賤ヶ岳は、織田信長の本能寺の変で亡くなった後の後継者争いとして羽柴秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」として、戦国時代のドラマでは定番の戦となっています。
また、賤ヶ岳の風景は琵琶湖周辺に見られる優れた景観として「琵琶湖八景」(1950年)に選ばれており、広重の描いた「近江八景」のように有名ではないものの、その風景は今も変わらず残ります。
天気が崩れる休日が続いており、少し気持ちがミヤモヤしていましたので、早朝から木之本へ車を走らせて、賤ヶ岳へ登ってみました。
どうしても賤ヶ岳に登りたかった訳ではなかったのですが、その後に約束があったため、サッと登れそうな山としての選択でしたが、山頂の風景は圧倒される美しさでモヤモヤしていた気持ちがすっかりと晴れました。
「賤ヶ岳リフト」前の駐車場には車を停められませんので、臨時駐車場に車を停めましたが、駐車場らしくない場所でしたので近くの竹林でタケノコ掘りをしていた方に確認して登山口への道を教えてもらう。
収穫されていたタケノコは、よく目にしたり食べたりする孟宗竹ではなく、細長い種類のタケノコで、淡竹とか真竹とかのタケノコだったようです。
九十九折の登山道は、よく整備されており、緩やかな登り道なので歩きやすく、何度かリフトをくぐり抜けるようにして登っていきます。
リフトの下や道の横にはシャガの群生が見頃となっており、登るにつれて陽が差し込むようになってきて心地よい。
途中で会ったおそらく地元の方と思われる方は、道に落ちている枝などを除去しながら歩いておられ、地元の方の手によって歩きやすい道が維持されているんだなと感じました。
また、植林されたスギが根元辺りで全て曲がっているのは、この地方の豪雪の影響で曲がっているのでしょう。
道端にはシャガの花以外にはマムシグサが多く見られ、賤ヶ岳の植生の面白さを知ることになる。
マムシグサの花の形は蛇が鎌首をもたげているようで何となく嫌な感じがしますが、マムシグサ自体も有毒植物で特に球根の毒性が強いとされます。
登山道の途中には積み重なった岩の隙間から水が流れ出ている場所があり、水源のひとつになっているのかと思われます。
でも迂闊に近づいくと蛇とかがいそうな場所でしたので、道から眺めて終わりにする。
季節柄、あちこちから野鳥の囀りが聞こえてきますが、声だけで姿は見つけられず。
日当りのいいところで見つけたのはコミスジの姿。これからの季節は山で鳥と蝶に出会う機会が増えそうです。
道草を食いながら登っていくと、やや広い道に出て少し傾斜がきつくなりますが、その先には絶景の頂上が待っていました。
「七本槍古戦場賤ヶ嶽」の木標と後方に広がるは奥琵琶湖の圧巻の風景。
「賤ヶ岳」の名称の起源は幾つかあり、弘法大師空海が麓の伊賀具神社に参拝した際に会った一人の女性に尋ねると「再方に高き山あり、これ賤の住む處なる」と答えたと伝わる話。
「基が精舎を建立しようとしたとき山の賤が白髪の老樵夫となって現れ、山谷に響く大音で精舎の守護神とならんといったことから、大音大明神として祀り、山を賤ヶ岳と称した」とする話。
「賤」は身分の低いものや卑しいものが一般的な言葉の意味で、「處」はふさわしい場所に置くといった意味。「樵夫」はきこりと考えられます。
山の神が卑しい姿で現れ、伊賀具神社や大音集落の守護神となったと考えると、山への古代信仰が伺われます。
賤ヶ岳には「古保利古墳群」が連なることから、琵琶湖を往来した渡来人に纏わる伝承がありそうです。
賤ヶ岳の三角点は、三等三角点で1890年に設置したものだといい、後方には余呉湖の姿が見える。
西の方角を見ると、葛籠尾半島とつづら尾崎が見え、少し離れて竹生島が小山のように浮かんでいる。
賤ヶ岳から眺める竹生島は、湖北から見える姿とも湖西から見える姿とも違った形に見えますね。
賤ヶ岳を登り始めた時は雲がかかっていたが、山頂に着いた頃に雲は流れて陽が射してきたのは運が良かった。
頂上付近は風が強くて寒く感じましたが、雲が流れていったのは強い風のおかげだったのでしょう。
南側を眺めると丘陵が連なり、そこには前方後円墳や前方後方墳などが合計132基の古墳が並ぶ「古保利古墳群」が密集しているという。
琵琶湖に面した地形から、古代この地に琵琶湖の水上交通に関与していた権力者の墓群と考えられ、日本海側から塩津に流れ込んだ物資や文化のルートにもあたることから渡来系の人々との関係も考えられる。
尚、この丘陵の最南端には山本山がある。
山頂の北側からは余呉湖の全景が見降ろせる。
「羽衣伝説」や「龍神・菊石姫伝説」などの伝説の残る余呉湖は、周囲約6.4㌔あり、別称「鏡湖」と呼ばれる神秘的な湖です。
賤ケ岳山頂には定番のように腰かける「武者の像」があり、「賤ヶ岳の戦い」で疲れ果てて頭を垂れる武将の姿から戦国の世の辛さが感じられます。
この「武者の像」は地元出身の彫刻家の須川常美さんが、戦勝400年記念(昭和59年)に創作された作品だといいます。
下山した後、田園地帯から賤ケ岳を眺めてみる。
賤ケ岳は標高421mの低山で余呉湖や山本山からの縦走ルートもあり、登山道で何人もの方とすれ違うことになりました。
