日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

すぐそこにある「壁」を壊すのは、誰だ-ナイキのCMが突き付けるもの-

2020-11-29 21:01:24 | CMウォッチ

久しぶりにインフルエンザの予防接種をし、昨日から「副反応」で、体調不良に陥ってしまった。
予防接種を毎年のように受けていれば、これほど酷い「副反応」は起きなかったと思うのだが、致し方ない。
そんな体調不良の中、フッと目に留まったCMがある。
ナイキの「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn's Waiting. Nike」という、CMだ。

ナイキは、過去にも「スポーツを通して様々な問題提起をするCM」を制作してきた。
昨年は「Dream Crazier」というテーマで、「性差によるスポーツの壁」を壊してきた女性たちの姿を取り上げてきた。
それは社会にある、「差別」ということにもつながる。

今回ナイキジャパンが制作した「動かしつづける、自分を、未来を。」という内容のCMは、私たち日本人の中に潜んでいる「ナショナリズムあるいは同調圧力」をえぐり出しているような気がするのだ。
肌の色、国籍はもちろん、学校という社会の中で求められる「同化性」のようなモノに対して、「それでいいの?」と問いかけているようにも思える。
と同時に、最近聞かれるようになった「マウント」という行為の、醜さも伝えているようにも感じている。

スポーツの世界でいうなら、世界で活躍をしている女子テニスプレーヤーの大阪なおみ選手やNBLで活躍をしている八村塁選手のように、一見日本人とは思えない風貌の選手であっても日本人プレーヤーとして活躍をしている、と知ると私たちは心躍るような感覚を持つことがある。
八村選手のように、子どもの頃から日本で生活をしバスケットという才を磨いて、NBLのスカウトの目に留まるまでどのような苦労があったのだろうか?ということには、思いをはせることはほとんどないのでは?
そこには「大阪選手や八村選手が、日本人である」という、自分とは関係がないのに一種の「ナショナリズム」という思考の中で、誇りに感じているに過ぎないのではないだろうか?

上述したように、最近「マウントする(あるいは「マウントを取る」)」という言葉を、聞くことが多くなったような気がする。
「マウントする」というのは、サルの「マウンティング」と呼ばれる行動からきているのだと思うのだが、一つでも話し相手などよりも優れている何かを発見すると、優れていることを理由に「相手を下に見て、自分の優れていることを周囲にアピールする」という行為のようだ。
厄介なことに、親や配偶者の経済力のように自分本来とは関係のない要素で、優位に立ちたい=マウントしたい、という人達も見受けられる。
このような「他者と自分を比較し、上下関係をつくろう」とする気持ちこそ、卑しいと思うのだがその卑しい行為が、一つの自慢行為のように勘違いをするような人たちが、表立って増えているような気がする。

そしてそのような行為をする人達が最初に目をつけるのが、容姿であったり国籍であったりするのだ。
そんな「マウントされる側」の少女たちの姿を通して、「自分らしく立ち上がる」大切さをこのナイキのCMは表現していると思う。
「マウントされる側」の人たちへのエールでもあり、「マウントする側」への痛烈な批判でもあるようにも思えるのだ。


企業と生活者の感覚のズレ-ポカリスエットの高校生CM-

2020-07-26 20:06:12 | CMウォッチ

Yahoo!のあるトピックスを見ていたら、あるCMについて企業側と受け手側が大きくズレている、コメントがあった。
Yahoo!トピックス:話題のポカリCM最新作「びしょびしょになりながら」中高校生の”今”を全力表現

いわゆるヤフコメを読んでみると、「押しつけ感が凄い」という言葉が目立つ。
CMを見て「今の高校生の青春をしている姿は、これ!!」というイメージを押し付けられている、と感じている大人が多いようなのだ。
実際の中高校生のコメントは、どれほどあるのか?というと、不明な点も多いのだがテレビCMで「押しつけ感」を生活者に与えるというのは、テレビCMとして「成功している」といえないだろう。

