東福寺は過去に4度の大火に見舞われ、その大部分を焼失してきた歴史があります。
最初の3回は鎌倉時代後期から室町時代の初期の事とされていますが、その時代に再建された東福寺は足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ明治の時代まで京都五山の寺院として栄華を誇ったそうです。
1881年(明治14年)に仏殿・法堂・方丈・庫裡が焼失してしまう前までは、仏殿に高さ5丈(15m)の釈迦仏像と7.5mの観音菩薩・弥勒の両菩薩像が安置されていましたが、火災により幻の大仏となり、現在は火災から救い出された約2mの左手が残るのみとなってしまいました。
再建された本堂に祀られる御本尊の釈迦如来立像と脇侍の摩訶迦葉尊者・阿南尊者立像は東福寺の塔頭である万寿寺(京都五山 第5位)から移された像で鎌倉時代の作だとされています。
内陣の様子は外側から格子越しにしか見ることが出来ませんでしたが、脇侍の両隣りには4天王の姿もかすかに見ることが出来ます。
天井には「蒼龍図」という150畳にもおよぶ巨大な龍の姿が描かれていて関心をそそります。龍神は水を司るとされていて、禅寺の天井に龍が描かれるのは火災除けなどの意味があるそうです。
この蒼龍図は堂本印象という日本画家の方が17日で書き上げたといわれるド迫力の絵でした。
本堂は高さ25.5m・間口41.4mの巨大な建築物で、昭和期の木造建築としては最大級のものとされています。
巨大な三門を抜けるとすぐにこの本堂がありますから、巨大な建築物が立ち並ぶ光景に圧倒されてしまう思いがします。
重要文化財に指定されている開山堂は、東福寺を開山した聖一国師 円爾像が祀られています。円爾は禅僧で初めて諡号を賜った僧とされている学徳の高い僧だったようです。
この開山堂は少し変わった楼閣に見えます。この開山堂の上層は「伝衣閣」と呼ばれて、「京の五閣」(他に金閣・銀閣・飛雲閣・呑湖閣)の一つとされていて、上層からは前方に広がる庭園が眺められるような造りになっています。
開山堂の庭園にも枯山水がありますが、ここは縦・横・無地が組み合わされた少し変わった格子模様になっていますね。
境内には愛染明王を祀る愛染堂という朱色の鮮やかな八角堂がありました。
朱塗りに柿葺きの建物で1934年に万寿寺から移築されたそうですが、南北朝時代の建築物で重要文化財の指定を受けています。
東福寺の境内で何とも珍奇な光景に思えてしまうのが、現存する日本最古(室町時代前期)の禅僧の便所(雪隠)であった東司でした。
トイレとはいってもここは禅宗の寺院ですから、“用を足すのも修行の内”のような作法があったようです。
“大の用”が終わった後は「ちょうぎ」という木ベラで拭いて、木ベラは水洗いしてまた再使用。
手は水で3度洗い、灰で3度洗い、土団子で3度洗い、サイカチ(マメ科の木、豆は石鹸の代用となる)で一度洗って、最後に水か湯でもう一度洗う。
建物は匂いが溜まらないように風通しの良い造りとなっていて、排泄物は堆肥肥料として京野菜などを育てるのに役に立っていたそうです。
食べるのも排泄するにも厳格な作法のある禅僧の生活は全てが修行だったということでしょうね。
ところで、ここ東福寺にはどうしても見たかった仏像がありました。
東福寺には25の塔頭がありますが、そのうちの一つである同聚院に祀られる不動明王像です。
同聚院は1006年に藤原道長が丈六の五大明王(降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉...不動以外はすべて焼失)を安置する五大堂を法性寺の境内に建立したが、鎌倉時代に衰退してしまい、その跡地に東福寺が建立されたと伝わります。
かつて五大明王を祭っていた五大堂があった場所が現在の同聚院の付近だったとされ、室町時代の1444年に東福寺の塔頭として創立した寺院とのことです。
同聚院に祀られる不動明王坐像(重文)は1006年のもの(一部後補)とされ、本堂の奥に見える丈六の不動明王の姿には期待していた以上の迫力を感じます。
内部では仏像の目の前で拝観させていただきましたが、最初は薄暗さからよく見えなかったものの、目が慣れてくるに従って細部まで見えてくる。
本来不動明王は憤怒の表情の密教的な仏ですが、この不動明王には貴族趣味的な気品のようなものが漂っていて、これまで見てきた不動明王像とは異質なものを感じてしまいます。
この違いは同じ平安時代でも「貞観仏」と「藤原仏」の違いということになるのかもしれません。
同聚院には数えなかったけどいくつかの不動明王像が祀られています。中でもこの丈六の不動明王座像は十万の眷属を従えているとされていることから「十万不動さん」と呼ばれています。
東福寺の境内やその付近には20寺ほどの塔頭があるようでしたが、塔頭にまで訪れる人は少なそうな雰囲気があります。
そのためか同聚院にいた時に、滋賀県の山の麓の古寺にでもいるような錯覚を起こしてしまいそうでした。密かに素晴らしい仏像が祀られているという意味でですけどね。
