寺院に祀られている仏像には“事前情報なしで参拝してみたら凄い仏像に出会った!”というケースと、“どうしてもこの目で見てみたい仏像!”があると思います。
永観堂(禅林寺)の「みかえり阿弥陀」は後者の“どうしても見てみたい仏像”の一つでした。
永観堂は銀閣寺へと疏水沿いに続く“哲学の道”の出発点にほど近く、すぐ隣には南禅寺が門を構える東山にある寺院でした。
車で行きましたので、湯豆腐屋さんが並ぶ南禅寺前の参道から南禅寺中門を抜けて、南禅寺境内から住宅地を回り込んだすぐの場所に永観堂はありました。
永観堂へ入っても総門を車で抜けて駐車場に行くのですが、門を車で抜ける寺社はよくあることとはいえ“こんなとこ車で入ってもいいのかなぁ?”という違和感を感じてしまいます。
「永観堂」という名は通称で、正式には「聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺」といいますが、第七世永観律師にちなんで「永観堂」と通称されているといわれます。
永観堂こと禅林寺は、863年に空海の高弟・真紹僧都が清和天皇より「禅林寺」の寺号を賜り、真言密教の道場として重要な役割を果たしたとされています。
「禅林寺」が「永観堂」と呼ばれるようになった由縁は、中興の祖とされる「第7世住持・永観律師(1033年~1111年)への信仰によるものだと案内にあります。
永観は念仏修行に励み、日々の生活に苦しむ人々や病人への施しに熱心に取り組まれた方とされ、永観堂を念仏道場として発展させたとされます。
「禅林寺」の現在は、浄土宗西山禅林寺派の総本山とされていますが、平安時代の永観の時代は「真言・三論(南都六宗)・浄土」の考えが混在していたといいます。
浄土宗への変換は、鎌倉時代に第12世の静遍僧都が法然上人に帰依したことが始まりとされています。
教義のことは全く分かりませんが、真言宗の僧であった静遍僧都は当初「専修念仏」の考えに反発していたそうですが、最後は法然の教えに帰依したと伝わります。
東山を背後にした永観堂は別名「もみじの永観堂」と呼ばれるそうですが、大家にその名に恥じないようなもみじの寺院でした。
紅葉時には大混雑するようですのでその時期の参拝は躊躇われますが、青もみじが広がる様子を見ていると、さぞや紅葉時には見ごたえがあるだろうと想像致します。
総門は1840年の建築とされ「高麗門」といわれる様式のようです。中門は1713年建築で「薬医門」といわれる様式で前にせり出したような軒になっています。しかし青もみじの勢いが良すぎて門が隠れてしまってますね。
勅使門は唐門様式で1830年の建立とされます。前にある盛り砂は訪れた勅使が踏んで身を清めるためとされており、手のかかった盛り砂といい、土壁の5本筋塀といい、格式の高さを感じさせてくれる門ですね。
大玄関で靴を脱いで建家内に入ると、「釈迦堂・瑞紫殿・御影堂・阿弥陀堂」などの諸堂を拝観することになります。
最初にお参りする瑞紫殿には「火伏せの阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来が祀られていました。元々は5躰の仏像が安置されていたそうですが、応仁の乱で焼失してしまい、この阿弥陀如来像だけが唯一残ったことから「火伏せの阿弥陀」と呼ばれているそうです。
左右には愛染明王・不動明王がしっかりと脇を固めています。
「火伏せの阿弥陀」(江戸時代)・・・パンフレット
諸堂の間にはいくつかの庭園があり、上の池には羊草が美しい花を咲かせ、カエルの声が響いてきます。
歴史のある寺院ですから客間も多く「孔雀の間・四季の間・虎の間・松の間・仙人の間」などの部屋にはそれぞれ障壁画が飾られていました。
廊下を進むと水琴窟があり、尺で水をかけると美しい音色が聞こえますので、しばし聞きいることに。
“龍の背を歩くようだ”と言われる「臥龍廊」はまさに龍が体をくねらせているような廊下でした。
山の斜面に沿わせて組まれている急勾配の廊下で見事な曲線の廊下となっていました。
釈迦堂には「釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩」の釈迦三尊。
御影堂には左右に祀られた四天王像に守られた厨子が4つあり、須弥壇の中央には法然上人像が祀られてある寺内最大の建物でした。
さて念願の「みかえり阿弥陀」が祀られている本堂の阿弥陀堂は一番奥にありました。
「みかえり阿弥陀」は1階の須弥壇にはおられませんでしたが、左の脇陣には「智空上人像・當麻曼荼羅・空顕上人像」、右の脇陣には「永観律上人・十一面観音立像・地蔵菩薩立像(平安前期作)」が祀られています。
