日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「帯を踏みつけている」以前の問題だと思うーヴァレンティノの広告ー

2021-03-31 11:49:11 | CMウォッチ

Yahoo!などのトピックスで、イタリアの高級ファッションブランド・ヴァレンティノが「帯をハイヒールで踏みつけている」という動画や広告について、取り上げられている。
J-castニュース:ヴァレンティノ「ハイヒールで着物の帯踏む」広告が物議 写真・動画が削除…ブランド側は「確認中」

取り上げられた理由の一つに、モデル起用されているのがキムタクの二女であったということも大きいだろう、と想像している。
何と言っても、ご両親ともに芸能界で活躍をしている「二世タレント」で、デビューそのものも華々しいものだったし、メディアも別格扱いをしていたからだ。

彼女のモデル(「アンバサダー」という広告塔)起用については、以前から「(若すぎて)ブランドに合わないのでは?」という指摘がされているようだが、ヴァレンティノのショーに限らずパリやミラノに登場するモデルの中には、10代の少女がいる事を考えれば、「若いから」というのは理由にはならないと思う。
ただショーのステージに立った時、10代のモデルであってもその迫力や堂々たるポージング、歩き方などはキムタクのお嬢さんには無いものである、ということは確かだだろう。

それより今回問題になったのは、日本の伝統衣装である着物の帯をハイヒールで踏みつけている、という点だ。
既に削除されたらしい画像が、リンク先の記事にはありその写真を見てみると、ハッキリ言って広告として「いただけない」と感じる。
少なくとも、イタリアの高級ブランド・ヴァレンティノらしからぬ、写真だという印象がある。

撮影イメージとして、泉鏡花の「草迷宮」を映画化した寺山修司の作品を基にイメージしている、ということのようだが、とすればやはり起用するモデルはキムタクのお嬢さんではなかったはずだ。
泉鏡花や寺山修司の世界観は、もっと妖艶で人を惑わすような、世界観を表現が必要だからだ。
決定的なのは、背景がとても安っぽい。
背景に映り込んでいる、コンクリート造の支柱の数々。
一般住宅の一部も見える。
これらの背景に映り込んでいる風景を見ると、泉鏡花や寺山修司の世界観を理解して、ロケーションをしているとは思えないのだ。
あくまでも個人的なイメージだが、ロケーションをするのであれば、先日、国の有形文化財に登録されるのでは?話題になった、神戸の「廃墟の女王」と呼ばれる旧摩耶観光ホテルのような場所だと思うのだ。

そんな安っぽい背景に、帯をランウェイに見立てて、モデルを立たせている。
これでは帯そのものの美しさも伝わらないし、帯を使う意味も分からない。
もちろん、帯の上にハイヒールで立つなど、日本の服飾文化に対する敬意の無さの表れだと受け止められても、仕方ないだろう。

記事中に寺山修司が制作した映画「草迷路」の中に、帯の上を歩くというシーンがあるとされているが、歩いている場面でハイヒールを履いているのだろうか?
作品を観ていないので何とも言えないのだが、裸足で歩いているのでは?
映画の一部分を切り取り、「多様な価値観を表現したかった」と言われても、「(日本の美の集約の一つである着物の帯を)ぞんざいな扱いをした」と感じさせるだけで、広告表現としては失敗だったのでは?という気がしている。

そして、今日になりヴァレンティノ側がお詫びを発表している。
Huffpost:ヴァレンティノが物議醸した”帯の上を歩く”広告でお詫び。「日本文化を冒涜するような意図は全くなく」

残念ながら、このお詫びでヴァレンティノ側は「日本文化も日本の手工芸も知らない。泉鏡花も寺山修司の世界観も知らない。ただ売上が良い市場であるという認識しかしていなかった。」ということだけではなく、代理店が提案してきたコトに対して、自分たちに決定権があり、それがヴァレンティノの名前とブランド力に影響を与える、というマーケティングの基本を理解していない、ということを露呈させただけのような気がする。

私が初めて広告媒体の制作に携わった時、担当をしてくださったカメラマンの方から言われた言葉がある。
「広告は虚構の世界だからこそ、細部はリアルでなくてはいけない。嘘の世界であっても受け手には、豊かなイマジネーションを与えるリアルが必要だからだ」

この広告を制作した側は、果たしてこのような考えがあったのだろうか?
何となくだが、キムタクのお嬢さんを起用する、というところで思考が停止し、本当のクリエイティブとは何か?という、一番重要な点を忘れてしまっていたような気がしている。



「炎上しない」広告って?

