福井県と滋賀県の県境にある「栃ノ木峠(中河内)」から国道365線を滋賀県側へ南下すると「椿坂」集落へと入ります。
余呉町は「特別豪雪地帯」に指定されている地域ですから、旧道しかなかった頃は冬季積雪による通行止めになる事もあり、豪雪の年には孤立してしまうことがあったといいます。
交通の難所であった椿坂峠に「椿坂バイパス」が通ったのは2014年11月のことで、「椿坂」集落から最奥の「中河内」集落までの積雪時の通行が可能になったといいます。
バイパスが完成したのが2014年とつい近年のことなのには驚きます。
椿坂バイパスが出来たことで路線バスで最奥の中河内まで行けるようにはなったものの、時刻表を見ると日に3~5本の運行しかなく、乗り遅れたら4時間から6時間待ちとなる。
また、バイパスによって旧道は通行止めになっていて、がっちりした柵に施錠までされて通行止めの表示。
表示板には、“事故等が発生した場合は、通行者自らが追うものとし、滋賀県は一切の責任を負いません。”とある。
国道から離れて「椿坂」集落へ入ると、道路脇にあるヨノミの古木と木の窪みに納められた地蔵石仏の不思議な光景が目に入ってきます。
「木の又地蔵」というらしいのですが、この道は国道を外れた旧道になりますから、道行く人が道中の安全を祈願して通り過ぎて行ったのかもしれません。
樹の枝が数カ所伐られていて、切り口がそう古そうに見えない感じがしますが、道路ギリギリのところに生えていてバスなどの大型車両が通行するため、止む無く伐ったように思えます。
幹には日当たりが良いにも関わらず苔に覆われており、豪雪地帯で降雨量が多いというこの地の気候も影響しているのでしょう。
木の又には小さな石仏が納められています。
お地蔵さんは合掌している姿に見えますが、木の又に石の台座のようなものを造って、きれいに納まっています。
別の木の又には2躰の地蔵石仏が納められている。
どんな由来や祭事があるのか分かりませんが、心惹かれる信仰の姿です。
樹の横にお地蔵さんが数躰祀られていますが、赤い布が掛けられていて布をめくるのもどうかと思い、中は見ていない。
右の方には木の又に納められていたと思われる小さな石仏地蔵が何躰かあります。
余呉町は、越前の柴田勝家と羽柴秀吉が織田信長の後継者争いに端を発した「賤ヶ岳の戦い」の舞台となった場所。
一帯の高地には陣を張られていたといいますが、そんな歴史の流れもあってか、余呉の神社には石垣で囲った上に本殿があることが多いように思います。
椿坂に鎮座する「八幡神社」は、白雉元年(650年)に社殿が建設され、天照皇大神・八幡大神・大山咋の神霊を合祀したといいます。
江戸時代に村名を「椿坂」と改めたので、神社も八幡神社と称するようになったとされます。
スギの樹が数本立つ中に本殿はあり、鬱蒼とした山麓にひっそりと祀られている。
本殿の周囲のスギはそれほど太さは感じませんが、境内には大きな切り株が見られたので、元はもっと鬱蒼とした森の神社だったのかもしれません。
本殿の奥の裏山に道らしきものがあったので、様子を見に行きましたが、こんな道は気持ち悪くて入れない。
この道の先に何か特別な物があるのなら、かなり躊躇しながらでも進んだかもしれませんけど...。
ところで、椿坂集落には「椿坂のカツラ」と呼ばれる巨樹があります。
かつてこの場所には小谷城主浅井氏に仕え、ここに領地を置いた鈴木重国という人が建立した「桂照院」という寺院があり、その跡地にカツラの樹はある。
カツラの樹は幹周が7m・樹高25mで推定樹齢は不明ながら500年と書かれていることがある見事な巨樹です。
水を好むカツラの樹らしく横には山から流れ出た川が流れ、樹の周囲の地面もジメジメして蛇でも出そうなところとなっている。
またこのカツラの樹は、幹を隠すように葉がよく茂ってきているので何本の幹があるのかよく分からない。
カツラの樹は、今にも雨の降りだしそうな時や、雨上がりに見るのが雰囲気があって好きかなぁと思います。
近くから聞こえてくるのは側を流れる下谷川の水音。
この川は、土石流“危険”渓流となっていて、集落に流れ込むまでに複数の砂防が築かれていました。
砂防がないままに、水量が増えて高度の低い場所にある集落に流れ込んだら、災害につながる怖れがあるので複数の砂防で土石流を防止しているようでした。
