このところ涅槃図に興味があるのですが、彦根城下の宗安寺では約20年ぶりに涅槃図が公開されていると知り、参拝に訪れました。
宗安寺は彦根城のお堀につながる「夢京橋キャッスルロード」という観光商店街に建てられている浄土宗の寺院で、彦根藩 井伊家とは非常に関係の深い寺院です。
宗安寺の始まりは寺伝によると1338年からおよそ10年の間に足利尊氏・直義兄弟が全国平定を願って各国に一寺を選んで安国寺の称号を与えた中の上野(群馬県)の安国寺に由来するとされています。
その後の戦乱で寺院は荒廃したが、箕輪(群馬県)の城主となった井伊直政が再興。
1598年に直政が高崎城主になると高崎(群馬県)に移転。さらに関ヶ原の戦いの勲功で近江佐和山城(石田三成の居城)の城主になると佐和山麓に移り、1603年には彦根城下の京橋に移築されたとされます。
佐和山に移転後に当初の“安国寺”から“宗安寺”に名を改められたのは、関ヶ原の合戦で敵方西軍の毛利方・安国寺恵瓊の名を避けたためといわれています。
さすがに敵軍の将の名の付いた寺院には抵抗があったのでしょうけど、この宗安寺は井伊家の出世と共に移動を重ねた寺院ということになりますね。
寺院には「赤門」と呼ばれる朱色の門がありますが、この門は石田三成の佐和山城の表門を移築したものとされていて、馬に乗って駆け込めるように敷居がなく間口の高い造りになっていました。
井伊直政は関ヶ原の合戦後に佐和山城主になり、賊将・石田三成の居城を嫌って彦根城を建築しようとしたとも言われています。
しかし直政は、彦根城が建設されるまでに亡くなってしまいましたので、入城することは叶わなかったようであります。
宗安寺は1701年の彦根大火で全焼してしまったとされていますが、大火の中でこの赤門だけは焼けずに残ったようです。
翌1702年には長浜城付属御殿を拝領して本堂として再建し、その後も次々と堂宇が復興されていったと伝わります。
平成8年には道路拡幅のため390年ぶりに移動したとのことでしたが、現在も移動前の礎石が残されていて、赤門の朱色の跡が残っています。
宗安寺は江戸時代に李氏朝鮮からの使者が彦根に泊まった際に高官の宿泊所となっており、その時のご馳走搬入の勝手口に使われたのが黒門だったとされています。
“肉類などのご馳走を正門である赤門から搬入するのは仏教寺院としては出来なかったから”ということなのでしょうか。
本堂は長浜城の内藤豊前守信成公の御殿を移築したものとされています。
内藤信成は関ヶ原の合戦後の1606年に第6代の長浜城主になった人のようですが、地元の長浜の人でも初代城主は秀吉・2代目は柴田勝家・3代目は山内一豊くらいは聞いたことがあっても6代目城主の内藤信成の名は知られていないと思います。
本堂の脇には部屋が連なっており、各部屋に仏像や文書が配置されています。
入った部屋にはまず傳大師の坐像がありました。あまり馴染みがない僧ですが、傳大師は6世紀の中国の僧だということです。
次の間には石田三成が佐和山城下に建立した瑞岳寺に祀られていた地蔵菩薩(室町時代)が韋駄天像と共に祀られています。
地蔵菩薩立像は以前は彩色されていたようですが、洗たくによって三成を思わせる姿となったとされます。
また善光寺式阿弥陀三尊像様式の阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊が祀られ、さらには阿弥陀如来坐像が祀られていました。
阿弥陀如来座像は三成の念持仏のあった称名院の本尊だったとされ、室町~鎌倉の作で見応えのある仏像でした。
三成の念持仏の千躰仏も祀られていましたが、これには三成の領民への想いが込められているという説があり、領民想いだったとされる三成の一面が伺われます。
最後の間には竹生島信仰の影響かと思われる宇賀弁財天、眷属の15童子像を従えた弁財天坐像などもありました。
宇賀神弁財天は明治の廃仏毀釈で廃寺になってしまった寺院の預かり物だと案内に書かれておりました。
庭は「彼岸白道の庭」と呼ばれ、2河(内向きにとらわれる心・外に攻撃的になる心)の煩悩の間を通って、浄土を目指す清浄心(白道)を表すとされ、此岸から渡り廊下を通って彼岸へ向かえるような造りになっています。
月夜には白砂利(アルゼンチンの石 アズールショロ)が月光に照らされて白玉の露のように見えることから「白露庭」とも呼ばれているそうです。