2021-03-25 18:59:28 | CMウォッチ

VOGUEをチェックしていたら、「炎上しない広告」という記事があった。
VOGUEJapan:原野守弘『クリエイティブ入門』に知る、炎上しない広告のセオリー

今週だったか?テレビ朝日の看板番組「報道ステーション」のWEBCMが炎上し、担当者がTwitterで謝罪、CM取り下げをするということがあった。
毎日新聞:男女格差軽視?皮肉?報ステCM「炎上」の理由を探る

過去にも、様々なCMや広告が「炎上」し、その度ごとに企業が謝罪をする、ということが繰り返されてきた。
最近でも、東京オリンピック2020の開会式の演出統括者が、打ち合わせ時に起用するタレントさんに対して侮蔑的なことを言い辞任することになった。
この件は、問題になる前にオリンピック委員の会長であった森氏の発言から端を発し、組織全体の「意識の問題」ということにまでなってしまった感がある。
それほど根強く、改善すること自体が相当難しい問題なのかもしれない。

ただ、VOUGEの記事を読んでみて「炎上する・しない」の大きな違いは、問題のとらえ方とその表現方法、ということがわかる。
例えば、化粧品のポーラのCMや広告は「女性が抱えている問題」に対して、過剰な演出をしていない。
奇をてらうことなく、その問題に対して「淡々と描き出している」だけだ。
リクルート向けのCMということもあるが、「私がどうしたいのか?」ということをCMでは言っているに過ぎない。
「どうしたいのか?」という自分の問に、企業からの答えはない。
答えは無いが、企業としての回答のようなモノを感じさせるつくりになっている。
違う見方をするなら、「問題を淡々と描きながら、企業が一歩引いている」というCMなのだ。

今ある問題は、動かしがたい事実だ。
それを企業が取り上げる事で、「このような問題に取り組む企業姿勢」というアピールができる。
だが企業の考えを押し付けずに、一歩引くことで、受け手となる生活者に「考える」という、余白を与える。
この「余白」となる部分が、炎上を回避しているのでは?という気がするのだ。

とはいうものの、このようなCMや広告は一歩間違うと、印象の弱いCMや広告になってしまう。
そこに広告の難しさがあり、広告を創る側の醍醐味もあるのだと思う。
ただ忘れてはいけないのは、CMを含め広告は生活者に寄り添うものでなくてはならない、という点だ。
バブルの頃の様に「目指せ!○○」のような成長志向のCMや広告は、受け手となる生活者には「現実は違う」という違和感を与えてしまう。
だからといって、悲嘆にくれるような内容ばかりでは、今のような社会状況の中では、生活者の気持ちも必要以上にふさぎ込んでしまう。
だからこそ「生活者に寄り添う」という感覚で、過剰な演出ではないCMや広告つくりが大切であり、炎上をしないための策のような気がしている。





スーパーボウルのCM

2021-02-08 19:00:15 | CMウォッチ

日本時間の今朝、全米が熱狂すると言われている「スーパーボウル」が、開催された。
アメリカンフットボールのファンであれば、「スーパーボウル」がどれほど影響力のある、スポーツイベントであるのか?ということは知っているだろう。
そして、アメリカンフットボールに興味が無いマーケターもまた、「スーパーボウル」というスポーツイベントの影響力を、理解しているはずだ。
何故なら、スポンサー企業はこの「スーパーボウル」の1回の為に、特別なCMを制作するからだ。
CMを流すために支払われる金額が「30秒で5億」とも言われ、当然それに似合うだけのCMが制作されることになる。
それほどの金額を投じてつくられるCMは、CMの新しい潮流を創り出す、とまで言われている。