上人像というのはどなたの像なのか見分けがつかないのが難点です。
阿弥陀堂の上階へ行くとやっと「みかえり阿弥陀」に出会うことができます。
平安後期~鎌倉前期に造られたとされる重要文化財の仏像ですが、そのお姿よりもまずサイズに驚いてしまいます。
実はもっと大きい仏像だと思っていたのですが、像高は77cmと想像していたより少し小さい印象を受けます。
「みかえり阿弥陀」(鎌倉時代初期・重文)は、永観律師が念仏を唱えながら行道していた時、阿弥陀如来が須弥壇を降り歩き始めたとされます。驚いた永観律師が歩みを止めると、振り返り“永観遅し”とおっしゃったとされます。
この話を聞くと、怪奇譚というよりも阿弥陀如来の人間ぽい話で、“共に進もうではないか、遅れても待っているから。”といったような「みかえり阿弥陀」の慈愛が感じられ、この方は“きっと衆生を受け入れてくださる仏さま”なんだと思えてしまいます。
「みかえり阿弥陀」・・・パンフレット
境内で最も高い位置にあるのは多宝堂で、御影堂の近くから約140段登った若王子山(標高183m)の中腹に建てられています。
1928年に建てられた比較的新しい堂宇ですが、山の中腹の木々の中で存在感があります。
多宝堂のすぐ下からは京都東山の景色が広がります。
右の小山は黒谷山、中央右寄りの奥には愛宕山、市街地の左側の四角い建物は京都ホテルオークラと書かれてありましたが、こうして見るとやはり京都は盆地ですね。
境内の端の方には不動明王を祀った滝がありました。
不動明王とか滝とか好きなんですよね。
御朱印場では「三鈷の松」という縁起物のお守りをいただきました。
「三鈷の松」は御影堂の横にある松の古木で松葉が3本あることから、宝具の三鈷杵に例えられて「三鈷の松」と呼ばれ、真心・智慧・慈悲の3つの運を授かるとされています。
ところで、「みかえり阿弥陀」についてはもう一つ話があって、“外陣に参拝者がくると正面にいる人には姿が拝めるが、正面に入れない人のために横を向いて、正面の人だけでなく多くの人に姿(顔)が見えるようにみかえりの姿となっている”とも書かれてありました。
衆生のもとに歩み寄るような珍しいお姿の「みかえり阿弥陀」に心静まる想いがします。
永観堂(禅林寺)の「みかえり阿弥陀」は後者の“どうしても見てみたい仏像”の一つでした。
永観堂は銀閣寺へと疏水沿いに続く“哲学の道”の出発点にほど近く、すぐ隣には南禅寺が門を構える東山にある寺院でした。
車で行きましたので、湯豆腐屋さんが並ぶ南禅寺前の参道から南禅寺中門を抜けて、南禅寺境内から住宅地を回り込んだすぐの場所に永観堂はありました。
永観堂へ入っても総門を車で抜けて駐車場に行くのですが、門を車で抜ける寺社はよくあることとはいえ“こんなとこ車で入ってもいいのかなぁ?”という違和感を感じてしまいます。
「永観堂」という名は通称で、正式には「聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺」といいますが、第七世永観律師にちなんで「永観堂」と通称されているといわれます。
永観堂こと禅林寺は、863年に空海の高弟・真紹僧都が清和天皇より「禅林寺」の寺号を賜り、真言密教の道場として重要な役割を果たしたとされています。
「禅林寺」が「永観堂」と呼ばれるようになった由縁は、中興の祖とされる「第7世住持・永観律師(1033年~1111年)への信仰によるものだと案内にあります。
永観は念仏修行に励み、日々の生活に苦しむ人々や病人への施しに熱心に取り組まれた方とされ、永観堂を念仏道場として発展させたとされます。
「禅林寺」の現在は、浄土宗西山禅林寺派の総本山とされていますが、平安時代の永観の時代は「真言・三論(南都六宗)・浄土」の考えが混在していたといいます。
浄土宗への変換は、鎌倉時代に第12世の静遍僧都が法然上人に帰依したことが始まりとされています。
教義のことは全く分かりませんが、真言宗の僧であった静遍僧都は当初「専修念仏」の考えに反発していたそうですが、最後は法然の教えに帰依したと伝わります。
東山を背後にした永観堂は別名「もみじの永観堂」と呼ばれるそうですが、大家にその名に恥じないようなもみじの寺院でした。
紅葉時には大混雑するようですのでその時期の参拝は躊躇われますが、青もみじが広がる様子を見ていると、さぞや紅葉時には見ごたえがあるだろうと想像致します。