さてやっと本堂に向かうことになりますが、四天王が四隅に配置された内陣に祀られる御本尊の阿弥陀如来像は淀君の念持仏であったとされ、内藤氏が大阪夏の陣で持ち帰ったと伝わる阿弥陀如来像です。
胎内から阿弥陀経などの経巻や仏画などが納められており、経巻に1270年の奥書があることから鎌倉時代の作であると特定されています。
西国三十三観音像に囲まれた聖観音立像(1851年作)がありましたが、この仏像は興味深かったですね。
前屈みの姿勢で右足が前に出て、右膝も歩きだしそうに曲がっている。“今にも救いに行くぞ”といった姿勢に妙な説得力を感じます。
楽しみにしていた大涅槃図は本堂に痛みが進まないように寝かした状態で箱に入れられての公開でした。
大涅槃図は絹製で縦4.6㍍・横3.3㍍の1712年の作とされてり、50年前までは釈迦入滅の日の涅槃会に壁に掛けていたようですが、涅槃図自体の重さで破損してしまったため、その後は収蔵庫に保管されていたようです。
今回の公開は約20年ぶりということでしたが、この大涅槃図には入滅した釈迦の周囲に弟子や菩薩などと共に、力士・駱駝・百足・蜥蜴・蜻蛉・蛙などが描かれているのが特徴的です。
宗安寺は、井伊直政の正室であった唐梅院の両親(唐梅院は徳川家康の親戚である松平康親の娘で家康の養女として直政に嫁ぐ)の菩提を弔うために建立した寺院とされています。
その後も彦根井伊藩に手厚く保護され、井伊家と縁の深い寺院ですが、不思議に思うことがあります。
井伊家と継がりの深い宗安寺になぜ“豊臣家淀君の念持仏の阿弥陀如来像”や“石田三成の念持仏の地蔵菩薩像や千体仏”が祀られているのか。
また大阪冬の陣・夏の陣の敵方武将の木村重成の墓が祀られているのか。
木村重成は大阪夏の陣の八尾・若江の戦いで井伊家の家老であった庵原助右衛門に討ちとられてしまいます。
その首を井伊家家臣の安藤長三郎が“私には手柄がないのでその首を頂戴したい”と願い出て自らの功としたそうです。
首実験で徳川家康の前に供された重成の首からはよい香りがしたそうです。これは出陣に際して兜に香を焚き込めてあったからとされ、討死を覚悟して戦に臨んだ重成の決意と嗜みに家康は感嘆したといわれています。
安藤長三郎は重成の首を菩提寺である宗安寺の安藤家の墓地に埋葬して、今に至るまで供養されているそうです。
宗安寺は彦根城のお堀につながる「夢京橋キャッスルロード」という観光商店街に建てられている浄土宗の寺院で、彦根藩 井伊家とは非常に関係の深い寺院です。
宗安寺の始まりは寺伝によると1338年からおよそ10年の間に足利尊氏・直義兄弟が全国平定を願って各国に一寺を選んで安国寺の称号を与えた中の上野(群馬県)の安国寺に由来するとされています。
その後の戦乱で寺院は荒廃したが、箕輪(群馬県)の城主となった井伊直政が再興。
1598年に直政が高崎城主になると高崎(群馬県)に移転。さらに関ヶ原の戦いの勲功で近江佐和山城(石田三成の居城)の城主になると佐和山麓に移り、1603年には彦根城下の京橋に移築されたとされます。
佐和山に移転後に当初の“安国寺”から“宗安寺”に名を改められたのは、関ヶ原の合戦で敵方西軍の毛利方・安国寺恵瓊の名を避けたためといわれています。
さすがに敵軍の将の名の付いた寺院には抵抗があったのでしょうけど、この宗安寺は井伊家の出世と共に移動を重ねた寺院ということになりますね。
寺院には「赤門」と呼ばれる朱色の門がありますが、この門は石田三成の佐和山城の表門を移築したものとされていて、馬に乗って駆け込めるように敷居がなく間口の高い造りになっていました。
井伊直政は関ヶ原の合戦後に佐和山城主になり、賊将・石田三成の居城を嫌って彦根城を建築しようとしたとも言われています。
しかし直政は、彦根城が建設されるまでに亡くなってしまいましたので、入城することは叶わなかったようであります。
宗安寺は1701年の彦根大火で全焼してしまったとされていますが、大火の中でこの赤門だけは焼けずに残ったようです。
翌1702年には長浜城付属御殿を拝領して本堂として再建し、その後も次々と堂宇が復興されていったと伝わります。
平成8年には道路拡幅のため390年ぶりに移動したとのことでしたが、現在も移動前の礎石が残されていて、赤門の朱色の跡が残っています。
宗安寺は江戸時代に李氏朝鮮からの使者が彦根に泊まった際に高官の宿泊所となっており、その時のご馳走搬入の勝手口に使われたのが黒門だったとされています。
