モバイルアート・パビリオン(建設中) in 代々木競技場

ちょうど会場がNHKホールの目の前なので、N響定期のついでに何枚か撮ってきました。いよいよ今月末より、東京・代々木の特設パビリオンではじまる「シャネル モバイル・アート」展です。


原宿側から見るとほぼ完成に近づいているようにも見えましたが…。


裏へ廻るとまだまだのようです。


会場外よりの撮影なのでピンぼけ等はご容赦下さい。


骨組みが剥き出しになっています。


外国人が作業員にしきりに指示を与えている姿も目につきました。なお、会場警備の方によれば、着工は5月初旬だったそうです。

シャネルの手がける世界巡回(香港、東京、ニューヨーク、ロンドン、モスクワ、パリ。)の展覧会ということで、直ぐにでも話題沸騰になるかと思いきや、メディア等の露出が少ないからなのか、それとも予約制という部分で出足のつまずきがあるのか、チケットにはまだ相当の余裕があります。今からでも問題ありません。

これから予約という方はぴあステーションがおすすめです。完全無料の超太っ腹のイベントですが、電子ぴあを経由して予約すると、ぴあお得意の手数料が一枚あたり300円程度かかります。ステーションではそれが無料です。(前もって「ぴあ/モバイルアート」で受付状況を確認した方が万全です。)

フラッシュオンリーの公式サイトが今ひとつ見にくいので、ぴあサイトなど、展示内容についてのページをいくつかリンクしておきました。内容についてはそちらもご参照下さい。

MOBILE ART(公式サイト)
excite x MOBILE ART IN TOKYO(事実上のメインサイトです。)
ぴあ/モバイルアート(予約サイト。受付は全日20分毎。)
シャネルのアート・プロジェクト「モバイルアート」、東京で5月31日から(AFPBBNews)
シャネル×アート&建築(OCN)


開催概要
期間:2008/5/31~7/4
会場:国立代々木競技場 オリンピックプラザ特設パビリオン(ザハ・ハディド設計)
料金:無料。但し、ぴあ、もしくは会期内会場受付にて事前の観覧予約が必要。
参加アーティスト:荒木経惟、ダニエル・ビュレン、イ・ブル、ソフィ・カル、田尾創樹、ロリス・チェッキーニ、ヴィム・デルヴォワイエ、レアンドロ・エルリッヒ、シルヴィ・フルーリ、楊福東、スボード・グプタ、ファブリス・イベール、ピエール&ジル、Y. Z. カミ、デヴィッド レヴィンソール、マイケル・リン、ブルー・ノージズ、スティーブン ショア、束芋



(第一回会場、香港での展示の様子。)

私は6月1日のチケットを予約しました。まだたくさん他にも残っているようなのでもう1日、別の日にも行ってみようかと思っています。(宜しければどなたかご一緒に…。)
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「国宝 薬師寺展」 東京国立博物館

東京国立博物館台東区上野公園13-9
「国宝 薬師寺展」
3/25-6/8



会期前にも一度拝見する機会を得ましたが、先日、再度改めて行って来ることにしました。東京国立博物館で絶賛開催中の「国宝 薬師寺展」です。

八幡様に始まり吉祥天に終る同展覧会ですが、やはりどうしても見入るのは三体の仏様、つまりは聖観音菩薩立像と日光、月光の両菩薩像です。シンメトリーでかつ、引き締まった体躯を披露しながら、まさに威厳に満ちた様相で世界を見据える聖観音、そしてチャーミングな風情も漂わせながら、慈しみのオーラを放つ両菩薩像は、思わず惚れてしまうほどの美しさをたたえていました。それにいわゆる観察ではなく、時間を忘れて半ば無心にてまじまじと見てしまうのは、やはりそれが単なる美術品を超越した『何か』であるからなのでしょう。また角度、立ち位置などはもちろんのこと、何気ない瞬間にハッとさせられるような表情を見せる気がするのも、仏像鑑賞における一種の醍醐味かもしれません。心が見透かされているかのようです。

全体的に丸みを帯びて重厚感のある日光菩薩、また腰のひねりもシャープな、やや筋肉質にも見える月光菩薩ですが、今回の展示の目玉でもある後ろ姿からの観賞となると、それとは異なった印象を与えてくれます。正面からではそのふっくらとした肉付き、もしくは静かに笑みを浮かべるような口元に母性も感じる日光菩薩の背面は意外にものっぺりしていて、逆に男性美を発するかのように無骨で逞しい月光菩薩はむしろふくよかに見えました。もちろん性という基準をここに当てるのは殆ど意味を為さないわけですが、ようは正面からでは女性的な日光菩薩、また男性的な月光菩薩が、背面からでは反対になっているようにも思えるわけです。それに全身をリラックスしたように起立して、何事にも動ぜず静かに泰然とある日光菩薩と、足を幾分ステップしながら、今にも前へ進み出すかのような躍動感をたたえる月光菩薩の所作も対比的にうつります。その様子から、半ば優しく受動的に信仰を引きつける日光菩薩と、能動的に恩寵を施す月光菩薩というイメージもわきました。