今年の「スーパーボウル」のスポンサーとして登場した企業の中には、日本のメルカリやINDEEDなどがあったようだ。
TC:スーパーボウルCMにメルカリ初出稿、Game Stop騒動で注目が集まるRedditやRibonhootなども

常連企業としてはトヨタやペプシ、バドワイザーなどがある。
ELLE:2021年スーパーボウル、CMで株を上げているブランド、下げているブランド

ELLEの記事では、「評価をあげたCM、下げたCM」それぞれを見ることができるので、じっくりと見て欲しいのだが、スーパーボウルのCMが新しい潮流を創り出すと言われるゆえんは、このCMが出稿した企業からのメッセージというだけではなく、「今企業が求めれているコト」を表現している場合も多いからだ。

今回のバドワイザーの場合、「新型コロナ」に対する企業の考えを示しながらも、昨年スポーツ選手を中心に大きなムーブメントとなった「BLACK LIVES MATTER」の映像を差し込んだりしながら、「希望」を持つことを訴えている(冒頭、アパートの窓から口ずさまれる歌は、ビル・ウィザースの「Lean Me On(「私を頼りに」という意味)」。
逆にロジテックは、今全米で最注目されているミュージシャンを起用し、若い世代に対してストレートな社会メッセージを伝えている。
両極にあるようなCMではあるが、どちらも企業としてのメッセージとしては、昨年から続く「新型コロナ」やアメリカ特有の人種的、あるいは性的問題に対して「(みんなで)解決していこう。希望を持って」というメッセージが伝わってくる。

このように、スーパーボウルのCMというのは、製品CMではなく企業が今社会に対してどう考え、行動していこうと考えているのか?ということを伝える場であり、そのための映像表現もまた「人種のるつぼ」と言われるアメリカの内情も加味しながら考えられているのだ。
と同時に、今回は大きく取り上げられなかったようだが、新しい映像手法なども見ることができるし、スポンサー企業を知ることで、今勢いがある企業、長いブランディング活動により、生活者の心をがっちりと掴んでいる企業などが分かるからだ。
だからこそ、マーケターとしてスーパーボウルのCMは特別なCMなのだ。


宝島社の新年企業広告に見る「皮肉と批判」

2021-01-07 19:03:59 | CMウォッチ

出版社・宝島社のお正月広告は、元旦から三が日の間ではない。
いわゆる「松の内」と言われる、今日位までの間に新聞掲載される。
それだけではなく、他社の企業広告のような明るさや未来感などは無く、どこかシニカルで社会を批判するような内容が入っている。
それが、宝島社の「企業メッセージ」ということになる。
今年は例年に比べ、ダイレクトな批判要素が感じられた広告だったように感じている。
宝島社:企業広告2021年

上は昨日1月6日に朝日新聞に掲載された広告。
左下に広告に使用した浮世絵が、葛飾北斎の「北斎漫画」からのものである、ということがわかる。
キャッチコピーとして使われている「ねちょりんこ、ダメ。」の「ねちょりんこ」というのは、この広告の為に作った造語のようだ。
ただ「北斎漫画」の図柄と一緒にキャッチコピーを見ると、「のんびり家族で過ごしちゃダメなの?」という、ほのぼの感のあるキャッチコピーとは別に、今の世知辛さを皮肉っているようにも思える。
それを気づかせるのが、右下にある「濃厚接触による感染拡大は、個人の責任だそうです」という、コピーだ。
江戸時代の長屋で生活していた人たちが、「ソーシャルディスタンス」などという、距離で生活すること自体、難しかったはずだ。
何故なら、6畳くらいの部屋に家族で生活をしていたからだ。
当然昼寝をするにしても「ソーシャルディスタンス」を保って、昼寝などできるはずもない。