もちろんテレビCMは、虚構の世界なので”今”の中高校生が、これほど明るく躍動的にイキイキしているのか?という疑問はある。
我が家の近所に高校があり、通学をする生徒たちの姿を見ても「高校生活を楽しんでいる」とは思うのだが、これほど弾けた高校生活はしていないと思う。
むしろ、私が高校生だったころとさほど変わらない「高校生活(学校・部活・受験・時々恋バナ?)」を過ごしているのでは?と、感じている。
テレビCMのように、満面の笑みで躍動的な中高校生活を送っている生徒は、ほとんどいないのでは?

これはあくまでもテレビCMとして制作されているので、「誇張」されている部分もあるはずだ。
ヤフコメに投稿している人達も、そのコトは十分理解しているはずだ。
にもかかわらず「押しつけ感が凄い」と、コメントされてしまうのは、ポカリスエット側が考えている「青春群像」が”今”と違うからでは?という気がするのだ。

テレビCMのように、「キラキラした青春・学校生活」を送れるのはごくごく一部の生徒なだけで、多くの生徒は「目立たない・受験の不安・将来の展望が見えない」日々を過ごしているのではないだろうか?
何より、「新型コロナ禍」において、賑やかで華やかなCMそのものが、受け入れられにくくなっているような気がするのだ。

もう一つ考えられるのは「集団」でダンスするという、「群像劇」的なアプローチに「なんとなく嫌」という気にさせているように思えるのだ。
言い方を変えるなら「CMから同調圧力」のようなモノを、感じているのでは?という、気がするのだ。
今の社会全体が持っている「閉塞感」のようなモノが、より強く受け手となる生活者に「同調圧力」のようなモノを感じさせている、という気がしている。

「たかだかテレビCMで、大袈裟な!」といわれるかもしれないが「テレビCM」の世界で創り出された「誇張した世界」が、時には「この世界を目指さなくては!」とか「このような世界観が正しい」というような、一種の圧力を感じる方も少なからずいらっしゃるのでは?ということなのだ。
高度成長期のテレビCMは「このような世界がありますよ~」という、一つの生活モデルを表現することで「生活者の憧れ」をつくり出してきた、という側面がある。
今回のポカリスエットのCMのような、群像劇的な演出となるとそのパワーそのものを強く感じる方も多いのではないだろうか?

人によっては「ポカリスエットのダンスをする中高校生」を見て、「青春しているな~」と感じられる方もいらっしゃるだろう。
感じ方は人それぞれなので、正しい・間違っているといえるものではないし、個人的な感じ方に他者があれこれ言う必要もない。
ただ「押しつけられ感」と感じる人達が、案外多いという事実を考えるなら、「青春の姿の多様性」を表現したほうが、多くの生活者から共感を得られたのでは?ということなのだ。

何故なら、今社会は「ダイバーシティ」と呼ばれる「多様性を認めよう」という方向へと動き始めている。
もちろん、ジェンダーギャップなど多くの問題を日本の社会は抱えているし、ネット上で「自分の正論」を繰り広げることで、多様性を認めない(あるいは「寛容性が無い」)動きがあることも確かだ。
だからこそ、テレビCMでは「群像劇」ではなく「多様性のあるしなやかな中高校生」の姿を表現したほうが、より多くの共感性が得られたのではないだろうか?


今年の2つのお正月CM

2020-01-01 09:42:27 | CMウォッチ

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年の暮れ、一つ感じたことがあった。
それは年末年始向けの広告を、ほとんど見かけなかったことだ。
「今やお正月も一つの祝日となってしまったのか?」という気がするほど、お正月に向けてのCMを見かけなくなってしまったような気がした(と言っても今はYahoo!などのAD広告なのだが)。

そのような中で「やはり!」という感じで、お正月限定のCMを制作していたのがサントリーのBOSS(youtubeでの限定)と富士フイルムだろう。
サントリーBOSS:ボス「ねぇ、寅さん」篇60秒サントリーCM

富士フイルム: 「お正月を写そう♪2020ラグビー七福神・音チェキ」

サントリーのBOSSは、映画「帰ってきた寅さん」とのジョイントCMということもあるが、お正月映画の定番として人気の高かったということを考えれば、お正月らしさを感じる昭和世代も多いのではないだろうか?