連休中は入場待ちの長蛇の列が出来ていたそうですが、この日(5/10)はあいにくの雨天だったせいか、会場内でそれほど混み合うことはありませんでした。ただし既に大入りの展示です。会期末には大変な混雑になることも予想されます。(混雑情報

仏様もそろそろお疲れかもしれません。6月8日までの開催です。

*関連エントリ
東京国立博物館で「国宝 薬師寺展」がはじまる(内覧会記事)
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「奥原しんこ - 眠る人 - 」 SCAI

SCAI THE BATHHOUSE台東区谷中6-1-23
「奥原しんこ - 眠る人 - 」
4/11-5/17



見慣れたようで見慣れない、どこか病んだ都市空間を、大胆な遠近感をもって表します。大作ペインティング、またインスタレーションによる、奥原しんこ(1973~)の本格的な初個展です。

元々、「おしゃれで都会的な作風」(画廊HPより。)で知られるという奥原ですが、今個展に登場する場所は、例えば空を遮る高架下の公園や、連なる屋根だけを切り取った乱雑なビル群、そして木や枝だけが異様な存在感を持って群れる梅林など、おしゃれとはやや遠い、人気の少ない街の場末でした。それらが艶の押さえられたピンクやグリーン、それにグレーなどの色面に包まれながら、空間が奥へ無限に引き延ばされる奇異な遠近感にて描かれています。そして、その風景の中に「眠る人」、つまりは雑誌等の紙片を切り貼りして出来たコラージュによる、言わば無個性で匿名の女性が横たわっているのです。下着姿など、場にも合わない衣服を着てくつろぐその様子は、歪んだ空間の効果も相まってか、しばらく見ているとどことない不安感を呼び覚ましてきます。土の中でもコンクリの上でもなりふり構わずして眠る女性たちは、どこかデルヴォーに見る裸女の如く、別の位相から飛んできた異界の人物たちのようにも見えました。

無数の昆虫のコラージュに吊るされたネットも、またそんな彼女たちの眠りの場なのでしょうか。不思議な空間を生み出していました。

5月17日までの開催です。
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「モーリス・ド・ヴラマンク展」 損保ジャパン東郷青児美術館

損保ジャパン東郷青児美術館新宿区西新宿1-26-1 損保ジャパン本社ビル42階)
「没後50年 モーリス・ド・ヴラマンク展」
4/19-6/29



嵐の画家、ブラマンクの画業を概観します。損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の「没後50年 モーリス・ド・ヴラマンク展」へ行ってきました。

構成は以下の通りです。海外の個人蔵の作品が数多く展示されています。(約80点)

1.「フォーブの時代」
 1893年、17歳の頃より絵を描き始めたヴラマンク。「父よりもゴッホを愛する。」とも述べたゴッホの影響。1900年、ドランと出会い、パリ西郊のシャトゥーにアトリエを借りた。フォーヴィズムの影響下の作品。
2.「セザンヌ風の時代」
 1907年、セザンヌ回顧展に接し、直線的で簡潔な構成と青を多様したセザンヌ風の作品を残す。自然主義的な方向へ。
3.「スタイルの確立」
 シュルレアリスムや抽象表現に背を向け、独自の画風に邁進したヴラマンクの世界。

 

知る機会の少ない初期作の揃う冒頭(第1章)がまた貴重ですが、初めの「室内」(1900-01)は、厳格で多面的な構成をとった彼らしからぬ興味深い作品です。茶色の調度品と、四角形の造形が印象に残る木目調の室内が、あたかもペンキを塗ったかのようなぶ厚いマチエールにて示されています。またキラキラと光る水面を、まるで石畳を表すかのような白と水色とで描く「ル・アーヴル港の帆船」(1906)や、明るいイエローが華やかに果実を支える「静物」(1906)なども、一見ではヴラマンクとは分かりかねる作品の一例かもしれません。ただ、総じてこの時期の作品は、第2章で紹介されるセザンヌ影響下のものよりも、後に現れるヴラマンクの特徴がストレートに出ています。「冬のシャトゥー」(1907)における、ややくすんだグレーの混じる雪景色の大地や木々の枝のうねる表現は、事物のぶつかり合うような激しさこそないものの、『ヴラマンク・スタイル』の萌芽が見られるとも言えるのではないでしょうか。名物だった舟遊びも衰退し、逆に水質汚染が問題にもなったとされる産業化を迎えた当時のシャトゥーを、ヴラマンクはこの薄汚れた色にて忠実に描いたのかもしれません。

 

セザンヌの時代は、後の独自のスタイルへ向かう完全な過渡期です。構成は直線を多用して簡潔になり、色彩もセザンヌの色、つまりは薄い青みをおびた透明感のあるものへと変化していきます。ここはまず「白いテーブルクロスの静物」(1909-10)が印象的です。何やらブラックを思わせるキュビズム風の線と面が錯綜する面白い作品ですが、この切子面を多用する構成はまず他のヴラマンクで見ることが出来ません。またセザンヌの色に近いものとして挙げられるのは、「川の上のヨット、シャトゥー」(1909-10)でしょう。色彩にセザンヌほどの繊細さが見られませんが、空や水面に見る瑞々しさや、小さな点描のようなタッチにて細かれた木立などにその影響を感じさせています。結局、ヴラマンクは、抽象にもキュビズムにも向かわず、セザンヌより受け継ぐ自然主義の面へと進みますが、他にも「三軒の家」(1910)や「橋のある風景」(1910)における一種の素朴さは、そうした側面を良く表している作品とも言えそうです。

