく、普通の人々が何故にそうした行動をとったのか、そのメカニズムは何かを探る対象として見つめるべきなのだ。

 だがオウムの裁判は、そうした機会をつくらなかった。

 日本人は、普通の人々がアジア太平洋地域で戦争を引き起こし、そのなかで殺人を繰り広げ、破壊活動に従事した。残念ながら、そうした行為を行った日本という国家、それを担った日本人たちのそうした姿を凝視することがなかった。直視せず、「敗戦」を「終戦」といいかえ、みずからの所業を見つめなかった。そして、被害を受けた国や人々からその責任を問われると、そんなことはなかった、それは合法だったなどと否定する始末だ。

 凝視すべきことを凝視せず、考えるべきことを考えない、それが続いている。しかし、ボクたちは考え、凝視しなければならない。3月20日、メディアも地下鉄サリン事件やオウムについて大きく取り上げていた。いったいボクたちはここで何を考えなければならないのか。ボクたちが問われているのだ。

 なお本書には、たくさんの付箋が貼られた。それだけ考えさせられるところが多かったということである。1700円+悪税である。

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1995年3月20日

2015-03-21 08:59:21 | 日記
 昨日は、地下鉄サリン事件から20年。被害に遭った方にとっては、長く苦しい20年であったことだろう。今でも寝たきりの女性と彼女を介護するお兄さんの姿が映されるとオウムの犯罪に思いを馳せる。

 そういえばこの年は、阪神淡路大震災も起きた。そのときは村山政権。いつもこのブログで指摘することだが、自然は支配者に味方する。いつも悪政の自民党・公明党が下野しているときに、震災が起きる。

 昨日届いた『週刊金曜日』も、オウムをとりあげていた。森達也と作家・中村文則との対談だ。中村の小説は読んだことがない。そもそもそういう作家がいたことすら知らなかった。だが、対談の内容を読んでいると、なかなかいい意見を開陳している。最近の作品は『教団X』。図書館で借りようとアクセスしたところ、浜松市では4冊購入していて、読みたいとリクエストしている人が、95人もいた。あきらめた。

 中村は、現在の日本を、「制度としては民主主義だけど、現実としては独裁に近い」と指摘する。沖縄・辺野古の新基地建設や集団的自衛権に関する動きを見ていると、まさにそうだと相づちを打つ。

 また中村はこうも言う。

 昔だったら「戦争はダメだよね」ということを何の衒いもなく書けたのに、今は一から説明しないといけない時代になってきて、みんなが知っているようなことでも事細かに書かなきゃいけないことにジレンマもあります。かつては簡単に言えたことが自明じゃなくなっている。

 いつの頃からか、若い人たちに何事かを説明しようとしたときに、今までだったら既知のもので説明しなくてもよかったことが、説明しないと理解してもらえないことがわかって愕然としたことがある。それはたとえば、地図上のイラクの位置である。山本一太というしばしばテレビに出ていた政治家(もちろんこういうアホは自民党議員だ)が、イラクの位置を答えられなかったことが一時話題になったが、要するに基礎的な知識でさえ、剥落しているのだ。

 いつ頃からかわからないが、知というものが重要なものであるという認識がなくなってきたのだろう。子どもたちは、学校での知識はテストのためのみにある、テストで点数を獲るためのみにあるのであって、テストが終わればさっさと消してしまって良いものだという風潮が出てきたように思ったことがある。

 知とか教養ということばは少数の学者や読書家のみの世界にあって、一般社会や、もちろん政治の世界でもすでに生命をなくしたものとなっている。

 昨日、不動産関係の仕事をしている方から電話があった。日本の現状を憂えている方からだ。もうじき日本は、日の丸を各家で掲げるようになってしまうのではないかと話されていた。そうかもしれないとボクはこたえた。どこかがそうしたことを推進しようとすれば、簡単にそうなってしまうというおそれを持つからだ。

 先述の対談で、森達也は、「行き着くところまで行くしかないかな、と思っている」と語っていた。ボクも、一面ではそういう思いをもつ。

 知とか教養が顧みられない日本、過去の歴史についても同様だ。だから日本人は、同じ過ちを繰り返す。知とか教養より、カネだ、カネだ・・・・・

 もうじき21世紀の「義和団の乱」が起きて、安倍率いる日本軍がその活躍を見せるときがくるのではないか。

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【本】星亮一『会津戦争全史』(講談社)