そして富士フイルムの「お正月を写そう」シリーズは、樹木希林さんが亡くなられたことでその継続となるCMがどうなるのだろう?と思っていたのだが、現在の富士フイルムのイメージキャラクターを務めている広瀬すずさんを起用し、お正月らしい華やかさを感じさせつつ、チェキの新機能を訴求する内容になっている。

しかし残念なことに、お正月CMと呼べるものはこの2社くらいしかない。
「おせちに飽きたらカレーもね」というキャッチコピーを長く使っていた「ククレカレー」は、コンビニやスーパーのお正月休みが無くなったことで、「おせち料理」そのものを楽しむ人たちが減ったことで、「今の時代にはそぐわないのでは?」ということで、制作されなくなった(ように考えている)。
ただ、今年くらいからコンビニのお正月休みが始まったことで、数年後コンビニやスーパーのお正月休みが定着することで、「ククレカレー」のような「おせちに飽きたら・・・」というCMも再び登場してくるかもしれない。

一つ言えることは、お正月という祝日が昭和の頃のような意味を持つ祝日では無くなりつつある、ということだろう。
年賀状ではなくスマホのラインで「あけおめ」とスタンプで、挨拶をする若者たちが多くなる中、渋谷などやアミューズメントパークで繰り広げられる「カウントダウン」と「お年玉」くらいが、お正月らしさとして残っていくのかもしれない。

サントリーの「寅さん」のCMを見ながら、そんなコトを思う年明けだ。



好感度の高いCMは、ストーリー性がある?!

2019-12-29 20:21:39 | CMウォッチ

毎年年末になると、様々なランキングが発表される。
そのうちの一つに、CMの好感度ランキングがある。
東京新聞:「三太郎」が5連覇!2019年CM好感度

上位になったのは、いずれも通信会社だ。
そして1位のauや2位のSoftbankなどは、ここ数年不動の順位という印象がある。
そして今年3位に食い込んできたのが、docomoの「星プロデューサー」のCMだ。
この3つのCMに共通しているのが、「CMにストーリー性がある」ということだろう。
auとdocomoに関しては「次回はどうなるだろう?」という、次の展開という期待もあるのでは?と、感じている。
逆に、Softbankの「白戸家」シリーズは、次回への展開という期待よりも「次回のゲストは誰?」という、楽しみ方に変わってきているような印象を持っている。
ご存じの通り、Softbankの「白戸家」は、10年を超すシリーズだからだ。
それでも、好感度調査で2位という順位は、定番化以上の安心感があるCMということになるのかもしれない。

その通信会社のCMに追いつきそうなCMが、花王の洗濯洗剤のCMだろう。
こちらは、所属している事務所が同じ人気俳優さん揃い踏みというCMだ。
これまで洗濯洗剤のCMと言えば、若い女性が定番だったのだが、ここ2,3年の傾向として女性に人気の俳優さんを起用する傾向が強くなってきている。
今回の花王のCMは、登場する人気俳優さんは上述した通り一人ではない。
複数の人気俳優さんが「洗濯男子」という設定で(?)、洗剤の機能について熱く語り合っている、というCMだ。

これまでの「泥汚れに強い」とか「真っ白な仕上がり」、最近では「部屋干しでもにおわない」というような台詞を、一つのCMに盛り込むだけではなく、新しくなったパッケージの利便性まで「熱く語り合っている」というシチュエーションだ。
単に人気俳優さん揃い踏み、という話題性だけではなく、その俳優さんたちに「洗剤の機能」を語らせることで、受け手となるユーザーに分かりやすく伝えることに成功している、ということになるだろう。
もちろん、「人気俳優揃い踏み」効果による好感度アップは当然だ。