そして今日7日に掲載された広告が、昭和20年代頃の小学校での写真だ。
女子児童が一生懸命に机を拭いている、何気ない1枚の写真だ。
裸足であることから、日本が第2次世界大戦後まだまだ復興途中の頃だろう、と想像できる。
そしてキャッチコピーとして使われているのが「言われなくても、やってます。」だ。
写真だけを見ると、戦後間もない日本のありふれた光景のように見える。
そこに「言われなくても、やってます。」というキャッチコピーが入ると、それは一転して今の不甲斐ない(?)政府の「新型コロナ対策」に対する批判のように思えてくるし、昨年打ち出した「新しい生活様式」に対しての、生活者からの皮肉のようにも感じられるキャッチコピーだと思う。

何よりも「皮肉だな~」と感じられるのは、この日にちを変えて掲載した二つの広告の右下には「個人の責任だそうです」というコピーだ。
使われている写真や浮世絵は、ほのぼのとしているのに、キャッチコピーを読むと今の政府に対する批判とも皮肉とも捉えられるような内容になっている。

もう一つ感じたことは、共通して使われている「個人の責任」という言葉だ。
ここ20年くらいの間で、日本で頻繁に聞かれるようになった「自己責任」という言葉。
今回のような「感染症」の場合、個人の努力では限界があり、個人の責任を問うようなものではない。
もちろん、個人として様々な予防策を取ることはできても、個人の努力で予防・感染拡大防止をすること自体、無理があり過ぎる。
にもかかわらず「新型コロナ」の感染者が判明してから約1年経っても、日本の政府は「緊急事態宣言」をする・しないの検討会をして何日に出します、というような悠長なことしかしてきていないのが現状だ。
「アベノマスク」にしても、官邸付き官僚が「マスクを配布すれば、国民の不安なんて、パァ~と無くなります」という、戯言のような一言で、500億近い税金が投入されるという結果になった。
どこかこの国の政治家は「他人事のような感覚」で、生活者を見ているようなのだ。

だからこそ、今回の宝島社の広告はとても強いメッセージとなって伝わるのでは?と、感じている。
まぁ、感じているのが生活者ではなく、政治家であって欲しいとは願ってはいるのだが…。


コロナばかりではなかった、今年-サントリーCM-

2020-12-25 18:47:16 | CMウォッチ

今年を振り返った時、新聞やニュースなどで一番多く取り上げられたのは、「新型コロナウイルス」に関連するものだろう。
今年の漢字一文字も「新型コロナウイルス」に関連した、「密」という漢字だった。
「新型コロナウイルス」が与えた影響は、社会だけではなく、むしろ経済に与えた影響が強かったのでは、ないだろうか?
と同時に、各国の首相の対応やメッセージ力というモノも、注目を浴びることになった。
クリスマス休暇を前に、ドイツのメルケル首相が感情も露わにした「自粛」のメッセージは、これまでの冷静なイメージのメルケルさんからは想像もできないほどの、熱の入った内容だった。
だからこそ、ドイツ国民だけではなく映像を見た日本を含めた諸外国の人々の心に、響いたメッセージだったような気がしている。

言い換えれば「新型コロナウイルス」に翻弄された一年だったのだが、この年末にサントリーが「視点を変え、希望をもとう」というCMを公開している。
youtube:サントリー「2020年の希望」篇90秒

バックに流れる楽曲は、ご存じベートーベンの第9番「歓喜の歌」の英語ヴァ―ション。
そして歌っているのは、今年ストリーミングチャートで年間首位を獲得したYOASOBIの幾田りらさん。
幾田さんの美しい歌声と映像がマッチしている。
そして「新型コロナウイルス」の感染拡大で、忘れてしまっていた「日常」が「コロナ禍」の中にもあり、その中には「次への希望」がある、と気づかせてくれているような気がする。

先日知人と話しをしていた時、その知人が中々興味深いことを話していた。
それは「窓から見える風景が、人によって違う」という話だった。
「コロナ禍」で、多くの人は俯き下ばかりを見る生活になってしまったように思う。
当然「窓から見える風景」は、明るいものではないはずだ。
しかし顔を上げ、空を見ている人には全く違う風景が見えているはずだ。
その方は「窓から見える風景」と、表現をされたが違う言葉にするなら「気持ちの持ちよう」ということなのかもしれないし、違う視点で考えること、ということになるのかもしれない。

