比叡山延暦寺を訪れたのはもう何度目になるでしょうか?
訪れるたびに行きたい場所や見たい場所が毎回違うのですが、今回は千日回峰道の一部を歩いて「玉体杉」へ行くこと、「黒谷青龍寺」へ参拝すること、「椿堂特別御開扉」に参拝することでした。
山中を歩いたのは峰道を「玉体杉」までと「黒谷青龍寺」の往復、西塔の「弥勒仏」の辺りまでだけでしたが、中心エリアから外れて歩くと観光エリアとは違った比叡山の魅力が発見できます。
しかし、横川エリアを歩く頃になると膝とふくらはぎに張ってきて、酷暑で怠けていた夏場の運動不足が祟ってしまいました。
横川の駐車場に車を停めた時、山側に「玉体杉」への道筋を示す看板があり、もし「玉体杉」から横川まで歩いていたらここに到着するんだなぁと確認ができました。
朝から悩まされた霧は横川エリアを参拝する頃にやっと消え、雲に覆われて麓の景色は見えないものの、しっとりとした雰囲気の中での参拝となりました。
横川中堂は848年、慈覚大師・円仁によって創建され、信長の比叡山焼き討ちによって全焼。秀吉が再建したものの昭和17年の雷火により再び全焼。
現在の御堂は、昭和46年に鉄筋鉄骨コンクリート建てで復元され、建物も朱色の鮮やかさから新しい印象の御堂に見えます。
本尊は平安後期の作とされる「聖観音菩薩立像」を祀っており、仏像が焼き討ちを逃れたのは横川中堂を担当した秀吉が逃がしたとの説もあります。
横川中堂の正面横には「赤山宮」が祀られており、赤山宮は慈覚大師・円仁が入唐留学の時、中国の赤山で新羅明神を守護神として勧請し、自らの呪命神としたという。
無事10年間の中国での修行が終わったので、帰国後この地に祀ったのが赤山宮で、除災延寿と方徐の神として祀られているという。
横川エリアの参道には西国三十三所の石仏が並んでおり、この石仏は第三十三番満願霊場の「谷汲山華厳寺」の十一面観世音菩薩。
西国三十三所巡礼は、三十二の札所と番外3所は参拝出来ていますが、あと1寺姫路の圓教寺だけがお参りできていません。機会を作って満願したいところです。
では、今回の比叡山参拝の最後となる「元三大師堂」へお参りします。
初めて元三大師堂へ参拝した時は、まだ雪が残っていて、屋根から落ちる雪の音に驚いたものでしたが、今回は汗を拭きながらの参拝です。
諡号・慈恵大師、通称・元三大師こと良源は滋賀県長浜市虎姫町に生まれ、12歳の時に比叡山で修行を始めて第十八代天台座主にまでなった僧です。
今も良源の生誕地の三川町には「元三大師御産湯井」が残り、良源を御本尊として祀る「玉泉寺」があります。
「玉泉寺」には「降魔大師像」や「御籤箱」が残されているといい、良源の母が出産祈願したという野瀬町の「大吉寺」には室町期の良源座像が祀られているという。
また高島市新旭町の「米井大泉寺」も良源の生誕地とされ、この寺院にも「大師産湯」の池があるといいますので、滋賀県での元三大師信仰は根強い。
慈恵大師・良源は「おみくじ」の元祖としてであったり、角大師・豆大師に変化して疫病神を払う魔除けの護符のモデルとしての方が有名かと思います。
坂本の辺りでは玄関に角大師の護符を貼っている家も見受けられ、湖南地方では豆大師を田圃の守り神としている地域があるそうです。
「角大師」は良源が夜叉の姿と化した姿を護符にしたもの、「豆( 魔滅 )大師」は33体の大師の護符で、観音の化身ともされる良源が衆生を救うため三十三の姿に化身した護符だという。
余談になりますが、良源の生誕地の虎姫にある虎御前山の展望台からは、田圃に古代米で描いた角大師の姿が拝め、「角大師の里」の文字も描かれます。
元三大師堂はもとは慈恵大師・良源の住居跡で、堂内ではあの有名なおみくじの受付がありました。
自分が進むべき道に迷っている時に、進む道を決めるのは自分とはいえ、住職に相談して元三大師に強く背中を押してもらえたら迷いなく進めるのではないでしょうか。
横川エリアは広く、全域は巡っていませんが、そろそろ歩くのも限界になってきましたので、最後の最後に「龍ヶ池弁天」にお参りして、本日の比叡山を終わりとします。
龍ヶ池に棲んでいた大蛇は人に害を与えていましたが、良源の霊力により改心して「龍神」となり、弁天さまの侍者となったと伝わります。
龍ヶ池の水中には無数のオタマジャクシがいましたが、ここはモリアオガエルの産卵場所になっているようですので、この無数のオタマジャクシはモリアオガエルなのかと思います。
西塔や黒谷ではひどい霧で視界がなく景色は全く見えませんでしたが、横川エリアや仰木へのドライブウェイでは、どんよりした雲に覆われつつも琵琶湖を眺めることが出来ました。
琵琶湖大橋の架かる南湖は湖とは思えないほど幅が狭く、まるで大きな川に架かる橋のようです。
湖南では現在地がもし分からなくても、三上山の位置で現在いる場所が推測出来ます。
写真はありませんが、比叡山から見る沖島は湖東から見る沖島とは随分と見た印象が違うことにも驚きます。
<追記>
元三大師のことをもう少し知るために「疫神病除の護符に描かれた元三大師 良源」(サンライズ出版)を入手しました。
分かりやすくてすぐに読み切れる本でしたが、次は滋賀県での元三大師の民俗信仰を詳しく書いた本を探そうかと思います。