最初に書いた通り、上位3位までの通信会社のCMには「次」というストーリー性があり、花王の洗濯洗剤のCMは「洗濯男子の集まり」というシチュエーションを描き出すことによってCMそのものにストーリーを持たせることに成功しているのでは?という、気がしている。

CMでの商品名の連呼というスタイルは既に無くなり、一つの商品やサービスを生活者の中にイメージ付けるためのシリーズ化できるのか?ということが今のCM制作の傾向のように思われる。
そのようなCMは、人を傷つけることもない、という安心感も企業側、制作者側にもあるのかもしれない。


CMづくりが、難しい時代

2019-11-04 20:38:26 | CMウォッチ

Yahoo!のトピックスを見ていたら「なるほどね!」と、思う記事があった。
元となった記事は、AUTOCARJAPANという自動車雑誌に掲載されていた記事だ。
AUTOCAR JAPAN:日本車のTVコマーシャル、外国人が海外で運転するシーン 理由は? 多様化で表現にも幅

我が家にテレビが無くなってから、8年以上経つので「CMを視聴する=Yahooなどで見ることができるもの」だけになってしまった。
それでも、自動車メーカー各社のCMは他の業種に比べ多いと感じている。
この記事がしているように、日本の自動車メーカーなのに、海外ロケ+外国人が運転するというCMがほとんどだ。
もちろん、ファミリー向け車種であれば、有名無名関係なく日本人タレントさんを起用して、日本のロケーションの良いところで撮影をする、ということが現実的だろう。
何故なら、ユーザーの生活シーンと大きくかけ離れてしまうと、車を使う生活シーンがつかみにくいからだ。
だからこそ、ママタレと呼ばれる女性タレントさんが運転席で、ママ友+子供たちというシーンのCMが、これまで数多くつくられてきたはずなのだ。

ここ1,2年で、自動車メーカー側が売りたい車種が変わってきたように、ネットのアドCMを見ていて感じている。
いわゆる「セダン」とか「スポーツ車」と呼ばれる、車種のアドCMが増えているような気がするからだ。
背景として考えられるのは、これまでファミリータイプのクルマのユーザーの家族構成が変化してきた、ということが考えられる。
ホンダのステップワゴン(初代)が登場したのは、今から20年余り前だったように記憶している。
とすると、このころにステップワゴンを購入した層は、既に50代だろう。
「子どもが成長し、子離れした世代」にとっては、ステップワゴンのようなクルマは大きすぎるし、結婚する前に乗っていた(であろう)スポーツタイプのクルマに買い替えることを検討するようになっても、おかしくはない。

もう一つ考えられるのは、様々なところで指摘されている「若者のクルマ離れ」だ。
「経済的ゆとりがない」という問題もあるが、都市部では公共交通機関が充実している為、あえて「維持コストの高いクルマを持つ必要はない」と、考える若者が増えているとも考えられる。
とすれば、メーカー側も中心となるユーザーを50代で比較的生活にゆとりができ始めている層に向けのCMづくりをするようになるのは、当然だろう。

今の50代はバブル経済の恩恵を受けた世代でもあるため、それなりの「高級感」や「グローバル感」を出さないと、興味を持ってもらえないと広告代理店が判断すれば、上述したような「海外ロケ+外国人の運転」ということになってしまうのは、仕方ない。
ただ、その結果似たり寄ったりのCMになってしまう、というのは広告代理店だけではなく、企業の担当者が「守り」に入っているのでは?という、気もしている。

確かに1980年代~1990年代はじめの頃のCMは、今見ても新鮮さを感じるものが多い。
各社が、自社の文化をCMに入れようという気概もあれば、知恵を絞る時間もたっぷりあったように思うのだ。
「広告媒体」の種類が多くなり、それぞれの「媒体に合わせた広告をつくる」という、枠を一度取り払い、「CMとは何か?」というところから、問い直す必要がある時代になってきているのではないだろうか?