その「窓」の話を聞きながら思い出したことは、キリスト教における「窓」は「イコン」と呼ばれ、英語にすると「アイコン」になる、ということだった。
私たちがほぼ毎日のように使っているPCに表示される「アイコン」は、作業への入り口だ。
とすれば「違う窓」を見ようとすることで、これまでとは違う発想、視点が生まれてくるはずだ。
それは特別なモノではなく「日常の中にある」のように思えるのだ。

この年末、来年に向かって少しでも顔を上げ、空を見ることで、「日常の中にある希望の窓」が見えてくるかもしれない。
サントリーのCMは、そんなコトを気づかせてくれたような気がしている。




「コロナ禍」で影を潜めた、華やかなクリスマス広告

2020-12-17 21:15:22 | CMウォッチ

例年であれば、来週の今頃は「クリスマスソング」と共に、街が華やかな雰囲気に包まれているはずだ。
しかし、今年はご存じのように「新型コロナ」の感染拡大により、「自粛生活」を余儀なくされそうだ。
「自粛生活」だからと言って、「家族でクリスマスパーティー」を予定されている方も、少なからずいらっしゃるのでは?と、思っている。
ただ、「クリスマス商戦」真っただ中のはずの今頃、例年見るはずの華やかな海外の有名ブランドの広告を目にすることがほとんどない。
普段とさほど変わらない広告を目にするばかりで、「今年のクリスマス気分は感じられないな~」という、印象を持っている。

特にYahoo!のバナー広告には、例年であればエルメスなどの広告が、表示されていた。
エルメスなどの海外有名ブランドの広告は、ストーリー性があるため1回に表示される広告時間が長いだけではなく、相当作り込まれたある種の「ドラマ仕立て」のような広告なので、つい見入ってしまうことも多い。
そんな経験をされた方も、今まで多かったのではないだろうか?

そのような華やかなクリスマス気分を感じる広告は姿を消し、代わりに表示される広告が「新型コロナ」に関する政府広告であったり、時には製薬企業の広告であったりする。
昨日から日本がすっぽりと大寒波に覆われ、各地で積雪を観測したためか?スノータイヤへの切り替えを勧めるタイヤメーカーの広告なども表示された。

「広告」そのものは、その時々の生活者の気分や気持ちを掬い取り、表現することが多い。
それは、その広告を見ている人たちから「共感」してもらうためだ。
これまでクリスマスシーズンに展開されてきた、海外の有名ファッションブランドの広告は、「クリスマスだからこそ、特別なギフトを贈りましょう」という、生活者への訴えかけだったのだ。
それが「新型コロナ」の世界的な感染拡大により、有名ファッションブランド各社が、広告そのものを取りやめてしまったのでは?という気がしている。
それは、日々の生活に追われる人たちが日に日に増えている状況で、例年通りの華やかな広告を出せば「共感」どころか「不快感」を生活者に与えかねない、という判断があるからだろう。

それでなくても、海外の有名ファッションブランドは、多くの生活者にとって「生活に不急の商品ではない」からだ。
「不急の商品ではない」からこそ、クリスマスのような華やかで家族が集まり、楽しい一時を過ごすホリデーシーズン向きの商品であり、楽しいホリデーシーズンとは言い難い今の状況にはそぐわない商品である、ともいえるだろう。

とはいうものの、華やかさを感じられないクリスマスは、どこか心寂しい。
1日も早く、例年通り賑やかな日々を取り戻すためには、「耐える」ことしかないのだろうか?
海外の有名ファッションブランドが表示されないバナー広告を見ながら、今年の社会的雰囲気の暗さを改めて感じている。


すぐそこにある「壁」を壊すのは、誰だ-ナイキのCMが突き付けるもの-

2020-11-29 21:01:24 | CMウォッチ

久しぶりにインフルエンザの予防接種をし、昨日から「副反応」で、体調不良に陥ってしまった。
予防接種を毎年のように受けていれば、これほど酷い「副反応」は起きなかったと思うのだが、致し方ない。
そんな体調不良の中、フッと目に留まったCMがある。
ナイキの「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn's Waiting. Nike」という、CMだ。

