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小浜を早朝に出て昼夜歩けば一日で京都に着き、塩でしめた鯖が丁度いい味になっていたといわれますが、荷を担いで約70キロの山道を歩き続けるのですから如何に健脚でもこれは大変なことです。
鯖街道にはいくつかのルートがあるようですが、小浜をスタートとして熊川宿を経て、今津町保坂から朽木~途中越~大原~八瀬~出町柳に至る若狭街道が現在はポピュラーな道となっているようです。
自然豊かな街道を琵琶湖の北部から南へと進んで行み、朽木に入り安曇川沿いを走る頃になると、鯖寿司屋・蕎麦屋・渓流釣り・キャンプ場が軒を連ねています。
さらに若狭街道を南下して高島市から大津市に入ると目指す寺院「葛川明王院」の標識が見えてきます。
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葛川明王院は比叡山無動寺の奥の院と呼ばれ、天台宗回峰行者が毎夏に行う葛川参籠の修行の場とされてきたようです。
平安時代初期の延暦寺の僧・相応が回峰行の道場として859年に開山し、比叡山延暦寺では「回峰行の聖地」とまで呼ばれています。
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相応和尚(建立大師)は、近江国浅井郡(現在の長浜市)の出身で、15歳で比叡山に入り修行し、千日回峰行の祖と呼ばれている方です。
出身地の浅井町では「五先賢」の一人として数えられており、現在も郷土を代表する賢人として敬愛されているそうです。(五先賢:相応和尚、海北友松、小堀遠州、片桐且元、小野湖山)
“右・明王谷林道”、“左・明王院”と彫られた石標を左へ向かうと明王滝川にかかる三宝橋が見えてきます。
橋に覆いかぶさるような新緑が美しく、橋の下には安曇川の上流の谷川のひとつ明王滝川の清流が流れます。
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橋の向こうには巨大な杉。ゆるやかな石段と取り囲むような石垣の先に納経所(政所表門)がありますが、着いた時には政所表門はまだ開いていない。
この辺りは登山やハイキングの出発点となっているのでしょう、寺院参拝の方は見られずフル装備のハイカーの方に多く出会います。
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比良山系はピークや滝が多い山系だと聞きますが、山登りをするには知識も経験もありませんので山へは入れない。
山道を2キロほど歩けば“三の滝”へ着くとありましたが、生来の方向音痴もありますので行ってたら間違いなく迷子になっていたでしょうね。
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次々と訪れるハイカー達のにぎやかな様子とは違い、明王院へ訪れる方はおられず寺院は静まり返っています。
右に護摩堂、正面の石段の先には本堂、左には弁天堂と手水舎。まさしく深山の寺院です。
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本堂(1715年)・護摩堂(1755年)・庵室(1834年)・政所表門(1526年)は重要文化財に指定されており、政所表門を別にすると江戸時代の建築物となります。
各堂は破損・腐朽が進んでいたため、平成17年度から22年度にかけて保存修理が行われ、現在はかなり整備された姿となっています。
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本堂は“葺(とちぶき)屋根”を復元しているといい、修理に伴う調査では平安時代の建築部材が多数再利用されていることなどが発見されたそうです。
保存修理はされていますが、本堂の古刹ゆえの重厚感は充分に残されています。扁額には“息障明王院”の文字が読み取れます。
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本王の外陣に入ると、外の明るさとは打って変わり、真っ暗な空間となっています。
入口に照明のスイッチがあると書かれていましたので、スイッチを探して電灯をつけると中の様子がよく見えるようになりました。
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外陣には奉納額が幾つか掛けられていますが、気を引かれるのは“黄不動”の奉納額でしょうか。
平面的に描かれている絵ではなく、立体的な盛り上がりが見られる額でした。
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明王院の御本尊は千手観音立像・不動明王立像・毘沙門天像(全て平安後期の作・重文)となりますが、内陣の厨子の前に安置されているのは「不動明王立像」と脇侍の「矜羯羅童子」と「制多迦童子」。
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寺院にいいた時には気がつかなかったのですが、内陣の右側の梁に“懸仏”が掛けられてありました。
内陣へ入ることは出来ませんが、もっとしっかりと見ておけばよかったのですけどね。
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最後にやっと開門した政所表門から寺務所へ行って御朱印を頂く。
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滋賀県は湖北・湖東・湖南・湖西と4つの地域に分類されることが多いのですが、湖西・朽木地域には独特の風景があります。
辺鄙な場所のような印象はあるものの、京都などの都市部からは思いのほか近く、都市部の方が日帰りで自然を楽しめる場所になっているようです。
ランナー・登山者・渓流釣り・山菜刈り・キャンパー・鯖寿司や蕎麦の味覚を楽しむ人・バーダーなど湖西・朽木地域は各々の趣味を楽しめる地域ですね。