「宝島社」の1月広告が問いかけるもの

2019-01-07 19:10:51 | CMウォッチ

今朝、朝刊の中ほどあたりに「宝島社」の2面を使った広告があった。
「宝島社」の広告は、朝日、讀賣、日刊ゲンダイに掲載されていたようだ。
その広告について、Buzz Feed News が取り上げている。

Buzz Feed News :「嘘に慣れるな、嘘を止めろ、今年、嘘をやっつけろ」宝島社の広告に反響 

広告意図は、この記事にある通りだろう。
今世界中で「嘘(あるいはフェイク)ニュース」が無数に飛び交っている。
米国のトランプさんは、「自分の都合が良いことが真実で、都合が悪いものは全て嘘(フェイク)」とTwitterで、呟いている。
多くの米国民は、それが「嘘」であると分かっているはずだが、トランプさんのTwitterを見て、自分の持っている何かしらの不満のようなモノに対して溜飲を下している、という人達も少なからずいる。それが、トランプさんの熱狂的な支持者となっている。

トランプさんほどではないにせよ、自分の都合の良し悪しで、適当な小さな嘘を言う人は、周囲にもいるだろうし、自分自身も同じようなことをしていることはあるはずだ。
問題は、その「嘘」が多くの人を傷つけ、不信を呼び、社会に断絶を起こすまでになっている、という点だろう。
そして「その嘘」が、真実として捉えられ、間違った認識が広がることで、社会は大きく変わってしまう。
今回の広告の中でも、朝日新聞に掲載された「原油まみれの水鳥」の写真は、過去にあったタンカーなどの事故により、原油が流出する度に同じような写真を見てきた。
それが、「ある特定の国が故意に行ったこと」として、制裁という名の戦争の切っ掛けだったら。
真実かどうかを確かめることなく、戦争へと導く指導者が今多くなりつつある、という、問いかけをしている。
確かに、上述したようにトランプさんのTwitterは、「自分の都合が良い=真実。都合が悪い=嘘」という内容がほとんどだ。
トランプさんのように分かりやすい指導者であれば、まだしも世界中の指導者がトランプさんのように分かりやすい人物ではない。
むしろ、トランプさんのような指導者は少ないだろう。

彼らの多くは、市民が分からないように真実と嘘を上手に混ぜ合わせることで、「嘘を真実」のように見せかける。
それが、時には戦争を引き起こすことになり、「嘘」を信じた市民の多くはヒットラーの「全体主義」のような体制に飲み込まれ、場合によっては自ら「(結果として)嘘をつく」ことになる。
そのような危険性を、今回の「宝島社」の広告は訴えているのでは?という、気がするのだ。

記事にあるように、「宝島社」の広告は社会に問いかける広告が多い。
1980年代~2000年代のベネトンの広告を手掛けた写真家・オリビエーロ・トスカーニほどのセンセーショナルさはないが、広告としての役割である「社会に問いかける」という点では、「広告の力」をまざまざと見せつけていると思う。
そしてそのような広告を出す企業が、今ではほとんどなくなっている、というのも今という社会の姿なのかもしれない。


インパクトがあり過ぎるdocomoの料金CM

2018-10-19 21:17:56 | CMウォッチ

最近Yahoo!のバナー広告によく表示される、docomoの料金のCM
docomo:家族3人で人あたり1,980円/月(税抜き)

docomoのCMと言えば、この秋随分イメージを一新させた。
NTTdocomo:みんなを、ドまんなかに。
企業CMとしては、今人気がある俳優さんなどを配した、手堅い(?)CMを製作しているな~と、感じさせる内容だと思う。
auやSoftbankのCMのような、シーズンごとにストーリー性のあるCMを展開していきたい、という意思も感じられる。
というのも、auのCMはここ1,2年好感度の高いCMとして、若い世代を中心に人気がある。
ご存じのSoftbankの「白戸家」のCMは、中心となる「白戸家」は変わらず、様々な人物が関わるというストーリー仕立てのCMの先駆者的な存在で、長い間好感度の高いCMとしても評価されてきた。