 

スタイルの確立した後のヴラマンクは、それこそ絵筆によって風景や事物へ一心不乱に魂を与えていきます。つまりは力強く、またスピード感のある厚塗りのマチエールと、渦巻くような面が全体を支配する、言わば物の怪の取り憑いたような鬼気迫る嵐の風景などが次々と登場していくわけです。まるで水しぶきのように激しく交差する雪道と、今にもちぎれ飛びそうな木々の枝、そして暗鬱な空に雲の重くのしかかる「雪の道」(1934)は、ヴラマンクの魅力が凝縮された格好の一枚ではないでしょうか。その他、前景に大きく木が迫出し、後ろに寂寥感漂う麦の穂の広がる、あたかもロマン派詩人の歌う一情景を示したような「林檎の木とかむら麦の畑」(1942-43)や、天と地の境も失われ、道も空とが渾然一体となって今にも崩壊せんとばかりの森を描く「雪の覆われた下草」(1947-48)、さらにはもはやこの世の終わりを告げるような太陽が全てを爛れ焦がす「下草と太陽」(1954-55)など、思わず絵の前で立ちすくんでしまうような作品ばかりが並んでいました。激しさと強さと、その反面の儚さの同居したヴラマンクの世界が怒涛の如く示されています。

大好きな画家の回顧展というだけでも私は満足です。出来れば会期末までにあと何度か足を運びたいと思います。

6月29日までの開催です。なおこの展覧会は後、大分県立芸術会館(7/9-8/17)、鹿児島市立美術館(10/3-11/3)へと巡回します。
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N響定期 「ルトスワフスキ:オーケストラのための協奏曲」他

NHK交響楽団 第1619回定期公演Aプログラム

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番
パヌフニク カティンの墓碑銘
ルトスワフスキ オーケストラのための協奏曲

指揮 尾高忠明
ピアノ レオン・フライシャー
管弦楽 NHK交響楽団(コンサートマスター 篠崎史紀)

2008/5/11 15:00~ NHKホール2階



前半の「皇帝」はさて置くとしても、後半の2曲、パヌフニクとルトスワフスキは力演だったのではないでしょうか。尾高忠明の指揮によるN響定期を聴いてきました。

僅か10分にも満たないパヌフニク(1914-91)の「カティンの墓碑銘」は、冒頭の篠崎のソロも切ない響きも心に残る、実に叙情的な音楽です。ヴァイオリンソロに導かれるようにして木管群が静かに重なり合い、後に弦が感情を揺さぶるようなフレーズを奏でながら、一つの大きな音へと収斂して高らかに鳴り渡ります。この手の音を積み重ね、結果全体が一つになる音楽を聴くには、オーケストラを手堅くまとめることに定評のある尾高の指揮が適切です。各パートへ丁寧な指示を与え、特に木管のフレーズを巧みに浮き上がらせながら、端正なティンパニを下支えにして無理なく曲を進行させていきます。メインのルトスワフスキでも同様でしたが、弦、木管、金管などを秩序立って、言わば曲の構造の四隅をしっかりと揃えながら、いとも容易く音楽を整理する様子はなかなか見事です。安定感のある音楽とはまさにこのことを指すのではないでしょうか。聞き慣れない曲でしたが、全く違和感なく響きに耳を傾けることが出来ました。

ルトスワフスキはそのような安定感の上に、尾高の独特なリズムが奇妙にマッチしていた、やや個性的な演奏だったと思います。どちらかというと彼は弾けるようなリズムをとるよりも、むしろ腰の据えた、角も尖った硬いリズムで音楽を進めますが、このルトスワフスキでは時折登場する民族音楽風のモチーフに、何やら東欧というよりも日本の土着の民謡を連想させるような、極めて泥臭いリズムを与えていました。元々、協奏曲でありながら東欧の作曲家らしい民族的な要素の多いこの音楽に、さらに日本的な感性が加わるという、言わば東西の折衷を見るかのような興味深い表現であったと思います。また木管を始め比較的、好調なN響も、尾高の指揮に鋭く食いついていました。不満は殆ど残りません。

さて、あまりにも馴染みの深い名曲を、説得力のある演奏で聴かせるのはそもそも難しいことです。一曲目の皇帝は尾高の指揮を含め私には真面目過ぎ、また数十年にわたるブランクを経て復活を遂げたというエピソードを鑑みても、ソリストのフライシャーに感銘させられる部分が殆どありませんでした。教科書の解説文を読むような表情の硬いオーケストラに、何やら千鳥足のようにたどたどしいピアノはこの曲に全然似合いません。

Cプロのエルガーはまさに尾高の十八番です。そちらでも手堅く、また少しひねりのある音楽が楽しめるのではないでしょうか。
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「絵師がいっぱい - お江戸の御用絵師と民間画工」 板橋区立美術館