2015-03-20 10:03:08 | 近現代史
 近代日本国家の総体を検討するとき、その近代国家がどういう経緯で形成されたのかは重大な課題となる。すでに先学が無数の研究をされているので、ボクの入る隙間は全くないとは思うが、近代日本国家が初発から「帝国主義」としての歩みを刻むという歴史を持つ以上、その形成のなかに「帝国主義」的な要素が入り込んでいるのではないか、を探るというのが、最近のボクの問題意識である。

 そしてそれは戊辰戦争のなかに胚胎しているのではないか、という問題意識を持つ。

 さて本書は、戊辰戦争中、ほとんど唯一薩長主体の官軍と全面戦争をした会津藩の歴史を描いている。本書は、会津戦争の詳細が記されているが、ボクが学び取ろうというのはそういう詳細ではない。その中身であり、意義である。

 本書を読んで考えたことは、まずやはり会津は敗れるべくして敗れたということだ。封建的な上下関係、門閥制度があり、人材登用がなされなかったこと、軍事力の近代化に遅れをとっていたこと、そうじて藩内の近代化がなされていなかったことが大きい。この点で、薩長との差は大きい。

 薩長を中心とする官軍が会津戦争でどのような醜態を演じたのかが本書ではあまり詳しくはない。組織的な略奪、鶴ヶ城落城後の死体埋葬禁止、そして下北半島への移住など、非人道的な措置が描かれてはいる。具体的な事例は、本書が依拠した書物には詳しく記されているのだろうが、そういう本を入手して読むほどの余裕はないのが残念だ。

 いずれにしても、日本の軍隊は、戊辰戦争に従軍した者たちが中心となってつくられたものであるとするなら、戊辰戦争研究はさけて通ることはできないと思われる。

 さて星氏は、あとがき(本文でも)、「薩長藩閥政権が歩んだ道は、武力によるアジアへの侵攻だった。東西連合政権であったならば、明治以降の日本は他の民族にもっと配慮したハト派の政治が行われたに違いない」と書いている。おそらくそうだろうと思う。薩長に権力が握られたことが、近代日本国家の初発から日本が「帝国主義」的な行動をとった一因だろうと思う。

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チュニジアの虐殺事件

2015-03-19 22:06:42 | 国際
 18日、武装した男らが国立バルドー博物館を訪れた観光客に銃を乱射し、多くの観光客が死傷した。日本人も犠牲になった。大学を卒業したばかりの女性もそのなかにいた。銃弾を乱射し、多くの人々の生命を絶った犯人たちに強い怒りを覚える。

 イラク、シリアなど中東北アフリカ地域は、ほとんどの国で正当なる政府がなくなり、混乱を極めている。その混乱のなかで、戦闘が繰り広げられ、多くの民が傷つき殺されている。そのさい、常に非難されるのは「テロリスト」と呼ばれる者たちだ。「テロリスト」を名付けられるとき、そこには存在する正当性を奪われる。

 しかし、この世界各地の混乱の背後に、いつも存在しているのがアメリカ合州国の公然、非公然の暴力である。中東や北アフリカで起こった○○革命の背後にアメリカがいること、ウクライナの混乱の背後にもアメリカがいることは、常識となっている。

 世界各地の混乱をつくりだしているのは、アメリカ合州国である。国際的に、アメリカこそ「テロ国家」として認定された唯一の国家である。

 アメリカという国家の化けの皮をはがすことをしていかなければならないと思う。アメリカの「暴力」と向き合うことが、世界の安定につながるのではないか。

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-79c2.html
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高木桂蔵氏について

2015-03-19 20:43:39 | 社会
 高木桂蔵氏について、以下のコメントが寄せられた。

そもそも、高木氏には初めから学術的な素養などなく、著作も講演もでたらめそのものです。「騙せる」と思った相手には高圧的に出て、「騙せない」と思った相手には絶対に口出ししない。そのような人間です。客家論も風水もネタ本を見つけてきて、それをあたかも自説のように説いているのです。だから、彼は「終わった」のではなく、初めから何もないのです。付け加えるなら、学歴もかなり怪しいと言わなければなりませんね。

 残念ながら、『客家』(講談社現代新書)も読んだことがなく、それについて何も言えないし、また直接高木氏にお目にかかったこともないので、彼の他人に対する対処の仕方についても何とも言えない。