その間NTTdocomoのCMは、単発的というかあまり印象に残らないCMだったような気がする。
その理由は、起用されるタレントさんや俳優さんが変わるということもあっただろうし、auやSoftbankのようなキャラクターの存在が無かった、ということもあるだろう。
その意味では、今回の「みんなを、ドまんなかに。」というCMは、auやSoftbankのようなストーリー仕立てでシリーズ化をし、生活者にdocomoというブランドのイメージの定着を図ろうとしている、と感じられる内容だと思う。

思うのだが、それよりもインパクトがあるCMがdocomoの料金のCMだという印象がある。
基本料金となる金額を連呼する、というだけではなく、アニメの一休さんの被り物がとにかく唐突で、インパクトがあり過ぎるように感じるのだ。
このCMを見た後、docomoの企業CM「みんなを、ドまんなかに。」が、どのようなCMであったのか?!一瞬思い出せないほどだ(私だけかもしれないが)。

これほどインパクトのあるCMになってしまうと、料金プランに対する訴求効果は高くなるが、そのイメージが強すぎて企業CMの存在そのものが忘れ去られる?!ような気がする。
auやSoftbankのCMを思い出してほしいのだが、auにしてもSoftbankにしても、ストーリー性のあるCMというだけではなく、CMそのものが企業イメージと料金プランを含めた新サービスのCMになっている。
だからこそ、auはauの新料金プランやサービスを、SoftbankはSoftbankの新料金プランやサービスが、CMの物語の中で違和感なく生活者に入っていくのだ。

それが、企業CMと料金プランのCMがそれぞれ独立し、料金プランのCMのほうがインパクトがあり過ぎると、生活者は料金プランばかりに注目が集まってしまう。
新しい「みんなを、ドまんなかに。」というCMの意図は、一体なんだったのか?ということも含め、NTTdocomoとして訴えたい内容が伝わらない、ということになる。

確かにテレビCMには、それなりのインパクト(=生活者に強い印象)を与える必要がある。
しかし、度が過ぎた?!CMは、それだけが目立ち、関連する印象を失くしてしまう、という可能性がある、ということを教えてくれているような気がする、docomoの料金プランのCMだ。


HONDAの企業CM「ORIGAMI」に込められたモノとは

2018-09-28 16:57:39 | CMウォッチ

HONDAの70周年記念のCMがmyoutubeで公開されている。
youtube:HONDA“ORIGAMI"

動画では、本田宗一郎が補助エンジンを自転車に取り付けたところから始まる。
この「補助エンジンをつけた自転車」が、HONDAの始まりだったのだ。
実際、小学生の頃住んでいた浜松では、ご近所のお年寄りの中には、資金難に困る本田宗一郎にお金を貸した方も多く、お年寄りたちは「自転車にエンジンを付けて、ポンポンと走らせておった!」と、いう話を幾度か聞いたことがある。
このお年寄りたちは、バイクと言わず「ポンポン」と呼んでいたことも、懐かしい思い出である。

それから70年、HONDAは創業者である本田宗一郎の「夢」と共に、事業を発展させてきたように思う。
最初の二輪車から自動車とF1レース、そして(小型)ジェット飛行機だ。
そんな本田宗一郎の「夢」を、折り紙という手法で一コマ一コマ撮影したのが、今回のCMだ。
今時、CGを使えばもっと凝ったCMがつくれただろう。
にもかかわらず、あえて人がひとつづつ紙を折る「折り紙」を使い、一コマ一コマ撮影をするという手間暇かかるCMをつくったのは、何故だろう?
「夢」を持ち・描くことができるのは、人にしかできないコトだと、考えたからでは?という、気がしている。

