勧請縄とは村境や神社の参道や鳥居に呪物を付した縄を張る伝統行事で、道切りと呼ばれることもあります。
滋賀県では一部の例外を除いては湖東・湖南地方にのみ見られ、地域による傾向はあるものの2つとして同じものがない個性豊かなものとなっています。
年初に勧請縄を掛けるのは、村内安全・五穀豊穣・疫病退散・子孫繁栄などを祈念してのものですが、高齢化による廃止や簡略化で勧請縄が減ってきています。
資料では確認出来た勧請縄や前回訪れた時にはあった勧請縄がなくなっているケースは多々あり、探し始めてからたった4年の間でも大きな変化があります。
白王町白部の「若宮神社」は集落の外れの山側にある神社で、この神社を含む西の湖の水郷近くには5カ所の勧請縄が存在していたという。
2カ所は見つけ、1カ所は廃止になったことを確認、場所が分からなかったのが2カ所です。
神社の勧請縄は正面の鳥居に掛けられている場合もありますが、石段の上の高い場所に掛けられている場合があります。
石段の上の高いに吊るされている場合だと、視界から外れてしまいますので普通に歩いていると見落しまいます。
トリクグラズはヒノキの枝で円を形どり、3本の御幣を立てて、主縄の中央部の下に7本の小縄を下げている。
勧請縄は1月の前半までに吊るされることが多いので、まだ葉が青々しく御幣の紙も綺麗な状態です。
近江八幡市白王町には「若宮神社」が2つあり、訪れたのは白部村の若宮神社で御祭神に大國主神を祀ります。
もうひとつの若宮神社は王浜村にあるといい、そちらの若宮神社は御祭神に「惟喬親王」を祀っているのだといいます。
惟喬親王は「木地師の祖」とされ、東近江市の小椋谷(君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所)や愛知川沿いや多賀町に伝説が残ります。
近江八幡での伝説は、『当時この辺りは葦原で寂しい孤島であったが、惟喬親王の船が京から遁れてきてこの地に隠れ住んだ。
岩屋に住まわれた親王は郁子(むべ)を常食として過ごされていたといい、村人に手芸や細工などを教えられた。』(近江八幡ふるさとの昔ばなし)
奇しくも同じ地域にある「大嶋奥津島神社」には天智天皇と郁子(むべ)の伝説が残り、「むべなるかな」の由来となっているのは実に興味深い。
次も西の湖水郷近くの「圓山神社」ですが、ここは2年前に訪れた時に既に勧請縄はなくなっていた神社です。
この日は祭典の日で、正装した氏子の方が続々とお見えになり、やや堅苦しく感じるなか目立たないように参拝しました。
長い石段は最初は緩やかながら段々と急になっていきます。
途中で休憩されていた氏子の方に“もう勧請縄はないのですか?”と聞くと、“材料の藁が集めにくくなり、そもそも人手が集められない。”
と他村でもある悩ましい問題によって行事が維持出来なくなってしまい、3年前に勧請縄は廃止して化学繊維の注連縄に変えたとのことでした。
石段の中段には「寶珠寺」の本堂があり、重要文化財の「毘沙門天立像」が祀られており、御堂は景観重要建造物に指定されているそうです。
天台宗の寺院とありますので、かつてこの山は圓山神社の磐座を中心とする神仏習合の山だったと思われます。
「圓山神社」は御祭神に農耕の神である「天津彦火瓊瓊杵尊」を祀り、境内社として「祇園神社」「津島神社」「愛宕神社」「行事神社」を祀る。
驚くのは本殿の後方にある巨大な磐座で、この磐座を中心として信仰されてきたのが伺われます。
氏子の方に近くに勧請縄を吊るしているところはないか聞いてみたところ“「大嶋奥津島神社」へ行ってみたらどうか”と教えてもらいました。
「大嶋奥津島神社」は、大国主神を御祭神とする「大嶋神社」と奥津比賣命を御祭神とする「奥津島神社」が合祀された神社です。
拝殿・本殿は有名な神社に参拝したような立派な造りとなっていて驚くような大きな規模の神社です。
境内に「むべ」を育てている一画があり不思議に思っていましたが、これには天智天皇と郁子(むべ)の伝説があります。
天智天皇が蒲生野へ狩猟に訪れた際に奥津嶋神社に立ち寄った際、健康的な老夫婦に会ったという。
天智天皇はこの夫婦に長寿の秘訣をお尋ねになると「これを食べているからです。」と答えられ、郁子を手渡される。
その果物を一口お召し上がりになった天智天皇は「むべなるかな(もっともであるな)」と仰せになり、この果実の名前となったと伝わります。
近江八幡の郁子の皇室献上は天智天皇に始まり、一時中断したものの2002年から大嶋奥津嶋神社の郁子は皇室に献上されているとのことです。