 ただ彼が県立大学を退職した後に書いている雑文を読み、なんといういい加減なことを書く人か、これが大学教授だったのか、と驚いたことがある。

 コメントにあるように、「初めから何もない」人であることは、十分予想されることだ。

 昨日の県議会での発言も、とてもひどいものだったらしい。言葉遣いも非常識で、否決されたのは、人格や識見に問題ありと議員らに判断されたからだろう。

 川勝知事の彼を教育長に任命しようとした責任はどうなるのだろうか。ひょっとしたら、「類は友を呼ぶ」?
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ピケティ

2015-03-19 17:34:39 | 
 毎月一回、ボランティアで行っている講座、今日はピケティの考え方について説明した。「歴史」についてということで依頼されたのだが、現代日本の政治経済問題について話したら、こちらの方が関心があるというので、時事的な要素をいれながら内容をつくっている。毎月一回何を話すのか考えるのも、なかなかたいへんだ。とくに、スライドを使ってほしいというので、そのための写真を用意したりグラフをつくったり、なかなか骨が折れる。

 今日、登校拒否をしている17歳の子どもも来ていた。終わってから、「おもしろかった」といって帰って行った。そう言ってもらえてうれしいが、そのためにボクは『21世紀の資本』(みすず書房)を購入し、昨日までは『現代思想』の臨時増刊号「ピケティ『21世紀の資本』を読む」を、まさに読み続けていた。この講座、いつものようにカネと時間をかけている。そういってもらえないと、ボクも困るのである。

 帰宅して吉野源三郎の『人間を信じる』(岩波現代文庫)を読み直す。吉野は、ボクの心の“師匠”である。そしたらこういう文にであった。

 理論としての思想は移っていっても、その根本のモチーフは、20代に形成された価値感情から出ている。そして、人生において何が何よりも大切かという価値のけじめー哲学でいえば価値の序列というやつーに関しては、20代に受けた影響は誰にとってもほとんど決定的なもののように思う。203頁

 その通り、吉野の「一粒の麦」は決定的であったし、そのあとにでた『同時代のこと』(岩波新書)も決定的であった。

 ボクは、そのころに培われた価値感情のレールの上を、生きている。
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高木桂蔵氏の教育長就任否決

2015-03-19 09:10:58 | 政治
 昨日、県議会総務委員会で高木氏を招致した結果、教育長就任を否決したそうだ。
 以下は,『静岡新聞』記事だが、『中日新聞』を読むと、教育論を尋ねられた高木氏は逮捕歴について「まくし立て」、「中国との国際関係について見解を」聞かれれば、「長々と持論を述べ」て中国政府を批判し、「質問と答弁がかみ合わず、委員長から「聞かれたことに簡潔に」と諭される」ことさえあったという。まさに人格と識見の点で問題があることを、高木氏みずからが証明したようだ。

 最近の氏の講演など、学問的なものはなく、放言と思いつきによって構成されていると思っていた。すでに学問的にも終わった人だ。そういう人物が教育長にならなくてよかった。溝口紀子氏の問題提起に感謝すると同時に、高木氏を教育長にしたいと提案した川勝平太知事の責任(説明責任)があらためて浮上してくると思う。

<県教育長人事>判断覆し「否決すべき」 混乱の県議会総務委(2015/3/19 07:50)

 高木桂蔵県立大名誉教授(73)の経歴に対する疑義をめぐり県議会初の委員会再審査という異例の経過をたどった県教育長の人事案。県議会総務委員会は18日、高木氏本人からの聴取を踏まえた上で、一度は「可決すべき」とした判断を覆した。
 「逮捕歴を含めたきょうのやりとりだ」
 最大会派自民改革会議の代表で総務委委員でもある杉山盛雄氏は「高木氏の教育への情熱は十分伝わった」と前置きしつつ、会派として否決方針に回った理由をこう強調した。
 この日の委員会で高木氏は教育論などを語る中で「言葉遣いが乱暴で不適切な発言が多い」と諭され、思想が中立性を欠くとの指摘を受ける場面もあった。
 委員会終了後、県教委トップとしての適格性を念頭に「疑問がある」と漏らす議員が複数見受けられた。

コメント (1)
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盗撮

2015-03-19 08:33:45 | 社会
 新聞を読んでいると、「盗撮」事件がかなり頻繁に報じられることを発見する。
 
 例えば次の産経新聞の記事。

iPadでスカート内盗撮 容疑で京大准教授を逮捕

産経新聞2015年3月19日(木)01:52

 電車内で女性のスカートの中を盗撮したとして大阪府警曽根崎署は18日、府迷惑防止条例違反容疑で、京都大工学部准教授の男(52)=京都市上京区薬師町=を逮捕した。府警によると「犯罪と分かっていたが盗撮してしまった」と容疑を認めている。