ナイキは、過去にも「スポーツを通して様々な問題提起をするCM」を制作してきた。
昨年は「Dream Crazier」というテーマで、「性差によるスポーツの壁」を壊してきた女性たちの姿を取り上げてきた。
それは社会にある、「差別」ということにもつながる。

今回ナイキジャパンが制作した「動かしつづける、自分を、未来を。」という内容のCMは、私たち日本人の中に潜んでいる「ナショナリズムあるいは同調圧力」をえぐり出しているような気がするのだ。
肌の色、国籍はもちろん、学校という社会の中で求められる「同化性」のようなモノに対して、「それでいいの?」と問いかけているようにも思える。
と同時に、最近聞かれるようになった「マウント」という行為の、醜さも伝えているようにも感じている。

スポーツの世界でいうなら、世界で活躍をしている女子テニスプレーヤーの大阪なおみ選手やNBLで活躍をしている八村塁選手のように、一見日本人とは思えない風貌の選手であっても日本人プレーヤーとして活躍をしている、と知ると私たちは心躍るような感覚を持つことがある。
八村選手のように、子どもの頃から日本で生活をしバスケットという才を磨いて、NBLのスカウトの目に留まるまでどのような苦労があったのだろうか?ということには、思いをはせることはほとんどないのでは?
そこには「大阪選手や八村選手が、日本人である」という、自分とは関係がないのに一種の「ナショナリズム」という思考の中で、誇りに感じているに過ぎないのではないだろうか?

上述したように、最近「マウントする(あるいは「マウントを取る」)」という言葉を、聞くことが多くなったような気がする。
「マウントする」というのは、サルの「マウンティング」と呼ばれる行動からきているのだと思うのだが、一つでも話し相手などよりも優れている何かを発見すると、優れていることを理由に「相手を下に見て、自分の優れていることを周囲にアピールする」という行為のようだ。
厄介なことに、親や配偶者の経済力のように自分本来とは関係のない要素で、優位に立ちたい=マウントしたい、という人達も見受けられる。
このような「他者と自分を比較し、上下関係をつくろう」とする気持ちこそ、卑しいと思うのだがその卑しい行為が、一つの自慢行為のように勘違いをするような人たちが、表立って増えているような気がする。

そしてそのような行為をする人達が最初に目をつけるのが、容姿であったり国籍であったりするのだ。
そんな「マウントされる側」の少女たちの姿を通して、「自分らしく立ち上がる」大切さをこのナイキのCMは表現していると思う。
「マウントされる側」の人たちへのエールでもあり、「マウントする側」への痛烈な批判でもあるようにも思えるのだ。


企業と生活者の感覚のズレ-ポカリスエットの高校生CM-

2020-07-26 20:06:12 | CMウォッチ

Yahoo!のあるトピックスを見ていたら、あるCMについて企業側と受け手側が大きくズレている、コメントがあった。
Yahoo!トピックス:話題のポカリCM最新作「びしょびしょになりながら」中高校生の”今”を全力表現

いわゆるヤフコメを読んでみると、「押しつけ感が凄い」という言葉が目立つ。
CMを見て「今の高校生の青春をしている姿は、これ!!」というイメージを押し付けられている、と感じている大人が多いようなのだ。
実際の中高校生のコメントは、どれほどあるのか?というと、不明な点も多いのだがテレビCMで「押しつけ感」を生活者に与えるというのは、テレビCMとして「成功している」といえないだろう。

もちろんテレビCMは、虚構の世界なので”今”の中高校生が、これほど明るく躍動的にイキイキしているのか?という疑問はある。
我が家の近所に高校があり、通学をする生徒たちの姿を見ても「高校生活を楽しんでいる」とは思うのだが、これほど弾けた高校生活はしていないと思う。
むしろ、私が高校生だったころとさほど変わらない「高校生活(学校・部活・受験・時々恋バナ?)」を過ごしているのでは?と、感じている。
テレビCMのように、満面の笑みで躍動的な中高校生活を送っている生徒は、ほとんどいないのでは?