このHONDA“ORIGAMI”のサイトには、HONDAの歴史を見ることができるコンテンツがある(Productの最初に紹介されるA型補助エンジンのプロダクト内)。
「補助エンジンを付けた自転車」というのは、今見るとやや衝撃的なものだ。
あくまでも自転車が主であり、それをサポートする為にエンジンがあるということだとしても、エンジンと自転車のペダルが共存している、というのは、今では考えられないように思う。
それが「ファミリーカーのトヨタ」、「技術の日産」という、1960年代の企業コピーでわかる「クルマ」対する考え方の違い、というものも感じる。
トヨタにしても日産にしても「クルマ」という枠の中で、企業の製品づくりを考えているのに対して、どこか人間臭さのようなものがHONDAには感じられるのだ。
それが「ASHIMO」という、人型ロボットを創り出したのでは?という、気すらしてくる。

人だからこそ見られる「夢」。
「夢をかなえる力」を持っているのも、また人なのだ。
なんとなくだが、そんなことを感じさせるHONDAの70周年CMという気がする。

余談だが、HONDAのヒストリーで紹介されている1988年F1レースの写真は、圧巻というかF1というモータースポーツの迫力のようなものを感じさせる。
と同時に、日本がバブルに踊らされようとしていた高揚感も感じられる1枚だ。





「違う」ことを認め合う

2018-04-08 20:50:45 | CMウォッチ

今日の朝刊に、資生堂の企業広告が、掲載されていた。
資生堂:LOVE THE DIFFRENCES.

実は、この広告を見た時思い出したCMがあった。
随分前のAppleのCMだ。
Apple CM:「Think Different.」
このCMは、放映されたときも相当人気の高かったCMだったので、覚えている方も多いと思う。
ナレーションは、ジョブス本人と言われている。

ナレーションを聞くと「Crazy」と言う言葉が、幾度となく出てくる。
この場合もちろん「気が狂った」という意味ではなく、「並外れた情熱などを持っている」と解釈をしたほうが良いだろう。
だからこそ「Crazyな人」は、社会を変えることができる、という意味になるはずだ。
世間一般(というべきか?)とは「違う考え方をする」ということこそ、社会を変える力となる、ということだろう。

それに対して、資生堂の「Diffrences」の意味は、どちらかと言えば「多様性」という意味だと感じている。
「多様性」ということを大切にする企業でありたい、という企業メッセージだと思うのだが、「多様性」を認め合うことは、とても難しいことなのでは?という気がしている。

最近よく耳にする言葉の一つに「空気を読む」があると思う。
昨年からの流行語「忖度」ということになるかもしれない。
そのような社会的雰囲気の中で、あえて「違いを認める。多様性のある企業」という言葉を、企業メッセージとして使うということは、それだけ息苦しい社会になってきている、ということかもしれない。

そして「多様性」あるいは「他者と違う」ということを、認め合う社会に大切なこととは何か?という問いかけのような気もするのだ。
「他者を認め合う」ということは、実はとても難しいことだと思う。
何故なら「相手を尊重する」ということが根底にありつつ、「自己を確立しつつ、自分自身を尊重する」ということが重要だと思うからだ。

「自己を確立する」というと、昨今流行り(?)の「セルフブランディング」を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれないが、全く違う。
そもそも、人ひとりひとりがの存在が「特別」であり、「私は、〇〇な人」というような枠を、自分自身ではめ込むような「セルフブランディング」などは、必要ないと思っている。
むしろそのような「セルフブランディング」は、足かせになってしまうのではないだろうか?