板橋区立美術館板橋区赤塚5-34-27
「絵師がいっぱい - お江戸の御用絵師と民間画工」
4/5-5/18



来館者を楽しませようとする美術館側の仕掛けも見逃せません。館蔵の江戸絵画、全40点を紹介します。板橋区立美術館で開催中の「絵師がいっぱい」展へ行ってきました。



鑑賞者をもてなす美術館の取り組みについてはこちらの記事が完璧なので繰り返しませんが、かのプライス展を超えるお座敷コーナーの屏風露出展示の一つを挙げれば、その優れた内容が伺えるというものではないでしょうか。畳の上の座布団で胡座をかきながら、ガラスケースどころか停止線すらない剥き出しの屏風を目と鼻の先で楽しめる贅沢といったらなかなかありません。その他にも入場無料、全点写真撮影可、さらには作品をより親しみ易くするための現代風タイトル、またはキャプション等、見る側にとってはこの上なく有り難い仕掛けが満載です。思わず、ここが公立の美術館であるということを忘れてしまうほどでした。

撮影可ということで、今回はいつもと趣向を変え、全40点の江戸絵画(一部、明治時代)のうち「私的ベスト10」を挙げたいと思います。ちなみに「」内は美術館が正式タイトルの他に「現代タイトル」として付けた名前です。

10.遠坂文雍「このブドウ 君にあげるよ」(葡萄二栗鼠図)



つがいのリスが単に目を合わせているだけと思いきや、下のリスの両手には大きな葡萄がのっています。「君にあげるよ」とは本当にうまいタイトルですが、墨の濃淡やとぐろをまく蔓の様子を見ると、かの若冲の葡萄図を連想するものがありました。

9.狩野正信「ひょっこりと…」(蓮池蟹図)



得体の知れない巨大生物のように生々しい蓮の葉に、ちょこんと蟹が乗っている可愛らしい作品です。両腕を振り上げる様子がグローブをはめたボクサーのようにも見えました。

8.酒井抱一「カボチャ顔の市兵衛さん」(大文字屋市兵衛像)

 

本展覧会の呼び込み芸人です。(勝手に認定。)顔がカボチャに似ていたという市兵衛を、抱一が即興的なタッチでコミカルに描いています。軸の紋様もまた粋でした。

7.柴田是真「今月のおすすめ」(十二ヶ月短冊帖)





各月の年中行事を短冊に仕立て上げた作品です。それにしてもこの首の羽子板のようなものは一体何なのでしょうか。キャプションにもその由来は不明とありましたが、生首が連なるようでグロテスクに思えます。

6.酒井道一「黄金に映える桐と菊」(桐菊流水図屏風)



抱一門下道一の、其一テイストに包まれた鮮やかな金屏風です。中央の水流や桐の幹のたらし込み、それに菊の花や葉の靡く様は抱一の様式を思わせますが、ベタッと塗られた木の葉や、全体の造形美の優先した構図等は、其一のそれを見るような気がします。

5.藤田錦江「エサに向かって今からジャンプ」(花鳥図)



ごく普通の花鳥画にも見えますが、岩場や芙蓉の花などが驚くほど繊細な筆遣いで表現されています。また岩場を挟んだ上下の空間がどこかシュールです。ムクドリが鷲のように大きく描かれていました。

4.作者不詳「流行のダンス」(大小の舞図)



一見地味ですが、細やかな部分まで丁寧に表された衣装の描写、または扇子を振り上げて踊る人物の躍動感などが伝わる見事な作品です。ステップは軽快でした。

3.伝狩野探幽「風神&雷神」(風神雷神図屏風)







大胆に取られた余白に風と雨の気配を見る優れた作品です。紅白の風神雷神というのも面白く思えますが、特に風神の吹き出す大風によって吹き飛ばされそうな人々の姿が臨場感に溢れています。まるでこの世の終わりが来たかのような慌てぶりです。

2.狩野栄信「家路」(山水図屏風)



夏山と冬山が水辺を挟んで対峙しています。その広々とした水辺や大空に無限の空間の広がりを感じました。彼方にのぼる月は刹那的ですらあります。

1.川又常正「行かないで」(青楼遊客図)



現代風タイトルがこれまた面白い作品です。桜屏風を前にした遊女が、しきりに外の様子を気にする旦那へ寄り添う光景が描かれています。それにしてもこの遊女、ただ者ではありません。愛おしくすがっているようでもその目だけは鋭く光り、この男の度胸をしっかりと見定めています。それに対しての旦那は全くをもって間抜け顔です。こうした局面での女性のある種の鋭さと、すこぶる判断に弱い男の情けなさが痛いほどよく伝わってきました。

如何でしょうか。いわゆる大家は決して多くありませんが、それでもなかなか見応えのある作品が揃っていました。

ちなみに関連イベントの「日本美術講演会」も進行中です。既にその殆どを終えてしまいましたが、今月17日に開催される佐藤康宏氏の「18世紀の京都画壇」は出来れば聞いて来たいと思います。

展覧会は18日までの開催です。おすすめします。
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「山下美幸 - ノンシャラン - 」 TSCA Kashiwa

TSCA Kashiwa千葉県柏市若葉町3-3
「山下美幸 - ノンシャラン - 」
4/19-5/17



TSCA初となるいわゆる絵画を題材とした展覧会です。流れるような色彩を自在に操り、シュールな物語風のドローイングを手がける山下美幸(1979~)の新作個展を見てきました。