訪れるたびに行きたい場所や見たい場所が毎回違うのですが、今回は千日回峰道の一部を歩いて「玉体杉」へ行くこと、「黒谷青龍寺」へ参拝すること、「椿堂特別御開扉」に参拝することでした。
山中を歩いたのは峰道を「玉体杉」までと「黒谷青龍寺」の往復、西塔の「弥勒仏」の辺りまでだけでしたが、中心エリアから外れて歩くと観光エリアとは違った比叡山の魅力が発見できます。
しかし、横川エリアを歩く頃になると膝とふくらはぎに張ってきて、酷暑で怠けていた夏場の運動不足が祟ってしまいました。
横川の駐車場に車を停めた時、山側に「玉体杉」への道筋を示す看板があり、もし「玉体杉」から横川まで歩いていたらここに到着するんだなぁと確認ができました。
朝から悩まされた霧は横川エリアを参拝する頃にやっと消え、雲に覆われて麓の景色は見えないものの、しっとりとした雰囲気の中での参拝となりました。
横川中堂は848年、慈覚大師・円仁によって創建され、信長の比叡山焼き討ちによって全焼。秀吉が再建したものの昭和17年の雷火により再び全焼。
現在の御堂は、昭和46年に鉄筋鉄骨コンクリート建てで復元され、建物も朱色の鮮やかさから新しい印象の御堂に見えます。
本尊は平安後期の作とされる「聖観音菩薩立像」を祀っており、仏像が焼き討ちを逃れたのは横川中堂を担当した秀吉が逃がしたとの説もあります。
横川中堂の正面横には「赤山宮」が祀られており、赤山宮は慈覚大師・円仁が入唐留学の時、中国の赤山で新羅明神を守護神として勧請し、自らの呪命神としたという。
無事10年間の中国での修行が終わったので、帰国後この地に祀ったのが赤山宮で、除災延寿と方徐の神として祀られているという。
横川エリアの参道には西国三十三所の石仏が並んでおり、この石仏は第三十三番満願霊場の「谷汲山華厳寺」の十一面観世音菩薩。
西国三十三所巡礼は、三十二の札所と番外3所は参拝出来ていますが、あと1寺姫路の圓教寺だけがお参りできていません。機会を作って満願したいところです。
では、今回の比叡山参拝の最後となる「元三大師堂」へお参りします。
初めて元三大師堂へ参拝した時は、まだ雪が残っていて、屋根から落ちる雪の音に驚いたものでしたが、今回は汗を拭きながらの参拝です。
諡号・慈恵大師、通称・元三大師こと良源は滋賀県長浜市虎姫町に生まれ、12歳の時に比叡山で修行を始めて第十八代天台座主にまでなった僧です。
今も良源の生誕地の三川町には「元三大師御産湯井」が残り、良源を御本尊として祀る「玉泉寺」があります。
「玉泉寺」には「降魔大師像」や「御籤箱」が残されているといい、良源の母が出産祈願したという野瀬町の「大吉寺」には室町期の良源座像が祀られているという。
また高島市新旭町の「米井大泉寺」も良源の生誕地とされ、この寺院にも「大師産湯」の池があるといいますので、滋賀県での元三大師信仰は根強い。
慈恵大師・良源は「おみくじ」の元祖としてであったり、角大師・豆大師に変化して疫病神を払う魔除けの護符のモデルとしての方が有名かと思います。
坂本の辺りでは玄関に角大師の護符を貼っている家も見受けられ、湖南地方では豆大師を田圃の守り神としている地域があるそうです。
「角大師」は良源が夜叉の姿と化した姿を護符にしたもの、「豆( 魔滅 )大師」は33体の大師の護符で、観音の化身ともされる良源が衆生を救うため三十三の姿に化身した護符だという。
余談になりますが、良源の生誕地の虎姫にある虎御前山の展望台からは、田圃に古代米で描いた角大師の姿が拝め、「角大師の里」の文字も描かれます。
元三大師堂はもとは慈恵大師・良源の住居跡で、堂内ではあの有名なおみくじの受付がありました。
自分が進むべき道に迷っている時に、進む道を決めるのは自分とはいえ、住職に相談して元三大師に強く背中を押してもらえたら迷いなく進めるのではないでしょうか。
横川エリアは広く、全域は巡っていませんが、そろそろ歩くのも限界になってきましたので、最後の最後に「龍ヶ池弁天」にお参りして、本日の比叡山を終わりとします。
龍ヶ池に棲んでいた大蛇は人に害を与えていましたが、良源の霊力により改心して「龍神」となり、弁天さまの侍者となったと伝わります。
龍ヶ池の水中には無数のオタマジャクシがいましたが、ここはモリアオガエルの産卵場所になっているようですので、この無数のオタマジャクシはモリアオガエルなのかと思います。
西塔や黒谷ではひどい霧で視界がなく景色は全く見えませんでしたが、横川エリアや仰木へのドライブウェイでは、どんよりした雲に覆われつつも琵琶湖を眺めることが出来ました。
琵琶湖大橋の架かる南湖は湖とは思えないほど幅が狭く、まるで大きな川に架かる橋のようです。
湖南では現在地がもし分からなくても、三上山の位置で現在いる場所が推測出来ます。
写真はありませんが、比叡山から見る沖島は湖東から見る沖島とは随分と見た印象が違うことにも驚きます。
<追記>
元三大師のことをもう少し知るために「疫神病除の護符に描かれた元三大師 良源」(サンライズ出版)を入手しました。
分かりやすくてすぐに読み切れる本でしたが、次は滋賀県での元三大師の民俗信仰を詳しく書いた本を探そうかと思います。
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