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北国街道の分かれ道「柳ケ瀬集落」~長浜市余呉町柳ケ瀬~

2021-06-27 13:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 余呉町柳ケ瀬は、かつて北国街道と若狭街道の分岐点となる交通の要所であり、宿場と宿場の間にある旅人の休憩宿「間宿」として旅籠などが並んでいたそうです。
「今庄朝立ち、木之本泊まり、中河内で昼弁当」と歌われた「今庄」「木之本」「中河内」は宿場町で、中河内と木之本の間にあったのが「間宿」の柳ケ瀬ということなのでしょう。



分岐点を右へ行けば、栃ノ木峠を経て南越前・今庄へと続く北陸街道。
左へ行けば刀根越えで敦賀へと通じる若狭街道。
いすれにしてもトンネルや道路が開通する前は、交通の難所であったと思われ、また西日本有数の豪雪地帯でもあります。



分岐点にある石標には味わいのある文字で「右えちぜん かが のと道 左つるが 三国ふねのりば」と彫られており、北陸から峠を越えてきた人はホッと一息つき、これから北陸へ向かう人はここから厳しい峠へと向かう。
江戸時代にここを行き交った旅人や商人、何らかの事情で逃げるようにしてこの道を進んだ人もいたかもしれないでしょう。



現在の北陸街道は旧の街道も残るものの、国道365号線へ合流してしまう場所が多いのですが、道筋にはお地蔵さんを祀る祠が多く見られます。
街道筋に元々祀られていたものもあると思いますが、国道や高速道路の工事で見つかった、または移動させられた石仏もあるのではないかと想像する。



分岐点の若桜街道側に祀られた祠を覗いてみると、お地蔵さんではなく不動明王の石仏でした。
新鮮な花が祀られているところを見ると、地元の方で丁寧にお祀りされておられるのでしょう。



集落の中へ入っていくとかつて関所があったと思われる場所に「柳ケ瀬関所跡」の石標がありました。
柳ケ瀬の関は、彦根藩の支配下にあり、五十石取りの武士2人と番役8人が管理し、夜間の通行は一切許さず、女改めが特に厳しかったといいます。
また、江戸時代に老中より出された掟が今も残っているといいますので、柳ケ瀬は交通の重要な要所であったことが分かります。



集落内を進むとやたらと立派な門のある建物があり、「明治天皇柳ヶ瀬行在所」の碑が立っています。
ここは1878年(明治11年)10月に明治天皇が北陸巡幸の際に昼食を召し上った場所ということでした。



近くにおられた方の話を聞くと、中の建物には玉座の間があるということでした。
長浜駅近くにある「慶雲館」といい、柳ケ瀬の行在所といい、天皇陛下が立ち寄られるとなると相応の建物が必要だったのでしょう。赤い丸ポストが印象的です。



「明治天皇柳ヶ瀬行在所」の横にはなんともレトロな雰囲気の洋館風の建物がありました。
近くにおられた方に聞くと、この建物は昔の郵便局で、その向かいの建物が次に古い郵便局。
今は余呉町を南に下った「東野集落」にある片岡郵便局へ移転したとのこと。



その2代目の旧柳ケ瀬郵便局は、地元出身の男性たちが「仲間が集まれる憩いの場」にしようと思い立ち、リフォームされたそうです。
立ち話をしていた男性も“大阪から来て、昨夜はここへ泊まったんですよ。”とおっしゃっておられ、“表札のプレートは私が作ったんですよ。”とおっしゃっていました。

この図柄は、“余呉の山々を描いており、下半分の水面は余呉湖なんですよ。”とおっしゃっておられましたが、名称の「Harry House」というのも面白い。
おそらく最後の局長で発起人だった方の名前を使っておられるのだと思いますが、仲間の手作りで集まれたり、くつろげたりできる憩いの場所を作られているのは楽しそうですね。



集落の南の出入口にも石仏の祠があります。
何躰もの石仏が祀られていますが、あちこちに埋もれていた石仏が一緒に祀られているのかと思います。



柳ケ瀬集落を訪れた日は小雨の天候でしたが、前回に中河内からの帰りに立ち寄った時の若狭街道と余呉川。
山と山の間の谷あいの長閑な集落ですね。





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