これはあくまでもテレビCMとして制作されているので、「誇張」されている部分もあるはずだ。
ヤフコメに投稿している人達も、そのコトは十分理解しているはずだ。
にもかかわらず「押しつけ感が凄い」と、コメントされてしまうのは、ポカリスエット側が考えている「青春群像」が”今”と違うからでは?という気がするのだ。

テレビCMのように、「キラキラした青春・学校生活」を送れるのはごくごく一部の生徒なだけで、多くの生徒は「目立たない・受験の不安・将来の展望が見えない」日々を過ごしているのではないだろうか?
何より、「新型コロナ禍」において、賑やかで華やかなCMそのものが、受け入れられにくくなっているような気がするのだ。

もう一つ考えられるのは「集団」でダンスするという、「群像劇」的なアプローチに「なんとなく嫌」という気にさせているように思えるのだ。
言い方を変えるなら「CMから同調圧力」のようなモノを、感じているのでは?という、気がするのだ。
今の社会全体が持っている「閉塞感」のようなモノが、より強く受け手となる生活者に「同調圧力」のようなモノを感じさせている、という気がしている。

「たかだかテレビCMで、大袈裟な!」といわれるかもしれないが「テレビCM」の世界で創り出された「誇張した世界」が、時には「この世界を目指さなくては!」とか「このような世界観が正しい」というような、一種の圧力を感じる方も少なからずいらっしゃるのでは?ということなのだ。
高度成長期のテレビCMは「このような世界がありますよ~」という、一つの生活モデルを表現することで「生活者の憧れ」をつくり出してきた、という側面がある。
今回のポカリスエットのCMのような、群像劇的な演出となるとそのパワーそのものを強く感じる方も多いのではないだろうか?

人によっては「ポカリスエットのダンスをする中高校生」を見て、「青春しているな~」と感じられる方もいらっしゃるだろう。
感じ方は人それぞれなので、正しい・間違っているといえるものではないし、個人的な感じ方に他者があれこれ言う必要もない。
ただ「押しつけられ感」と感じる人達が、案外多いという事実を考えるなら、「青春の姿の多様性」を表現したほうが、多くの生活者から共感を得られたのでは?ということなのだ。

何故なら、今社会は「ダイバーシティ」と呼ばれる「多様性を認めよう」という方向へと動き始めている。
もちろん、ジェンダーギャップなど多くの問題を日本の社会は抱えているし、ネット上で「自分の正論」を繰り広げることで、多様性を認めない(あるいは「寛容性が無い」)動きがあることも確かだ。
だからこそ、テレビCMでは「群像劇」ではなく「多様性のあるしなやかな中高校生」の姿を表現したほうが、より多くの共感性が得られたのではないだろうか?


今年の2つのお正月CM

2020-01-01 09:42:27 | CMウォッチ

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年の暮れ、一つ感じたことがあった。
それは年末年始向けの広告を、ほとんど見かけなかったことだ。
「今やお正月も一つの祝日となってしまったのか?」という気がするほど、お正月に向けてのCMを見かけなくなってしまったような気がした(と言っても今はYahoo!などのAD広告なのだが)。

そのような中で「やはり!」という感じで、お正月限定のCMを制作していたのがサントリーのBOSS(youtubeでの限定)と富士フイルムだろう。
サントリーBOSS:ボス「ねぇ、寅さん」篇60秒サントリーCM

富士フイルム: 「お正月を写そう♪2020ラグビー七福神・音チェキ」

サントリーのBOSSは、映画「帰ってきた寅さん」とのジョイントCMということもあるが、お正月映画の定番として人気の高かったということを考えれば、お正月らしさを感じる昭和世代も多いのではないだろうか?

