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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~福井県小浜市 棡山 明通寺~

2017-08-13 20:03:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 作家の五木寛之は2年間で『百寺巡礼』を行うという企画の番組にかつて出演されていて、巡礼の旅番組として放映するとともに、随筆として国内・海外合わせて16冊の巡礼紀行を書かれています。
「日本人の原風景・原点とは何かを見つめ直し、日本人が見失ったもの(目に見えない価値)を求めていく旅」をテーマにした番組・本でしたから、寺院めぐりを始めた当方にとってはいい巡り合わせで知った番組・本でした。

しかし、実際は2年間で百寺を巡礼するということは、かなりのハイペースでの寺院巡りが必要となります。
当方もしょっちゅう寺院に行っているように思っていましたが、御朱印蒐集を始めてからの2年足らずで訪れた寺院は約70寺と百寺にはとても届きそうにはありません。

寺院へはただ闇雲に訪れるわけではなく、その寺院に何らかのひかれるものや興味を感じるものがあって参拝するわけですので、行ってみたい寺院を見つけることもまたそう簡単ではないとも思います。
この明通寺は、参拝する前日に五木寛之の『百寺巡礼』の録画を見ていて、山中の古刹感・仏像美にひかれて参拝を思い立ち、急遽お参りすることになった寺院です。

 

明通寺は滋賀県側から行くと、高島市今津から福井県へ入り、鯖街道(若狭と京都を結ぶ街道)を進んでいって、松永川を上流へと延々と遡っていった山間の自然豊かな場所にありました。
日本海に面した小浜のイメージとは一線を画したような山の中に、ひっそりと人気(ひとけ)のない落ち着いた空気の流れる古刹に近づくと、参拝前から気持ちが満たされてくるのが分かります。



駐車場から寺院へは、彼岸と此岸を区切ったかのような赤い橋を渡っていくと、石碑が見えてきて橋の下には綺麗な渓流が流れています。
渓流を見ているとカワガラスの姿があり、付近の木々にはヤマガラが飛び交う姿が見え、自然豊かな山里の風景に思わず気持ちが和みます。



明通寺は縁起によると、806年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が堂宇を創建し、棡の木(ゆずりぎ)を切って「薬師如来」「降三世明王」「深沙大将」の3躰を彫って安置したのが始りとされます。
蝦夷征伐に功のあった田村麻呂でしたが、明通寺の開創にあたっては“戦勝祈願”ではなく、“征戮(せいりく)した蝦夷たちの浮かばれない魂を弔うため”とされているそうです。
優れた武人であったとされる田村麻呂は晩年に近づくにつれ慈悲の心が強くなってきたのかもしれませんね。



まず山門(仁王門)への石段登りから始まるのですが、登るのが嬉しくなるような石段が一直線に続いています。
山門は1772年に再建された建築物で、250年近い歴史が感じられる山門です。



仁王門には鎌倉時代作とされる像高190cmの迫力のある阿吽の仁王様が左右を固めています。
仁王像は1264年に造られた像だと考えられており、筋肉隆々の体と気迫のある顔で750年に渡って寺門を守護されてきたのかと思うと、仁王様の厳しい表情も相まって気が引き締まる思いがします。

 

明通寺は、真言宗御室派(総本山は仁和寺)の寺院で最盛期には25坊が並んだ大寺院だったとされます。
福井県で国宝に指定された建築物はここ明通寺の「本堂」と「三重塔」の2つだけだそうですが、両方共「古色蒼然」といった言葉がよく合う建築物だと思います。



本堂は、鎌倉時代中期の1258年に再建されたとされ、桧皮葺の入母屋造の本堂の歴史を感じさせる古色の堂々とした姿にはかえって美しさを感じてしまいます。
この本堂では年配のご住職が参拝者が訪れるのを待たれていて、到着した参拝者を招き入れて外陣で寺院の説明をして下さります。





参拝者はこの時、当方一人でしたので一人だけのための説明となってしまい申し訳なかったのですが、淀みのない説明をしていただき感謝をしております。
お話が終わると“内陣でお参り下さい”と言っていただき、仏像を間近で拝むことが叶いました。