“肉類などのご馳走を正門である赤門から搬入するのは仏教寺院としては出来なかったから”ということなのでしょうか。
本堂は長浜城の内藤豊前守信成公の御殿を移築したものとされています。
内藤信成は関ヶ原の合戦後の1606年に第6代の長浜城主になった人のようですが、地元の長浜の人でも初代城主は秀吉・2代目は柴田勝家・3代目は山内一豊くらいは聞いたことがあっても6代目城主の内藤信成の名は知られていないと思います。
本堂の脇には部屋が連なっており、各部屋に仏像や文書が配置されています。
入った部屋にはまず傳大師の坐像がありました。あまり馴染みがない僧ですが、傳大師は6世紀の中国の僧だということです。
次の間には石田三成が佐和山城下に建立した瑞岳寺に祀られていた地蔵菩薩(室町時代)が韋駄天像と共に祀られています。
地蔵菩薩立像は以前は彩色されていたようですが、洗たくによって三成を思わせる姿となったとされます。
また善光寺式阿弥陀三尊像様式の阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊が祀られ、さらには阿弥陀如来坐像が祀られていました。
阿弥陀如来座像は三成の念持仏のあった称名院の本尊だったとされ、室町~鎌倉の作で見応えのある仏像でした。
三成の念持仏の千躰仏も祀られていましたが、これには三成の領民への想いが込められているという説があり、領民想いだったとされる三成の一面が伺われます。
最後の間には竹生島信仰の影響かと思われる宇賀弁財天、眷属の15童子像を従えた弁財天坐像などもありました。
宇賀神弁財天は明治の廃仏毀釈で廃寺になってしまった寺院の預かり物だと案内に書かれておりました。
庭は「彼岸白道の庭」と呼ばれ、2河(内向きにとらわれる心・外に攻撃的になる心)の煩悩の間を通って、浄土を目指す清浄心(白道)を表すとされ、此岸から渡り廊下を通って彼岸へ向かえるような造りになっています。
月夜には白砂利(アルゼンチンの石 アズールショロ)が月光に照らされて白玉の露のように見えることから「白露庭」とも呼ばれているそうです。
さてやっと本堂に向かうことになりますが、四天王が四隅に配置された内陣に祀られる御本尊の阿弥陀如来像は淀君の念持仏であったとされ、内藤氏が大阪夏の陣で持ち帰ったと伝わる阿弥陀如来像です。
胎内から阿弥陀経などの経巻や仏画などが納められており、経巻に1270年の奥書があることから鎌倉時代の作であると特定されています。
西国三十三観音像に囲まれた聖観音立像(1851年作)がありましたが、この仏像は興味深かったですね。
前屈みの姿勢で右足が前に出て、右膝も歩きだしそうに曲がっている。“今にも救いに行くぞ”といった姿勢に妙な説得力を感じます。
楽しみにしていた大涅槃図は本堂に痛みが進まないように寝かした状態で箱に入れられての公開でした。
大涅槃図は絹製で縦4.6㍍・横3.3㍍の1712年の作とされてり、50年前までは釈迦入滅の日の涅槃会に壁に掛けていたようですが、涅槃図自体の重さで破損してしまったため、その後は収蔵庫に保管されていたようです。
今回の公開は約20年ぶりということでしたが、この大涅槃図には入滅した釈迦の周囲に弟子や菩薩などと共に、力士・駱駝・百足・蜥蜴・蜻蛉・蛙などが描かれているのが特徴的です。
宗安寺は、井伊直政の正室であった唐梅院の両親(唐梅院は徳川家康の親戚である松平康親の娘で家康の養女として直政に嫁ぐ)の菩提を弔うために建立した寺院とされています。
その後も彦根井伊藩に手厚く保護され、井伊家と縁の深い寺院ですが、不思議に思うことがあります。
井伊家と継がりの深い宗安寺になぜ“豊臣家淀君の念持仏の阿弥陀如来像”や“石田三成の念持仏の地蔵菩薩像や千体仏”が祀られているのか。
また大阪冬の陣・夏の陣の敵方武将の木村重成の墓が祀られているのか。
木村重成は大阪夏の陣の八尾・若江の戦いで井伊家の家老であった庵原助右衛門に討ちとられてしまいます。
その首を井伊家家臣の安藤長三郎が“私には手柄がないのでその首を頂戴したい”と願い出て自らの功としたそうです。
首実験で徳川家康の前に供された重成の首からはよい香りがしたそうです。これは出陣に際して兜に香を焚き込めてあったからとされ、討死を覚悟して戦に臨んだ重成の決意と嗜みに家康は感嘆したといわれています。
安藤長三郎は重成の首を菩提寺である宗安寺の安藤家の墓地に埋葬して、今に至るまで供養されているそうです。