 逮捕容疑は18日午後2時半~35分ごろにかけ、阪急電鉄宝塚線十三-梅田間を走行中の車内で、リュックサックに隠したタブレット端末「iPad」で女性(21)のスカート内を動画で盗撮したとしている。

 同署によると、男は、動画撮影機能を起動させたiPadをリュックサックのポケットに隠匿。座席に座っていた女性のスカート内が映るようにリュックサックを動かして撮影していたという。

 近くにいた男性が水戸容疑者の動きを不審に思って声をかけ、梅田駅で駅員が通報した。


 ほかにもある。


「200回以上やった」エレベーター内でスカート内盗撮 アルバイトの男逮捕 3月17日
摂南大教授を逮捕=スカート内盗撮疑い―大阪府警(時事通信) 3月12日
スカート内盗撮容疑で巡査部長を書類送検 (神戸新聞) 3月06日


 今までは、個人的な犯罪であると考えていたが、しかし「盗撮」行為はしばしば検挙されている。通常の神経であったなら、「盗撮」行為は逮捕につながる“危険な”行為であることが予想される。

 「盗撮」行為は、それ自体反社会的な行為であること、さらに「盗撮」をすれば犯罪として社会的に糾弾されること、二重の意味で制御機能が働いているはずだ。にもかかわらずなくならない。次から次へと、現れてくる。

 ということは、「盗撮」行為に走る人は、心の中に「やむにやまれぬ」衝動が生まれていることが予想される。それも一人ではない。したがって、個人的な犯罪だとして一件一件を処理するのではなく、社会的な病理として考える時期が来ているのではないか。

 もちろん、なぜそういう行為に走るのか、なぜ「やむにやまれぬ」衝動に突き動かされるのか、その行為に走った人たちの「思い」など考えるに際して材料となるものがないので、ボクにはまったく不明である。

 だが社会学的な探求の素材にはなるのではないだろうか。






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「相棒」

2015-03-18 21:59:36 | メディア
 テレビでは、ニュース番組の他、テレビ朝日の「相棒」だけをみているが、しかし今日の最後は、不自然。

 「杉下」の「相棒」である「甲斐」が、“ダークナイト”という犯罪者であった。しかし、それまでの番組で、そういう気配を見せていなかった。きわめて唐突で、不自然であった。

 アイデアが尽きたのか。失望。

 これで、これも見なくなる。
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国民への忍耐の押しつけ

2015-03-18 15:25:47 | 政治
 ドナルド・キーンさんの発言(『毎日新聞』記事)

戦後70年:今も続いている国民への忍耐押しつけ

2015年02月26日

 お国のために我慢すること、お国のために死ぬことが、日本の伝統なのだろうか。若き日に「源氏物語」と出合った感動を抱き続け、日本国籍を取得した日本文学研究者のドナルド・キーンさんに聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

 米国海軍の日本語将校として、太平洋戦争に従軍しました。武器は取りたくなかった。だから、語学の能力を生かそうと思ったのです。1943年2月に海軍日本語学校を卒業し、日本軍から押収した文書の翻訳任務に就きます。ある日、小さな黒い手帳の山に行き当たりました。同僚たちは避けていた。なぜか。悪臭が立ちこめていたからです。それは死んだ日本兵たちが所持していた日記でした。血痕がついていたんです。軍事機密が漏えいする恐れがあることから、米軍は兵士が日記をつけることを禁止していました。日本軍は違いました。部下が愛国的かどうか、上官が検閲する目的があったのでしょう。

 「軍紀旺盛なり」。部隊が内地にいるころはまだ、勇ましい言葉で埋まっています。ただし、やがては南洋の最前線に送られる。輸送船団の隣の船が突然、雷撃を受ける。乗船していた部隊もろとも、海の藻くずとなる。戦争の現実に日記の調子が変わってきます。上陸したガダルカナル島(1942年8月~43年2月の戦いで日本兵約2万800人が戦病死)はもちろん、南の楽園ではなかった。食糧はない、水はない。マラリアは流行する。米軍の爆撃は激しい。覚悟したのでしょう。最後のページに英語でつづっているものもありました。「戦争が終わったら、これを家族に届けてほしい」