次に西の湖水郷近くの勧請縄の2つ目を探しに「天之御中主尊神社」へ参拝します。
天之御中主尊は後方にある長命寺山や津田山の山頂付近に磐座(神社の奥宮)があり、この山は何度も登りに来た山で別の意味で馴染み深い。
長命寺山~空奏テラス~津田山は巨石群や磐座が多く、お気に入りの山登りコースですが、里宮は一度参拝したのみでした。
鳥居の付近は普通の村社といった感じですが、途中にある石段から先は立派な造りの神社となっています。
石段を登り切って本殿まで行ったものの、勧請縄が見つからないと思いきや、石段の上の高い所に吊るされているのを発見。
石段の途中で立ち止まって写真を撮っている当方を、後から降りてきた人が不思議がっていましたが、勧請縄を発見して“あっ天狗!”と驚いておられました。
トリクグラズは樫の木で大きな四角形を作り、中に✖を入れて真ん中に天狗の鼻のように突き出した部分を造っています。
“あっ天狗!”と声を上げられた方の感じ方が理解できますね。
小縄は下げられていないのですが、境内の灯籠などすべてに小縄が付けられています。
龍の吐水で身を清めて本殿に参拝します。
社務所や拝殿には由緒書きや絵馬、龍の描かれた色紙や御朱印が並びます。
色紙は手書きと思われますが、宮司さんの手書きのようですので、絵心たっぷりの宮司さんのようです。
本殿はやや小ぶりな造りとなっており、境内社は伊勢神宮・多賀大社・大嶋神社の3社。
これで山麓の里宮・山頂の奥宮の両方に参拝することができました。
拝殿の横では世話方の方が何やら準備中で、葦を組んで蔓で固定した板状のところに的を取り付けられています。
1月7日にあった古式弓取り式があったが的が穴だらけになったので張り替えているとのことでした。
手作りの弓矢が置いてあり、まずは世話方の方にお手本を見せて頂きます。
では今年の開運を祈念して弓を射りますが、凄くプレッシャーを感じます。
おみくじなんかだと何が出るか他力本願の部分がありますが、これは自分の手で弓を射りますので自力本願で、外れた時のショックは大きい。
エイ!とばかりに矢を射ると、一番外側の黒いエリア(下側やや右)に刺さった!
ギリギリだけど微妙に開運の兆しありか?
現実的にビッグウエイブの大きな運気の波に乗れるとは想定できませんが、ちょっとした幸運には恵まれる年になるのかな?
滋賀県では一部の例外を除いては湖東・湖南地方にのみ見られ、地域による傾向はあるものの2つとして同じものがない個性豊かなものとなっています。
年初に勧請縄を掛けるのは、村内安全・五穀豊穣・疫病退散・子孫繁栄などを祈念してのものですが、高齢化による廃止や簡略化で勧請縄が減ってきています。
資料では確認出来た勧請縄や前回訪れた時にはあった勧請縄がなくなっているケースは多々あり、探し始めてからたった4年の間でも大きな変化があります。
白王町白部の「若宮神社」は集落の外れの山側にある神社で、この神社を含む西の湖の水郷近くには5カ所の勧請縄が存在していたという。
2カ所は見つけ、1カ所は廃止になったことを確認、場所が分からなかったのが2カ所です。
神社の勧請縄は正面の鳥居に掛けられている場合もありますが、石段の上の高い場所に掛けられている場合があります。
石段の上の高いに吊るされている場合だと、視界から外れてしまいますので普通に歩いていると見落しまいます。
トリクグラズはヒノキの枝で円を形どり、3本の御幣を立てて、主縄の中央部の下に7本の小縄を下げている。
勧請縄は1月の前半までに吊るされることが多いので、まだ葉が青々しく御幣の紙も綺麗な状態です。
近江八幡市白王町には「若宮神社」が2つあり、訪れたのは白部村の若宮神社で御祭神に大國主神を祀ります。
もうひとつの若宮神社は王浜村にあるといい、そちらの若宮神社は御祭神に「惟喬親王」を祀っているのだといいます。
惟喬親王は「木地師の祖」とされ、東近江市の小椋谷(君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所)や愛知川沿いや多賀町に伝説が残ります。
近江八幡での伝説は、『当時この辺りは葦原で寂しい孤島であったが、惟喬親王の船が京から遁れてきてこの地に隠れ住んだ。
岩屋に住まわれた親王は郁子(むべ)を常食として過ごされていたといい、村人に手芸や細工などを教えられた。』(近江八幡ふるさとの昔ばなし)
奇しくも同じ地域にある「大嶋奥津島神社」には天智天皇と郁子(むべ)の伝説が残り、「むべなるかな」の由来となっているのは実に興味深い。
次も西の湖水郷近くの「圓山神社」ですが、ここは2年前に訪れた時に既に勧請縄はなくなっていた神社です。