最初の3回は鎌倉時代後期から室町時代の初期の事とされていますが、その時代に再建された東福寺は足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ明治の時代まで京都五山の寺院として栄華を誇ったそうです。
1881年(明治14年)に仏殿・法堂・方丈・庫裡が焼失してしまう前までは、仏殿に高さ5丈(15m)の釈迦仏像と7.5mの観音菩薩・弥勒の両菩薩像が安置されていましたが、火災により幻の大仏となり、現在は火災から救い出された約2mの左手が残るのみとなってしまいました。
再建された本堂に祀られる御本尊の釈迦如来立像と脇侍の摩訶迦葉尊者・阿南尊者立像は東福寺の塔頭である万寿寺(京都五山 第5位)から移された像で鎌倉時代の作だとされています。
内陣の様子は外側から格子越しにしか見ることが出来ませんでしたが、脇侍の両隣りには4天王の姿もかすかに見ることが出来ます。
天井には「蒼龍図」という150畳にもおよぶ巨大な龍の姿が描かれていて関心をそそります。龍神は水を司るとされていて、禅寺の天井に龍が描かれるのは火災除けなどの意味があるそうです。
この蒼龍図は堂本印象という日本画家の方が17日で書き上げたといわれるド迫力の絵でした。
本堂は高さ25.5m・間口41.4mの巨大な建築物で、昭和期の木造建築としては最大級のものとされています。
巨大な三門を抜けるとすぐにこの本堂がありますから、巨大な建築物が立ち並ぶ光景に圧倒されてしまう思いがします。
重要文化財に指定されている開山堂は、東福寺を開山した聖一国師 円爾像が祀られています。円爾は禅僧で初めて諡号を賜った僧とされている学徳の高い僧だったようです。
この開山堂は少し変わった楼閣に見えます。この開山堂の上層は「伝衣閣」と呼ばれて、「京の五閣」(他に金閣・銀閣・飛雲閣・呑湖閣)の一つとされていて、上層からは前方に広がる庭園が眺められるような造りになっています。
開山堂の庭園にも枯山水がありますが、ここは縦・横・無地が組み合わされた少し変わった格子模様になっていますね。
境内には愛染明王を祀る愛染堂という朱色の鮮やかな八角堂がありました。
朱塗りに柿葺きの建物で1934年に万寿寺から移築されたそうですが、南北朝時代の建築物で重要文化財の指定を受けています。
東福寺の境内で何とも珍奇な光景に思えてしまうのが、現存する日本最古(室町時代前期)の禅僧の便所(雪隠)であった東司でした。
トイレとはいってもここは禅宗の寺院ですから、“用を足すのも修行の内”のような作法があったようです。
“大の用”が終わった後は「ちょうぎ」という木ベラで拭いて、木ベラは水洗いしてまた再使用。
手は水で3度洗い、灰で3度洗い、土団子で3度洗い、サイカチ(マメ科の木、豆は石鹸の代用となる)で一度洗って、最後に水か湯でもう一度洗う。
建物は匂いが溜まらないように風通しの良い造りとなっていて、排泄物は堆肥肥料として京野菜などを育てるのに役に立っていたそうです。
食べるのも排泄するにも厳格な作法のある禅僧の生活は全てが修行だったということでしょうね。
ところで、ここ東福寺にはどうしても見たかった仏像がありました。
東福寺には25の塔頭がありますが、そのうちの一つである同聚院に祀られる不動明王像です。
同聚院は1006年に藤原道長が丈六の五大明王(降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉...不動以外はすべて焼失)を安置する五大堂を法性寺の境内に建立したが、鎌倉時代に衰退してしまい、その跡地に東福寺が建立されたと伝わります。
かつて五大明王を祭っていた五大堂があった場所が現在の同聚院の付近だったとされ、室町時代の1444年に東福寺の塔頭として創立した寺院とのことです。
同聚院に祀られる不動明王坐像(重文)は1006年のもの(一部後補)とされ、本堂の奥に見える丈六の不動明王の姿には期待していた以上の迫力を感じます。
内部では仏像の目の前で拝観させていただきましたが、最初は薄暗さからよく見えなかったものの、目が慣れてくるに従って細部まで見えてくる。
本来不動明王は憤怒の表情の密教的な仏ですが、この不動明王には貴族趣味的な気品のようなものが漂っていて、これまで見てきた不動明王像とは異質なものを感じてしまいます。
この違いは同じ平安時代でも「貞観仏」と「藤原仏」の違いということになるのかもしれません。
同聚院には数えなかったけどいくつかの不動明王像が祀られています。中でもこの丈六の不動明王座像は十万の眷属を従えているとされていることから「十万不動さん」と呼ばれています。
東福寺の境内やその付近には20寺ほどの塔頭があるようでしたが、塔頭にまで訪れる人は少なそうな雰囲気があります。
そのためか同聚院にいた時に、滋賀県の山の麓の古寺にでもいるような錯覚を起こしてしまいそうでした。密かに素晴らしい仏像が祀られているという意味でですけどね。