上のDMにもある従来作の「リリパット」シリーズには、眠る女性の顔が丘となり、また突き出す脚が岩場へと変化して小人が寄り添うという、まさにガリバー旅行記を彷彿させる光景が登場しますが、今新作でもその基調となるダブルイメージ的な構成は何ら変わることがありません。「すべての夜のために」(2008)では、脱力感の漂う少女らがプールサイドでだらんと腕を垂らしている様子が描かれていますが、その下に目を転じると、溢れた水がそのまま巨大な滝壺へと落ちているような景色へ変わり、少女らの肩に乗る小人たちとスケールの調和した不思議な姿を見せています。また、明暗の対比も鮮やかな、まるでムンクを思わせるような流れる色彩感とタッチも魅力の一つです。水中で混じり合うかのような色面が緩やかに形を変えながら、いくつかの次元を同時に絵に取り込むことに成功しています。しばらく見ていると自分の位置が、一体小人にあるのか、それとも大きな眠る女性にあるのかが分からなくなりました。このような見る側の視座を揺さぶる感覚も面白さの一つです。

錯綜するイメージが「異時同図法」的に処理されたパノラマ絵巻も見応えがあります。山下に特徴的な輝くような白い水柱からスタートし、それがいつの間にか熱帯のジャングルのような暗がりの空間へと潜り込んだかと思いきや、その姿は巨大な動物の背中へと姿を変え、いつしか尻尾の先から海を望む岩場の空間へと開放されていました。通常と絵巻とは逆に左から進むというこの作品には、得意とするダブルイメージにもう一つ、時間の流れという軸が加わっています。この映像感もまたたまりません。

ところで柏での活動をしばらく休止していたTSCAですが、本年中はこの個展を含め、あと4~5回程度の展示を予定しているそうです。直近では次回、今月24日からコレクション展がはじまります。今年のコンテンポラリーアートシーンは柏にも要注目です。

17日まで開催されています。もちろんおすすめします。
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「ガレとジャポニスム」 サントリー美術館

サントリー美術館港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン・ガーデンサイド)
「ガレとジャポニスム」
3/20-5/11



ガレをこれほどまとめて見たのは今回が初めてです。ガレの芸術におけるジャポニスムの変遷を、約140点ほどの品々にて概観します。サントリー美術館の「ガレとジャポニスム」へ行ってきました。



内容は、ガレの創作を時系列に辿りながら、そこに見られるジャポニスムのあり方を多面的に探るものですが、特に感慨深く思えたのは、ガレがジャポニスムの様式からさらに深化するため、いわゆる日本的な美意識へ立ち入ろう努力する、その思索の道程です。ガレが最終的にロカイユを抜け、例えば「もののあわれ」を体得したかどうかは不明ですが、彼の感性がそうした要素に惹き付けられていた様子がこの展示を見る限りにおいても明らかに感じられます。北斎漫画のモチーフを借りた「蓮に蛙」(1880-84)から、日本の茶碗の姿をとった「菊風」(1889)、そして日本の象徴としての蜻蛉をガレ自身の刹那的な詩心でまとめあげた「蜻蛉・ひとりぼっちの私」(1889)には、まさに単なる日本への憧憬を通り越した『ガレの中の日本』が体現されているとも言えるのではないでしょうか。ガレのジャポニスムを単に様式の面だけで語ると、その内面を見失ってしまうのかもしれません。



特に惹かれた作品を二点ほど挙げます。まずは、例えば近代日本画の描く山水を思わせる「壺 過ぎ去りし苦しみの葉」(1900)です。ガラスのキメにちりめんをかけたような描写がなされ、交錯する黒や白の合間から、木々に覆われた森の小径の情景が仄かに浮かび上がってきます。その姿は、あたかも葉を落とした冬の木々へ降り積もる雪のようでした。幽玄さを感じます。



もう一点は、モネの絵画のような色彩感が美しい「花器 蜉蝣」(1889-1900)です。そもそもカゲロウは当時、ヨーロッパで日本を表すモチーフとしてよく使われていたそうですが、ガレは命も短いそのかげろうに見る儚さをこの花器に見事に写し出しています。またうっすらと白んだ花畑を舞うかのようなカゲロウが、どこか実体のない幻影に見えてくるのが不思議でなりません。そしてこのカゲロウこそ、ガレの創作の理解を深めるキーワードでもあります。(第4章「ガレと蜻蛉」)上でも挙げた、蜻蛉の死を示すかのような「蜻蛉・ひとりぼっちの私」とは、ガレがカゲロウを通して見た、そして見えなかったかもしれない日本の姿の象徴であるのかもしれません。カゲロウのもがき苦しむ様子が、ガレの創作に少し重なっても見えました。

5月11日までの開催です。
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熱狂のシューベルトを終えて

昨日、全日程を終了しました。ゴールデンウィークの有楽町、丸の内一帯を舞台に、全400もの公演が繰り広げられた「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日音楽祭2008」(シューベルトとウィーン)です。



私は結局、今までで一番多い9つの公演をハシゴしましたが、さすがに回を重ねることに全体の運営もスムーズになっていると感心するものがありました。もちろん過密スケジュールということもあって、開演、終演時刻などは多少前後していましたが、少なくとも私は特にストレスを感じることなく音楽にじっくりと浸ることが出来ました。スタッフ、そしてもちろんアーティストの方々に改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