余呉町は「特別豪雪地帯」に指定されている地域ですから、旧道しかなかった頃は冬季積雪による通行止めになる事もあり、豪雪の年には孤立してしまうことがあったといいます。
交通の難所であった椿坂峠に「椿坂バイパス」が通ったのは2014年11月のことで、「椿坂」集落から最奥の「中河内」集落までの積雪時の通行が可能になったといいます。
バイパスが完成したのが2014年とつい近年のことなのには驚きます。
椿坂バイパスが出来たことで路線バスで最奥の中河内まで行けるようにはなったものの、時刻表を見ると日に3~5本の運行しかなく、乗り遅れたら4時間から6時間待ちとなる。
また、バイパスによって旧道は通行止めになっていて、がっちりした柵に施錠までされて通行止めの表示。
表示板には、“事故等が発生した場合は、通行者自らが追うものとし、滋賀県は一切の責任を負いません。”とある。
国道から離れて「椿坂」集落へ入ると、道路脇にあるヨノミの古木と木の窪みに納められた地蔵石仏の不思議な光景が目に入ってきます。
「木の又地蔵」というらしいのですが、この道は国道を外れた旧道になりますから、道行く人が道中の安全を祈願して通り過ぎて行ったのかもしれません。
樹の枝が数カ所伐られていて、切り口がそう古そうに見えない感じがしますが、道路ギリギリのところに生えていてバスなどの大型車両が通行するため、止む無く伐ったように思えます。
幹には日当たりが良いにも関わらず苔に覆われており、豪雪地帯で降雨量が多いというこの地の気候も影響しているのでしょう。
木の又には小さな石仏が納められています。
お地蔵さんは合掌している姿に見えますが、木の又に石の台座のようなものを造って、きれいに納まっています。
別の木の又には2躰の地蔵石仏が納められている。
どんな由来や祭事があるのか分かりませんが、心惹かれる信仰の姿です。
樹の横にお地蔵さんが数躰祀られていますが、赤い布が掛けられていて布をめくるのもどうかと思い、中は見ていない。
右の方には木の又に納められていたと思われる小さな石仏地蔵が何躰かあります。
余呉町は、越前の柴田勝家と羽柴秀吉が織田信長の後継者争いに端を発した「賤ヶ岳の戦い」の舞台となった場所。
一帯の高地には陣を張られていたといいますが、そんな歴史の流れもあってか、余呉の神社には石垣で囲った上に本殿があることが多いように思います。
椿坂に鎮座する「八幡神社」は、白雉元年(650年)に社殿が建設され、天照皇大神・八幡大神・大山咋の神霊を合祀したといいます。
江戸時代に村名を「椿坂」と改めたので、神社も八幡神社と称するようになったとされます。
スギの樹が数本立つ中に本殿はあり、鬱蒼とした山麓にひっそりと祀られている。
本殿の周囲のスギはそれほど太さは感じませんが、境内には大きな切り株が見られたので、元はもっと鬱蒼とした森の神社だったのかもしれません。
本殿の奥の裏山に道らしきものがあったので、様子を見に行きましたが、こんな道は気持ち悪くて入れない。
この道の先に何か特別な物があるのなら、かなり躊躇しながらでも進んだかもしれませんけど...。
ところで、椿坂集落には「椿坂のカツラ」と呼ばれる巨樹があります。
かつてこの場所には小谷城主浅井氏に仕え、ここに領地を置いた鈴木重国という人が建立した「桂照院」という寺院があり、その跡地にカツラの樹はある。
カツラの樹は幹周が7m・樹高25mで推定樹齢は不明ながら500年と書かれていることがある見事な巨樹です。
水を好むカツラの樹らしく横には山から流れ出た川が流れ、樹の周囲の地面もジメジメして蛇でも出そうなところとなっている。
またこのカツラの樹は、幹を隠すように葉がよく茂ってきているので何本の幹があるのかよく分からない。
カツラの樹は、今にも雨の降りだしそうな時や、雨上がりに見るのが雰囲気があって好きかなぁと思います。
近くから聞こえてくるのは側を流れる下谷川の水音。
この川は、土石流“危険”渓流となっていて、集落に流れ込むまでに複数の砂防が築かれていました。
砂防がないままに、水量が増えて高度の低い場所にある集落に流れ込んだら、災害につながる怖れがあるので複数の砂防で土石流を防止しているようでした。