みなさんどこまで行かれたのでしょうね。
また、賤ヶ岳の風景は琵琶湖周辺に見られる優れた景観として「琵琶湖八景」(1950年)に選ばれており、広重の描いた「近江八景」のように有名ではないものの、その風景は今も変わらず残ります。
天気が崩れる休日が続いており、少し気持ちがミヤモヤしていましたので、早朝から木之本へ車を走らせて、賤ヶ岳へ登ってみました。
どうしても賤ヶ岳に登りたかった訳ではなかったのですが、その後に約束があったため、サッと登れそうな山としての選択でしたが、山頂の風景は圧倒される美しさでモヤモヤしていた気持ちがすっかりと晴れました。
「賤ヶ岳リフト」前の駐車場には車を停められませんので、臨時駐車場に車を停めましたが、駐車場らしくない場所でしたので近くの竹林でタケノコ掘りをしていた方に確認して登山口への道を教えてもらう。
収穫されていたタケノコは、よく目にしたり食べたりする孟宗竹ではなく、細長い種類のタケノコで、淡竹とか真竹とかのタケノコだったようです。
九十九折の登山道は、よく整備されており、緩やかな登り道なので歩きやすく、何度かリフトをくぐり抜けるようにして登っていきます。
リフトの下や道の横にはシャガの群生が見頃となっており、登るにつれて陽が差し込むようになってきて心地よい。
途中で会ったおそらく地元の方と思われる方は、道に落ちている枝などを除去しながら歩いておられ、地元の方の手によって歩きやすい道が維持されているんだなと感じました。
また、植林されたスギが根元辺りで全て曲がっているのは、この地方の豪雪の影響で曲がっているのでしょう。
道端にはシャガの花以外にはマムシグサが多く見られ、賤ヶ岳の植生の面白さを知ることになる。
マムシグサの花の形は蛇が鎌首をもたげているようで何となく嫌な感じがしますが、マムシグサ自体も有毒植物で特に球根の毒性が強いとされます。
登山道の途中には積み重なった岩の隙間から水が流れ出ている場所があり、水源のひとつになっているのかと思われます。
でも迂闊に近づいくと蛇とかがいそうな場所でしたので、道から眺めて終わりにする。
季節柄、あちこちから野鳥の囀りが聞こえてきますが、声だけで姿は見つけられず。
日当りのいいところで見つけたのはコミスジの姿。これからの季節は山で鳥と蝶に出会う機会が増えそうです。
道草を食いながら登っていくと、やや広い道に出て少し傾斜がきつくなりますが、その先には絶景の頂上が待っていました。
「七本槍古戦場賤ヶ嶽」の木標と後方に広がるは奥琵琶湖の圧巻の風景。
「賤ヶ岳」の名称の起源は幾つかあり、弘法大師空海が麓の伊賀具神社に参拝した際に会った一人の女性に尋ねると「再方に高き山あり、これ賤の住む處なる」と答えたと伝わる話。
「基が精舎を建立しようとしたとき山の賤が白髪の老樵夫となって現れ、山谷に響く大音で精舎の守護神とならんといったことから、大音大明神として祀り、山を賤ヶ岳と称した」とする話。
「賤」は身分の低いものや卑しいものが一般的な言葉の意味で、「處」はふさわしい場所に置くといった意味。「樵夫」はきこりと考えられます。
山の神が卑しい姿で現れ、伊賀具神社や大音集落の守護神となったと考えると、山への古代信仰が伺われます。
賤ヶ岳には「古保利古墳群」が連なることから、琵琶湖を往来した渡来人に纏わる伝承がありそうです。
賤ヶ岳の三角点は、三等三角点で1890年に設置したものだといい、後方には余呉湖の姿が見える。
西の方角を見ると、葛籠尾半島とつづら尾崎が見え、少し離れて竹生島が小山のように浮かんでいる。
賤ヶ岳から眺める竹生島は、湖北から見える姿とも湖西から見える姿とも違った形に見えますね。
賤ヶ岳を登り始めた時は雲がかかっていたが、山頂に着いた頃に雲は流れて陽が射してきたのは運が良かった。
頂上付近は風が強くて寒く感じましたが、雲が流れていったのは強い風のおかげだったのでしょう。
南側を眺めると丘陵が連なり、そこには前方後円墳や前方後方墳などが合計132基の古墳が並ぶ「古保利古墳群」が密集しているという。
琵琶湖に面した地形から、古代この地に琵琶湖の水上交通に関与していた権力者の墓群と考えられ、日本海側から塩津に流れ込んだ物資や文化のルートにもあたることから渡来系の人々との関係も考えられる。
尚、この丘陵の最南端には山本山がある。
山頂の北側からは余呉湖の全景が見降ろせる。
「羽衣伝説」や「龍神・菊石姫伝説」などの伝説の残る余呉湖は、周囲約6.4㌔あり、別称「鏡湖」と呼ばれる神秘的な湖です。
賤ケ岳山頂には定番のように腰かける「武者の像」があり、「賤ヶ岳の戦い」で疲れ果てて頭を垂れる武将の姿から戦国の世の辛さが感じられます。
この「武者の像」は地元出身の彫刻家の須川常美さんが、戦勝400年記念(昭和59年)に創作された作品だといいます。
下山した後、田園地帯から賤ケ岳を眺めてみる。
賤ケ岳は標高421mの低山で余呉湖や山本山からの縦走ルートもあり、登山道で何人もの方とすれ違うことになりました。
みなさんどこまで行かれたのでしょうね。
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