 我々と同じ人間なんだ。戦時プロパガンダが伝えるような「狂信的な野蛮人」などではないのだ。胸を打たれました。従軍前はコロンビア大学で日本人教授(故・角田柳作氏)に師事し、日本の文化を学んでいました。それでも、中国大陸における日本軍の蛮行を聞くにつれ、日本は怖い国だと思うようになっていました。それが皮肉にも、自分が戦争に参加することによって、一般の日本人を知った。心から、彼らに同情しました。日本文学において、日記は一つの伝統的なジャンルを形作っています。平安朝の昔から、優れた日記文学が残されています。しかし、無名の日本兵たちが残した日記ほど、感動的なものはめったにありません。

 最初の玉砕となったアッツ島の戦い(1943年5月)に参加し、手りゅう弾を胸で破裂させて自決した日本兵の遺体を目にしました。沖縄戦(1945年3~6月)では乗船した輸送船をめがけ、特攻機が突入してきました。なぜ、日本人は死を選ぶのか。ハワイ・真珠湾に設けられた捕虜収容所で出会ったのは、文学、映画、音楽を愛する日本人たちでした。彼らのためにレコード鑑賞会を開いたとき、敵も味方もなかった。ところが、そんな彼らは「日本には帰れない」という。ホノルルのハワイ大学の図書館で、日露戦争の資料を探し回りました。実はロシア軍の捕虜になった日本軍将兵は数多かった。それを教えたかった。「俺は将校だから、ロシア軍将校と同じようにウオッカを飲ませろ」などと要求したケースもあったそうです。

 捕虜になることは恥--などということは軍部が強要した大うそです。戦争なのだから、命のやり取りは仕方がありません。しかし、相手に敬意を払うことはできる。能「敦盛」で源氏方の武将、熊谷直実は平氏の武将を一騎打ちで組み伏せるが、元服間もない自分の息子と変わらぬ若さと知り、見逃そうとしました。なんと、人間的でしょうか。味方が押し寄せてきたために熊谷は仕方がなく、敦盛を討ち取ります。その後に出家し、菩提(ぼだい)を弔うことを選ぶことになります。

 熊谷のような心を持たず、ひたすらに敵を殺すことを誇ることは、本当に恐ろしいことです。京都には(豊臣秀吉の朝鮮出兵で)切り落とした敵の耳を埋めた「耳塚」が残っています。これが武士ですか。「源氏物語」に魅了されたのは、そこに日本の美しさがあふれていたからです。西洋の英雄物語の主人公たちと違い、光源氏は武勇をもって、女性たちに愛されたわけではありません。彼が活躍した平安朝期にはたったの一人も、死刑になっていません。憲法9条を改正すべきだとの主張があります。現行憲法は米国の押しつけであると。しかし、忘れてはいませんか。この戦後70年間、日本は一人の戦死者も出さなかったではないですか。それならば男女平等だって、土地改革だって、押しつけではないですか。改めるべきなのですか。

 政府と軍部は都合良く、日本人の美徳である我慢強さを利用しました。作家の高見順(1907~65年)は昭和20(1945)年の日記で「焼跡で涙ひとつ見せず、雄々しくけなげに立ち働いている」国民の姿を記しました。彼は敗北であっても、戦争の終結を望んでいました。戦争指導者は国民に愛情を持っているのだろうかと疑っていました。何やら、東日本大震災(2011年3月11日)に重なるものがあるように思えてなりません。あれほどの地震と津波に見舞われながら、互いに助け合う日本人の姿に世界が感動しました。けれども、国民は理不尽に忍耐を押し付けられてはいないでしょうか。

 杜甫(712~770年)の有名な詩「国破れて山河あり」について、松尾芭蕉(1644~1694年)は反論しています。山も河も崩れ、埋まることもあるではないか。それでも残るのは人間の言葉である、と。終戦直後の日本文学も言論統制が解かれ、一つの黄金期を迎えました。谷崎潤一郎、川端康成らに加え、三島由紀夫、安部公房などの新しい才能が咲き誇ります。

 東日本大震災の福島原発事故では放射能によって、国土の一部が汚染されてしまいました。しかし、国民の半数が反対しているにもかかわらず、世界中を震撼(しんかん)させた事故がまるでなかったかのように、原発再稼働の動きは進んでいます。戦後70年を迎え、言葉の力が再び試されています。
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