内陣には中央に御本尊である「薬師如来坐像」、向かって左に「深沙大将」、右に「深沙大将」と三尊が脇侍として並び、その前には十二神将が守護するように安置されています。
本尊の「薬師如来坐像」はかつては秘仏で33年に一度の御開帳だったそうですが、先代のご住職の英断によって常時公開されるようになったといわれます。
「薬師如来坐像」(重文)は左手に薬壺、右手は与願印、像高約145cmの結跏趺坐の坐像で、平安時代の後期作とされています。

「深沙大将」は、三蔵法師(玄奘)の西遊記に登場する沙悟浄のモデルとなった仏教の守護神で、重文に指定された「深沙大将」は4躰だけとされています。(他の3躰は「京都・金剛院」「和歌山・金剛峯寺」「岐阜・横蔵寺」...多分)
腹部に子供の人面を付け、左手には蛇を持ち、頭上には髑髏を乗せ、憤怒の表情をしている檜の一本造りで像高2.54mの大きな鬼神です。


「深沙大将」・・・ポストカード

「降三世明王」は、四面八臂で憤怒の表情の明王で、大自在天(シヴァ)と妻烏摩妃(パールヴァティー)を踏みつけています。
降三世印と呼ばれる印を結び、仏教でいう三つの煩悩を焼き尽くし、仏教へ従わせることで民衆に救済の手を差し伸べている明王様とされており、この仏像も像高2.5mの大迫力の仏像です。


「降三世明王」・・・ポストカード

内陣には鎌倉末期作の「十二神将立像」が並び、脇陣には「聖観音立像」と「弘法大師・空海像」が祀られていて、内陣の素晴らしい仏像を見ていると明通寺は仏像の宝庫の寺院であると感じられます。
ご住職の話によると、“この寺院は僻地にあるため、歴史上の戦乱や兵火を免れることが出来ていろいろなものが残された”とおっしゃっていましたが、現在まで残されてきたのは運が良かっただけではないと思います。

さて、もう一つの国宝建築物の三重塔は本堂と同じく鎌倉時代中期の1270年に再建されたものとされます。
石段を登って行くのですが、少し離れた位置から見るのが一番美しく見えるのではないでしょうか。



三重塔の初層には現在公開されていませんが、「釈迦三尊像」と「阿弥陀三尊像」が安置されているようです。
初層内部の4天柱内を内陣とし、正面に「釈迦三尊像」・背面に「阿弥陀三尊像」ふが安置され、四天柱・四方壁には十二天像壁画が描かれているようです。


「釈迦三尊像」・・・看板


「阿弥陀三尊像」・・・看板

三重塔の上部にかつて取り付けられていた「相輪」が本堂に置かれてありましたが、間近で見る相輪の想像以上の大きさに驚くこととなり、塔高さ約22mの大きさを相輪からも実感することになりました。



ところで、明通寺にはもう1躰、重要文化財の仏像がおられます。
庫裡に祀られている「不動明王立像」でこの仏像も平安藤原期末期の仏像とされています。
ただし、明通寺の不動明王は明治の頃に焼けてしまったため、廃寺になってしまった松林寺の脇仏を譲り受けたものということでした。


「不動明王」(平安末期・重文)・・・ポストカード

この明通寺で感じたのは、その古刹感を感じる建築物の魅力と仏像の素晴らしさとは別に、ご住職や朱印場の方の応対が非常に丁寧だったことでしょうか。
“合掌に始り合掌に終わる。”、参拝する側も気持ちを引き締めて参拝させていただきました。

帰り道には明通寺からほど近い「瓜割の滝」へ立ち寄りました。
瓜割の滝は“夏でも水につけておいた瓜が割れるほど冷たい”とされ、ポリタンクやペットボトルを持って名水を持って帰る方の行列がありました。

滝の近くには2ヶ所に鳥居がありましたので、神聖な聖域とされてきた場所なのだと思います。
案内板には「泰澄大師の時代から神水として尊ばれてきた」と書かれてありましたので、白山信仰の聖域のひとつだったのかもしれません。
(泰澄大師:奈良時代の修験道の僧・白山信仰の開山者)





寺院で説明していただいたご住職は、“百寺巡礼”に出演されていた方だと思われます。
放映されてから十数年過ぎていますので、その年月を感じざるを得ないお姿のようにも見えました。
1200年以上続く寺院の歴史の中での一瞬の出会いでしかないとはいえ、感慨深い寺院になったと思います。



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