会場面の点ですが、元は会議室という初登場のG409は、その空間の『狭さ』に、演奏者と聴衆の良い一体感が生まれていたと思います。(音響面はやむを得ないとして。)また、B5ホールも去年よりも座席数が減ったように見え、とても聴き易く感じられました。あとはキャパシティーの関係からAは仕方ないとしても、ステージのやや見にくいB7ホールをもう少し手直ししていただければとも思います。D7とまではいきませんが、後列は若干の傾斜をつけて欲しいです。



段々規模が大きくなっている感のある屋台村やキオスクなど、今年も無料で楽しめる仕掛けが盛りだくさんでした。また、子ども向けのイベントが拡充されているのも良い傾向です。地下展示ホールの無料コンサートは去年より若干スケールダウンした感もありますが、ウィーン少年合唱団のサプライズなど、「何かあるぞ。」という仕掛けをつくるのは相変わらず巧いなと思います。(マルタン登場の豪華追加コンサートも盛り上がったそうです。)

さて来年の熱狂のテーマも早速決まりました。テーマは「バッハとヨーロッパ」。アンケートなどでの「取り上げて欲しい作曲家」ナンバー1だったそうで、満を持しての「音楽の父」の登場となりそうです。詳細は以下の公式ブログをご参照下さい。

公式レポート 「来年のテーマは「バッハとヨーロッパ」!



「ヨーロッパ」と大きな括りがあるので、バッハに影響を受けた後世の作曲家なども多く取り上げるかと思いきや、その息子や同時代の作曲家(ラモー、クープランとは楽しみです。)など、かなりバロック色の強いイベントになるようです。また一例として挙げられた古楽器とモダンオケの対比など、特に前者の好きな私にとっては今から期待したい部分がたくさんありますが、演奏時間の長い受難曲など、宗教声楽曲をどうスケジュールに載せるかにも注目したいと思いました。

それにしてもビールやワイン片手に、歩いているだけで楽しいクラシックのイベントなどまず他にありません。早くも来年が待ち通しいです。(写真は公演最終日夕方の様子です。)
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コルボ 他 「シューベルト 1828年3月26日のコンサートのプログラム」 LFJ2008

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日音楽祭2008
公演番号546

1828年3月26日のコンサートのプログラム
シューベルト
 弦楽四重奏曲第15番 D887より第1楽章
 「十字軍」 D932
 「星」 D939
 「さすらい人の月に寄せる歌」D870
 「アイスキュロスからの断片」D450
 「戦の歌」D912
 ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 D929より第2楽章
 「川の上で」 D943
 「全能の神」 D852
 「セレナード」D920

ピアノ フィリップ・カサール
ホルン 岸上穣
プラジャーク弦楽四重奏団
トリオ・ショーソン
バリトン シュテファン・ゲンツ
テノール クリストフ・アインホルン
アルト ヴァレリー・ボナール
コレギウム・ヴォカーレによる男声合唱
ローザンヌ声楽アンサンブル
指揮 ミシェル・コルボ

2008/5/6 18:45 東京国際フォーラムホールC(マイアーホーファー)



シューベルトの生前、友人たちがただ一度だけ開いたという自作品のみコンサートを再現します。歌曲あり、弦楽四重奏あり、合唱ありの盛りだくさんな演奏会でした。

ともかく入れ替わり立ち替わり、奏者が出入りする様を見るだけでも楽しめる内容でしたが、まずは器楽曲から、中盤のトリオ・ショーソンによるピアノ三重奏曲が秀逸でした。そもそも有名なチェロの刹那的なフレーズからして魅力ある作品ですが、それを息の合ったコンビにかかると思わずこみ上げてくるものすら感じられます。時を刻むような、前へ前へと静かに音を奏でるチェロの音がやはり一番印象に残りました。

バリトン、テノール、それにアルトの各種が揃う歌曲も非常に聴き応えがあります。私の好みは冒頭「十字軍」にて、切々と思いを吐露するかのように歌い上げるバリトンのゲンツにありましたが、トリの「セレナード」を飾ったアルトのボナールによる愛に満ちた可憐な歌も心に響きました。そしてメインはもちろんコルボ率いる見事な男声合唱です。特に無伴奏の「戦の歌」での高音の瑞々しさには聞き惚れました。また前へ押し出す音圧感のあるフォルテと、その反面での引き、言い換えればすうっとホールの空気を取り込むかのような静寂のピアニッシモの双方に卓越した表現を感じることも出来ます。

プログラミングからして楽しめる、LFJならではのコンサートだったのではないでしょうか。こうした企画は是非今後とも続けて欲しいです。
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イザイ弦楽四重奏団 他 「シューベルト:八重奏曲」 LFJ2008

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日音楽祭2008
公演番号535

シューベルト 八重奏曲 ヘ長調 D803

クラリネット 山本正治
ファゴット 河村幹子
ホルン 岸上穣
コントラバス 池松宏
イザイ弦楽四重奏団

2008/5/6 東京国際フォーラムホールB5(テレーゼ・グロープ)