そして富士フイルムの「お正月を写そう」シリーズは、樹木希林さんが亡くなられたことでその継続となるCMがどうなるのだろう?と思っていたのだが、現在の富士フイルムのイメージキャラクターを務めている広瀬すずさんを起用し、お正月らしい華やかさを感じさせつつ、チェキの新機能を訴求する内容になっている。

しかし残念なことに、お正月CMと呼べるものはこの2社くらいしかない。
「おせちに飽きたらカレーもね」というキャッチコピーを長く使っていた「ククレカレー」は、コンビニやスーパーのお正月休みが無くなったことで、「おせち料理」そのものを楽しむ人たちが減ったことで、「今の時代にはそぐわないのでは?」ということで、制作されなくなった(ように考えている)。
ただ、今年くらいからコンビニのお正月休みが始まったことで、数年後コンビニやスーパーのお正月休みが定着することで、「ククレカレー」のような「おせちに飽きたら・・・」というCMも再び登場してくるかもしれない。

一つ言えることは、お正月という祝日が昭和の頃のような意味を持つ祝日では無くなりつつある、ということだろう。
年賀状ではなくスマホのラインで「あけおめ」とスタンプで、挨拶をする若者たちが多くなる中、渋谷などやアミューズメントパークで繰り広げられる「カウントダウン」と「お年玉」くらいが、お正月らしさとして残っていくのかもしれない。

サントリーの「寅さん」のCMを見ながら、そんなコトを思う年明けだ。



好感度の高いCMは、ストーリー性がある?!

2019-12-29 20:21:39 | CMウォッチ

毎年年末になると、様々なランキングが発表される。
そのうちの一つに、CMの好感度ランキングがある。
東京新聞:「三太郎」が5連覇!2019年CM好感度

上位になったのは、いずれも通信会社だ。
そして1位のauや2位のSoftbankなどは、ここ数年不動の順位という印象がある。
そして今年3位に食い込んできたのが、docomoの「星プロデューサー」のCMだ。
この3つのCMに共通しているのが、「CMにストーリー性がある」ということだろう。
auとdocomoに関しては「次回はどうなるだろう?」という、次の展開という期待もあるのでは?と、感じている。
逆に、Softbankの「白戸家」シリーズは、次回への展開という期待よりも「次回のゲストは誰?」という、楽しみ方に変わってきているような印象を持っている。
ご存じの通り、Softbankの「白戸家」は、10年を超すシリーズだからだ。
それでも、好感度調査で2位という順位は、定番化以上の安心感があるCMということになるのかもしれない。

その通信会社のCMに追いつきそうなCMが、花王の洗濯洗剤のCMだろう。
こちらは、所属している事務所が同じ人気俳優さん揃い踏みというCMだ。
これまで洗濯洗剤のCMと言えば、若い女性が定番だったのだが、ここ2,3年の傾向として女性に人気の俳優さんを起用する傾向が強くなってきている。
今回の花王のCMは、登場する人気俳優さんは上述した通り一人ではない。
複数の人気俳優さんが「洗濯男子」という設定で(?)、洗剤の機能について熱く語り合っている、というCMだ。

これまでの「泥汚れに強い」とか「真っ白な仕上がり」、最近では「部屋干しでもにおわない」というような台詞を、一つのCMに盛り込むだけではなく、新しくなったパッケージの利便性まで「熱く語り合っている」というシチュエーションだ。
単に人気俳優さん揃い踏み、という話題性だけではなく、その俳優さんたちに「洗剤の機能」を語らせることで、受け手となるユーザーに分かりやすく伝えることに成功している、ということになるだろう。
もちろん、「人気俳優揃い踏み」効果による好感度アップは当然だ。

最初に書いた通り、上位3位までの通信会社のCMには「次」というストーリー性があり、花王の洗濯洗剤のCMは「洗濯男子の集まり」というシチュエーションを描き出すことによってCMそのものにストーリーを持たせることに成功しているのでは?という、気がしている。

CMでの商品名の連呼というスタイルは既に無くなり、一つの商品やサービスを生活者の中にイメージ付けるためのシリーズ化できるのか?ということが今のCM制作の傾向のように思われる。
そのようなCMは、人を傷つけることもない、という安心感も企業側、制作者側にもあるのかもしれない。