この日は祭典の日で、正装した氏子の方が続々とお見えになり、やや堅苦しく感じるなか目立たないように参拝しました。
長い石段は最初は緩やかながら段々と急になっていきます。
途中で休憩されていた氏子の方に“もう勧請縄はないのですか?”と聞くと、“材料の藁が集めにくくなり、そもそも人手が集められない。”
と他村でもある悩ましい問題によって行事が維持出来なくなってしまい、3年前に勧請縄は廃止して化学繊維の注連縄に変えたとのことでした。
石段の中段には「寶珠寺」の本堂があり、重要文化財の「毘沙門天立像」が祀られており、御堂は景観重要建造物に指定されているそうです。
天台宗の寺院とありますので、かつてこの山は圓山神社の磐座を中心とする神仏習合の山だったと思われます。
「圓山神社」は御祭神に農耕の神である「天津彦火瓊瓊杵尊」を祀り、境内社として「祇園神社」「津島神社」「愛宕神社」「行事神社」を祀る。
驚くのは本殿の後方にある巨大な磐座で、この磐座を中心として信仰されてきたのが伺われます。
氏子の方に近くに勧請縄を吊るしているところはないか聞いてみたところ“「大嶋奥津島神社」へ行ってみたらどうか”と教えてもらいました。
「大嶋奥津島神社」は、大国主神を御祭神とする「大嶋神社」と奥津比賣命を御祭神とする「奥津島神社」が合祀された神社です。
拝殿・本殿は有名な神社に参拝したような立派な造りとなっていて驚くような大きな規模の神社です。
境内に「むべ」を育てている一画があり不思議に思っていましたが、これには天智天皇と郁子(むべ)の伝説があります。
天智天皇が蒲生野へ狩猟に訪れた際に奥津嶋神社に立ち寄った際、健康的な老夫婦に会ったという。
天智天皇はこの夫婦に長寿の秘訣をお尋ねになると「これを食べているからです。」と答えられ、郁子を手渡される。
その果物を一口お召し上がりになった天智天皇は「むべなるかな(もっともであるな)」と仰せになり、この果実の名前となったと伝わります。
近江八幡の郁子の皇室献上は天智天皇に始まり、一時中断したものの2002年から大嶋奥津嶋神社の郁子は皇室に献上されているとのことです。
次に西の湖水郷近くの勧請縄の2つ目を探しに「天之御中主尊神社」へ参拝します。
天之御中主尊は後方にある長命寺山や津田山の山頂付近に磐座(神社の奥宮)があり、この山は何度も登りに来た山で別の意味で馴染み深い。
長命寺山~空奏テラス~津田山は巨石群や磐座が多く、お気に入りの山登りコースですが、里宮は一度参拝したのみでした。
鳥居の付近は普通の村社といった感じですが、途中にある石段から先は立派な造りの神社となっています。
石段を登り切って本殿まで行ったものの、勧請縄が見つからないと思いきや、石段の上の高い所に吊るされているのを発見。
石段の途中で立ち止まって写真を撮っている当方を、後から降りてきた人が不思議がっていましたが、勧請縄を発見して“あっ天狗!”と驚いておられました。
トリクグラズは樫の木で大きな四角形を作り、中に✖を入れて真ん中に天狗の鼻のように突き出した部分を造っています。
“あっ天狗!”と声を上げられた方の感じ方が理解できますね。
小縄は下げられていないのですが、境内の灯籠などすべてに小縄が付けられています。
龍の吐水で身を清めて本殿に参拝します。
社務所や拝殿には由緒書きや絵馬、龍の描かれた色紙や御朱印が並びます。
色紙は手書きと思われますが、宮司さんの手書きのようですので、絵心たっぷりの宮司さんのようです。
本殿はやや小ぶりな造りとなっており、境内社は伊勢神宮・多賀大社・大嶋神社の3社。
これで山麓の里宮・山頂の奥宮の両方に参拝することができました。
拝殿の横では世話方の方が何やら準備中で、葦を組んで蔓で固定した板状のところに的を取り付けられています。
1月7日にあった古式弓取り式があったが的が穴だらけになったので張り替えているとのことでした。
手作りの弓矢が置いてあり、まずは世話方の方にお手本を見せて頂きます。
では今年の開運を祈念して弓を射りますが、凄くプレッシャーを感じます。
おみくじなんかだと何が出るか他力本願の部分がありますが、これは自分の手で弓を射りますので自力本願で、外れた時のショックは大きい。
エイ!とばかりに矢を射ると、一番外側の黒いエリア(下側やや右)に刺さった!
ギリギリだけど微妙に開運の兆しありか?
現実的にビッグウエイブの大きな運気の波に乗れるとは想定できませんが、ちょっとした幸運には恵まれる年になるのかな?
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