LFJでは常連のイザイ弦楽四重奏団と、新旧の新日フィル首席奏者、または気鋭の日本人若手ホルン奏者などがシューベルトの大作に挑みます。八重奏曲のコンサートです。

不慣れな面とでもいうのか、さすがに息の合ったコンビとまでは言えませんでしたが、弦部では躍動感溢れたイザイのシュトル(ヴァイオリン)の手引きを、また管では安定感のあるクラリネットの山本の力を借りて、この全6楽章、ゆうに1時間はかかるという大曲を最後までしっかりと弾き切っていたのではないかと思います。室内楽の枠を超えたかのような多面性を持つこの音楽では、どうしてもそれを適切に示す幅広い表現が求められますが、そうした意味でもやはり今挙げた2名の奏者が際立っていました。またその他、イザイのメンバーをはじめ、小刻みに音を気分良く奏でるコントラバスの池松や、1985年生まれという若いホルンの岸上も、細かいパッセージにはやや難があったものの、息長いピアニッシモなどを器用に表現していたと感じます。もう一歩、各々のパートが対等にぶつかり合う演奏であれば良かったかもしれませんが、この難曲をそつなくまとめていたのは事実です。

このコンビにて、ベートーヴェンの7重奏曲などを演奏してみるのも面白いのではないでしょうか。聴いてみたいです。
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ロイス&カペラ・アムステルダム 「シューベルト:夜」他 LFJ2008

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日音楽祭2008
公演番号425

シューベルト
 「ゴンドラを漕ぐ人」 D809
 「セレナード」 D920
 「詩篇第23篇『神はわが牧者』」 D706
 「水上の精霊の歌」 D714
 「挽歌(女たちの挽歌)」 D836
 「夜」 D983c
(追加、アンコール曲:ブラームス「あこがれ」、「夜に」、「夜の歌」)

メゾ・ソプラノ オーサ・オルソン
ピアノ ベン・マルティン・ワイヤンド
合唱 カペラ・アムステルダム
指揮 ダニエル・ロイス

2008/5/5 17:15 東京国際フォーラムホールB7(ショーバー)



二年前のLFJでのミサ・ソレムニスの名演がまだ忘れられません。求心力のある指揮が光るロイスの登場です。ピアノ伴奏によるシューベルトの合唱曲を聴いてきました。

定評のあるカペラアムステルダムの表現力をもってすれば当然かもしれませんが、終始、シューベルトの繊細な情感が示された見事な演奏だったと思います。冒頭の「ゴンドラを漕ぐ人」では、途中ピアノにて打ち鳴らされるサン・マルコ寺院の鐘のイメージも借りて、あたかもヴェネツィアで舟に揺られているかのような臨場感を示し、また「水上の精霊の歌」でも同じく、精霊や魂の行き交う天と地、そして滝壺や湖などの情景を今、眼前に見るかのような表現で巧みに描き出しています。手元の対訳を目で追いながら歌を聴くのはやや苦手ですが、この日のカペラアムステルダムの演奏ではその作業を意識させないほど、詩と音楽のイメージとが一つになって響き渡っていました。また、とりわけ男声合唱の透き通るように瑞々しい声は白眉です。いつもはどちらかというと女声陣ばかりに耳が向いてしまいますが、今回だけは例えば男声のみの「夜」における甘美な歌声に心底酔いしれました。

追加、アンコールのブラームスの三曲も集中力の切れない演奏だったと思います。曲の割にはキャパシティーがやや大き過ぎますが、久々に全身がリラックスするような、心洗われる合唱を楽しむことが出来ました。
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ラーンキ「シューベルト:ピアノソナタ第16番」他 LFJ2008

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日音楽祭2008
公演番号454

シューベルト 3つのピアノ曲より 変ホ長調 D946-2
シューベルト 3つのピアノ曲より ハ長調 D946-3
シューベルト ピアノ・ソナタ第16番 イ短調 D845

ピアノ デジュー・ラーンキ

2008/5/5 15:00 東京国際フォーラムホールD7(ヒュンテンブレンナー)



昨年のバルトーク(夫妻での公演でした。)の快演も印象深いデジュー・ラーンキによる、オール・シューベルト・プログラムです。らしからぬダンスミュージックのようなノリの良さで、シューベルトを一気呵成に弾き抜いていきます。

憂いを帯びた中音域に魅力もあるラーンキですが、この日はともかく歯切れの良いフォルテの冴える、実に力強く情熱的なシューベルトでした。冒頭の2曲はつい先日、佐藤卓史の公演(公演番号163)の記憶も鮮やかなところですが、彼が曲の明暗の抉る、言わばシューベルトの美しい叙情性と底部にある暗鬱な激しさを交互に表現していたのに対し、ラーンキはもっと直裁的に、音楽自体の持つ流れ、また勢いを重視した、言わば素直な演奏に仕上がっていたと思います。跳ね上がるようなリズミカルなリズムが、シューベルトの音楽に思いもよらぬ強烈なエネルギーを与えていました。率直に申し上げると、その烈しさにやや戸惑いを覚えたのも事実ですが、例えばソナタ16番の快活な第3楽章などは説得力があったと思います。

「シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番/ラーンキ」

それにしても16番が、これほど多様な表情を見せる、複雑怪奇な曲であるとは知りませんでした。最近は露出も多いこの名曲を、あれほどアクロバット的に演奏するのも珍しいのではないでしょうか。
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コルボ&ローザンヌ声楽アンサンブル「ロッシーニ;小荘厳ミサ」 LFJ2008

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 熱狂の日音楽祭2008
公演番号443

ロッシーニ 小荘厳ミサ

ソプラノ 谷村由美子
アルト ヴァレリー・ボナール
テノール ピエール=イヴ・テテュ
バス ファブリス・エヨーズ
ピアノ サイモン・サヴォイ
ハルモニウム ボリス・フリンゲリ
合唱 ローザンヌ声楽アンサンブル
指揮 ミシェル・コルボ

2008/5/5 13:00 東京国際フォーラムホールC(マイアーホーファー)



コルボを聴かないと「熱狂の日」に来た気分になりません。毎年、高水準の演奏を披露するお馴染みのコンビ、コルボ&ローザンヌ声楽アンサンブルの「小荘厳ミサ」を聴いてきました。

ピアノとオルガンの一種であるハルモニウムのみのシンプルな伴奏が、ローザンヌ声楽アンサンブルの合唱の魅力をより引き出すことに繋がっていたかもしれません。ミサ曲でありながら、例えば牧歌的なグラティアスや、オペラのワンシーンさえ思い起こすクイ・トリスなど、どことなくドラマテックに展開するこの曲を終始リードするのは、もちろん透き通るように美しい同合唱団の歌声でした。繊細なピアニッシモをシルクの肌触りのような滑らかな声で実現する女声陣と、力押し過ぎない抑制的な男声陣がとりわけフーガの掛け合いなどで巧みに絡み、ロッシーニの甘美なミサ曲をまさにピュアな質感で表現していきます。また各ソリストで特筆すべきは、コルボの秘蔵っ子としても知られるという、(公演冊子より。)ソプラノの谷村由美子です。ホールの隅々まで行き渡る太く逞しい歌声にて、例えば第13曲の「敵激しく戦いを挑みたければ」などのフレーズを、劇的に難無く歌い上げてしまいます。また谷村ともう一人の女声、アルトのヴァレリー・ボナールも充実していました。アニュス・デイで可憐に響いていたミゼレーレの歌声を忘れることは出来ません。

「ロッシーニ:小荘厳ミサ曲/コルボ/ローザンヌ声楽アンサンブル」

最後に伴奏を務めた、サイモン・サヴォイの刹那的なピアノ演奏も、この公演を成功に導いた立役者として挙げおくべきでしょう。前奏曲の叙情性は見事です。空間を高らかに駆けるような煌めく高音がホールへ静かに染み渡っていました。
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「マリオ・ジャコメッリ展」 東京都写真美術館

東京都写真美術館目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内)
「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」
3/15-5/6



イタリア北東部のセニガリアに生まれ、生涯に渡ってその近辺を撮り続けたという写真家、マリオ・ジャコメッリ(1950-2000)の業績を回顧します。写美で開催中の表題の展覧会へ行ってきました。

 

ジャコメッリという名を知ったのは今回が初めてでしたが、まず印象深いのはモノクロームの写真における、目も覚めるような白と、空間を大胆に引き裂く黒との烈しいコントラストです。彼の作品にはモノクロにありがちな温かみは少なく、むしろ鏡の表面を見るかのようなシャープな美感が前面に押し出されています。また、とりわけ風景写真に見るシュールな感触も独特です。丘の畝に大地の「皺」を見い出す「自然について知っていること」(1954-2000)も、年輪にその命の痕跡を辿る「樹木の断面」(1967-68)も、対象がまるで抽象画のような線と面の世界に還元されていました。また神学生を取材したシリーズも、モチーフの司祭の動きがやはり白と黒の色面のみに置き換えられ、その生き様や個々の営みよりも、全体の構図が例えばマティスのダンスのような図像的なものへと転化しています。率直に申し上げると、コラージュを見るかのようなこれらに惹かれるものは多くありませんでしたが、このハイコントラストなどは強い個性として目に焼き付きました。極めて特異です。



画面を鳥瞰的にとる作品が多い中で、もっと被写体に迫ってその特質を露とした「詩が訪れて君の眼にとって代わるだろう」(1954-83)は心に残るものがありました。これはジャコメッリがホスピスに取材し、集う老人たちの生活を写した作品ですが、作為を思わせる前者とは異なり、老人一人一人の息遣いや意思、さらにはその過去の記憶などが素直に表現されていて好感が持てます。年輪でも大地の畝でもよく見えてこなかった時間の軌跡が、ようやく人間に対象を移すことで明確に示されたのではないでしょうか。くたびれた皮膚、傷のように連なる皺などに、各々の人生の尊厳が示されています。ここに安易な美しさなどいう言葉は必要でありません。虐げられたような、ある意味で醜い皺の痕跡こそが、まさに生と格闘してきた証しなのです。

詩のイメージと作品とがあまり密接とは思えなかったのも、私の理解が足りない部分だったかもしれません。今ひとつ両者が繋がりませんでした。

評判は高い展覧会のようです。連休中のつい先日に行ってきましたが、会場はかなり混雑していました。

明日、6日まで開催されています。
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