総門は1840年の建築とされ「高麗門」といわれる様式のようです。中門は1713年建築で「薬医門」といわれる様式で前にせり出したような軒になっています。しかし青もみじの勢いが良すぎて門が隠れてしまってますね。
勅使門は唐門様式で1830年の建立とされます。前にある盛り砂は訪れた勅使が踏んで身を清めるためとされており、手のかかった盛り砂といい、土壁の5本筋塀といい、格式の高さを感じさせてくれる門ですね。
大玄関で靴を脱いで建家内に入ると、「釈迦堂・瑞紫殿・御影堂・阿弥陀堂」などの諸堂を拝観することになります。
最初にお参りする瑞紫殿には「火伏せの阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来が祀られていました。元々は5躰の仏像が安置されていたそうですが、応仁の乱で焼失してしまい、この阿弥陀如来像だけが唯一残ったことから「火伏せの阿弥陀」と呼ばれているそうです。
左右には愛染明王・不動明王がしっかりと脇を固めています。
「火伏せの阿弥陀」(江戸時代)・・・パンフレット
諸堂の間にはいくつかの庭園があり、上の池には羊草が美しい花を咲かせ、カエルの声が響いてきます。
歴史のある寺院ですから客間も多く「孔雀の間・四季の間・虎の間・松の間・仙人の間」などの部屋にはそれぞれ障壁画が飾られていました。
廊下を進むと水琴窟があり、尺で水をかけると美しい音色が聞こえますので、しばし聞きいることに。
“龍の背を歩くようだ”と言われる「臥龍廊」はまさに龍が体をくねらせているような廊下でした。
山の斜面に沿わせて組まれている急勾配の廊下で見事な曲線の廊下となっていました。
釈迦堂には「釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩」の釈迦三尊。
御影堂には左右に祀られた四天王像に守られた厨子が4つあり、須弥壇の中央には法然上人像が祀られてある寺内最大の建物でした。
さて念願の「みかえり阿弥陀」が祀られている本堂の阿弥陀堂は一番奥にありました。
「みかえり阿弥陀」は1階の須弥壇にはおられませんでしたが、左の脇陣には「智空上人像・當麻曼荼羅・空顕上人像」、右の脇陣には「永観律上人・十一面観音立像・地蔵菩薩立像(平安前期作)」が祀られています。
上人像というのはどなたの像なのか見分けがつかないのが難点です。
阿弥陀堂の上階へ行くとやっと「みかえり阿弥陀」に出会うことができます。
平安後期~鎌倉前期に造られたとされる重要文化財の仏像ですが、そのお姿よりもまずサイズに驚いてしまいます。
実はもっと大きい仏像だと思っていたのですが、像高は77cmと想像していたより少し小さい印象を受けます。
「みかえり阿弥陀」(鎌倉時代初期・重文)は、永観律師が念仏を唱えながら行道していた時、阿弥陀如来が須弥壇を降り歩き始めたとされます。驚いた永観律師が歩みを止めると、振り返り“永観遅し”とおっしゃったとされます。
この話を聞くと、怪奇譚というよりも阿弥陀如来の人間ぽい話で、“共に進もうではないか、遅れても待っているから。”といったような「みかえり阿弥陀」の慈愛が感じられ、この方は“きっと衆生を受け入れてくださる仏さま”なんだと思えてしまいます。
「みかえり阿弥陀」・・・パンフレット
境内で最も高い位置にあるのは多宝堂で、御影堂の近くから約140段登った若王子山(標高183m)の中腹に建てられています。
1928年に建てられた比較的新しい堂宇ですが、山の中腹の木々の中で存在感があります。
多宝堂のすぐ下からは京都東山の景色が広がります。
右の小山は黒谷山、中央右寄りの奥には愛宕山、市街地の左側の四角い建物は京都ホテルオークラと書かれてありましたが、こうして見るとやはり京都は盆地ですね。
境内の端の方には不動明王を祀った滝がありました。
不動明王とか滝とか好きなんですよね。
御朱印場では「三鈷の松」という縁起物のお守りをいただきました。
「三鈷の松」は御影堂の横にある松の古木で松葉が3本あることから、宝具の三鈷杵に例えられて「三鈷の松」と呼ばれ、真心・智慧・慈悲の3つの運を授かるとされています。
ところで、「みかえり阿弥陀」についてはもう一つ話があって、“外陣に参拝者がくると正面にいる人には姿が拝めるが、正面に入れない人のために横を向いて、正面の人だけでなく多くの人に姿(顔)が見えるようにみかえりの姿となっている”とも書かれてありました。
衆生のもとに歩み寄るような珍しいお姿の「みかえり阿弥陀」に心静まる想いがします。
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