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また室町時代には正親町三条公綱が勅勘を蒙り丁野の地に左遷され、その寄進により十一面観音を本尊として大堂を再建したと由緒書きにはあります。
しかし、文明3年(1471年)になると時の住職が蓮如(浄土真宗)に帰依したことから無住の寺となってしまい、以後は村人達によって守り続けられてきた観音様とされています。
滋賀県の湖北地方は浄土真宗の信仰が盛んな地とされていますが、浄土真宗の門徒ではありながらも、村の観音様信仰をするという絶妙のバランス感による信仰が湖北地方にはあるようです。
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観音堂は同じ敷地内にある岡本神社(山王大権現)と共に神仏習合の寺社に見えますが、これは明治の廃仏毀釈の折に形の上では分離されたようです。
お堂は過去3度の火災に見舞われて、現在の堂は19世紀の初期に再建されたものとされています。
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特別開帳に訪れたのですが、まだ参拝客は誰も来ていない時でしたので、お役の方に堂を開けてもらって中へ入れていただいた後、厨子の幕を外してもらいましたが、やはり仏像が開帳される時の緊張感はたまりませんね。
厨子と本堂は、長浜曳山祭りの曳山も造った藤岡重兵衛という方が造られたとされていて、特に厨子は曳山祭りの山車を連想させてくれます。
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藤岡重兵衛が手がけた長浜曳山祭りの山車は、「萬歳楼」「孔雀山(亭)」「青海山(亭)」 「月宮殿(亭)」「高砂山(亭)」となりますから、藤岡重兵衛は数多くの曳山を手がけた名工ということになります。
曳山祭りの山車と丁野観音堂の厨子を比較すると、確かに造りに共通点が見られるように思います。
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2017年曳山祭り 御旅所に並ぶ山車
観音堂に祀られている「十一面観音坐像」は平安後期の作とされ、“東京藝術大学で開催された『観音の里の祈りとくらし展-びわ湖・長浜のホトケたち-』で有名になってから参拝客が多くなりましたよ。”とお役の方が言われていました。
像高99cmの六臂の十一面観音で八臂の仏像はよくありますが、六臂でしかも坐像なのは少し変わった仏像ですね。
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観音様は柔和な表情をされていて、口には紅の色が残っています。
ふっくらとした体型になっていますが、彫眼の目はくっきりと周囲を見定めており、木地が見える仏像ゆえの独特の落ち着きが感じられるのが味わい深い仏像と感じます。
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堂内には小ぶりな厨子が2つあって、左に「脇坂観音菩薩像」・右側に丁野山王社(岡本神社の前身)本地仏の「宇賀弁財天(*パンフレットには地蔵菩薩と表記)が祀られています。
竹生島の宇賀弁財天信仰と小谷の地の浅井家とは深いつながりがあったようですので、この宇賀弁財天は竹生島弁財天信仰に由来するものと考えられます。
この丁野観音堂のある地域は、浅井家の小谷城のお膝元ですが、丁野は浅井三代の浅井亮政(浅井三代としては初代)の出生の地でもあるようです。
境内には三条公綱公の御閑居時に手植えされたとされる銀杏の大木が3本あり、それらの逸話を表するように2つの石標が建てられてありました。
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敷地内にある岡本神社は浅井家の祈願所でもあったそうですが、信長の小谷城攻めの戦乱で大半を焼失し、岡山(丁野にある低山)に鎮座していた神社を現在の地に再建遷座された神社とされます。
神社の鳥居と寺院の入り口は別々ですが、中で参道はつながっており隣り合わせで建立されていますので元は神仏習合の寺社だったのでしょう。
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小谷丁野観音堂は、集落で祀っている観音堂ですから御朱印はありませんが、お役の方に勧められてスタンプを押して帰ってきました。
お寺でスタンプを押すのは初めてかも?
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湖北に数ある観音様は、ほとんどが村人によって守り続けられてきた観音様です。
無住のお堂ばかりですが、どの観音様を見ても素晴らしい仏像が揃っているところは信仰深い湖北の農村の文化が伺われる思いがします。
東京で『湖北の観音』の評価が高まっているのも納得するものがありますね。
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