「他者を認め、自分自身を尊重する」ということは、一朝一夕で身に付くものではないし、このような文を書いている私自身もまだまだだ。
だからこそ、その難しさに挑戦する意味があると思う。
何故なら「枠からはみ出る=社会の常識を疑い、挑戦をする」ということは、とても勇気のいることだからだ。
その視点で考えると、この広告はAppleの「Think Differncent」と通じるところがあるようにも感じている。

「Differnces」の意味は、言葉を変えた「挑戦」であり、「変革=イノベーション」企業でありたい、というメッセージなのだと思う。

 


自動車の進化に必要なインフラは、どうなっているのか?

2018-03-06 20:21:03 | CMウォッチ

Yahoo!のアドバナーに、日産のミニバン・セレナの広告が、頻繁に表示されるようになった。
日産:「NISSAN PRIDE セレナe-POWER誕生」篇
テレビCMを見ればわかるように、今回のセレナは電気で走る「電気自動車」だ。
しかもミニバンという、これまでよりも大きな車体の車を電気自動車として、投入してきた。
今年の初め、米国のテスラ社が大型の電気トレーラーを発表して以来の、大型車ということになるのかもしれない。
もっとも、テスラ社の大型電気トレーラーはまだまだ市場販売とはなっていなかったと思うので、今回の日産セレナが電気自動車として初めての大型車ということになるのかもしれない。
だからこそ、「日産がやらなくて、誰がやる」というキャッチコピーが、効いてくるのだ。

一昨年あたりから、欧州だけではなく中国でも電気自動車への転換を政策として、明確に打ち出している。
日本では、そこまで明快な打ち出し方をしていないのは、現在の主流となっているのがガソリンと電気を併用する「HV車」だからだろう。
欧州や中国などの電気自動車への政策転換により、日本のHV車が「ガラパゴス化」するのでは?という、懸念をされる方も少なからずいらっしゃる。
日本のHV車の「ガラパゴス化=日本車のガラパゴス化」と、考えられるからだ。

もちろん、そのような懸念があるのは十分に理解できるし、危機感を持つ必要があると思う。
ただ、問題は電気自動車の普及に似合うだけのインフラがどれだけ整備されているのか?という点だ。
拙ブログでも何度か指摘をさせて頂いているが、電気自動車を国やEUのように政策的に推し進める理由はただ一つ「CO2の削減」だ。
確かに電気自動車の普及により、自動車から排出されるCO2は削減されるだろう。
しかし問題は、その電気自動車を走らせる為の電気の供給をどうするのか?という点だ。

EUでは、自然エネルギーへの依存度を高める政策を打ち出しているが、電気自動車が今現在の自動車と同じ台数だけ走れる状況なのか?というと、疑問な点がある。
中国に関していえば、その問題はもっと深刻だろう。
何故なら、自国で排出されるCO2は自動車だけの問題ではなく、様々な工業製品の製造過程での削減が最優先されるべき問題だと考えている。

「電気自動車普及」には、実は自然エネルギーの普及と電気自動車への供給システム、蓄電池技術という複合的な問題が解決されて、初めて実現できるのだ(少なくとも、私はそのように考えている)。
もっと厳しいことを言えば、クルマを製造する工程でも電気を必要とする工程は、自然エネルギーへの転換が必要なのでは?と、考えている。
それほど、CO2削減の為の自然エネルギー活用というのは、難しい問題を抱えていると思っている。

だからだろう、トヨタ自動車が中心となって、水素電気の供給ステーションを供給する会社を自動車メーカーだけではなく、エネルギー企業を含め立ち上げた。
RESPONSE:トヨタなど11社、新会社「日本水素ステーションネットワーク」設立 オールジャパンで普及加速へ

おそらく技術的には、今年初めテスラ社が発表したような大型トレーラーの電気自動車化は、何の問題もないだろう。
むしろ問題なのは、その供給システムや製造工程でのCO2の削減対策なのではないだろうか?
その分野でいち早く「世界標準(あるいは世界基準)」を獲得する国や企業が、市場を押さえることができるのだと思う。