吉槻のカツラ
米原市の東草野と呼ばれる山村は、「東草野の山村景観」として全国で61ヶ所ある国の重要文化的景観に選定されているといいます。(滋賀県では6カ所が選定)
東草野は伊吹山地の西麓の姉川上流の谷にある山村で、甲津原・曲谷・甲賀・吉槻の4集落の総称とされています。
東草野地域の最奥にある甲津原集落にはグランスノー奥伊吹(奥伊吹スキー場)があってスキーシーズンにはぎわい、スキー場がある東草野地域は西日本屈指の豪雪地帯といわれています。
姉川を上流に向かって遡る県道40号線は探鳥目的で何度か通った道ですが、今回は「吉槻のカツラ」を探しに向かいます。
「吉槻のカツラ」は滋賀県の指定記念物の案内板によると、株立ちの幹周は8.1mで樹高は16m、推定樹齢は1000年だという。
ガードレールのすぐ横の斜面にあるが、斜面の下にはとても降りれそうにもなく、坂の上から眺めることになる。
株は密集し、分岐した枝は各方向に何本も伸びていて新葉が生え揃う頃にはまた違った姿をみせてくれるのでしょう。
霊仙山の山中の廃村にある「井戸神社のカツラ」や、伊吹山山麓の神社にある「梓河内のカツラ」とはかなり受ける印象が違います。
おそらくは集落の入口辺りにあって、身近な樹となっていることも影響しているのでしょう。
横に回り込むとカツラの立つ位置は斜面始まる場所となっていて、姉川まで急斜面が続く。
推定樹齢1000年ということですが、よくこの不安定そうな場所で育ってきたものだと驚きます。
左右どちらから見ても見事な巨樹で、特に姉川方面となる南東方向に何本も枝が伸びています。
幹に苔が生えているのは湿度の高い水辺ならではなのかと思います。
現在も長閑な山村風景の名残りが残る吉槻集落ですが、中世から近世にかけては東西南北の峠道が交錯する交通の要所だったとされます。
東は岐阜方面、西は北国街道方面、南は彦根や多賀なのでしょうか。
米原市のウェブサイトによると、吉槻集落には石造物が多く残るといい、多くは墓標として造られたものだとあります。
峠道には石仏(地蔵尊)が祀られて道行く人の安全を祈願したとされるのは、それだけ人の往来が多くあった時代があり、繁栄していた集落だったということになります。
諏訪神社の乳銀杏
イチョウは、葉や幹の水分量が多いとされ、神社や仏閣で防火の効果があるとして植えられることが多い樹です。
通常は真っすぐにそそり立つ事の多いイチョウですが、まれに枝に気根が垂れ下がり乳のようになるものがあり、乳がよく出るようにと信仰されることも多いといいます。
東草野地区の吉槻集落から姉川を下流方向へ向かうと、上板並という集落があり、諏訪神社の境内に乳銀杏(正式名は「乳公孫」)の巨樹があると聞き、現地へと向かいました。
しかし、探せども探せども樹は見つからず、唯一あった看板の方向へ進むんでいくと姉川の岸部に着いてしまうといった有様。
畑で作業されていた地元の方に教えて頂いてやっと道が分かり現地へと向かいます。
車で行けるところまで林道を進み、山道へと入ります。
その先にあると教えてもらってなければ入ることを躊躇したくなるような鬱蒼としたスギ林です。
途中で道が陥落している場所があって、避けながら進むことになりますが、山道は距離にして数十mといったところ。
すぐに陽の差す場所が見えてきました。
沢に架けられた石橋を渡って石段を登れば、そこは「諏訪神社」の境内地になります。
「諏訪神社」とはいっても祠が祀られているだけでしたが、上板並の大銀杏には武田信玄にまつわる伝承が残されているようです。
戦国時代、武田信玄の乳母の親元が板並で、乳母が郷里の板並に帰ってきた時に杖にしていた銀杏の木を地面に突きさしたものが成長したといいます。
どういう経緯で甲斐の武田信玄の乳母にになったのかは謎ですが、伝承にはミステリアルな逸話が付き物ですから、何か関わりがあったのでしょう。
「諏訪神社」とはいっても小さな祠が祀られているのみで、横には合体樹になりつつあるスギの木がある。
信玄公の崇敬した諏訪大社の分霊というよりも、山を御神体として祀る祠のようにも思えます。
注連縄の巻かれたイチョウの樹は、幹周が6.8m・樹高が30mあるといい、推定樹齢は300年以上(400年以上ともされる)とされます。
枝から垂れ下がった気根は大きいもので長さ2m・直径30cmあるとされており、県内でも有数の大きさとされています。(滋賀県緑化推進会)
気根が垂れ下がっている方から見ると、心なしか巨大な象やマンモスのようにも見えてしまいます。
落葉している季節でしたから、パッと見てイチョウの樹だとはとても思えない神がかった姿です。
乳銀杏のコブは、削って煎じて飲んだり、触ったりするとお乳がよく出ると伝えられ、お詣りする人が絶えなかったといいます。
この話は、日本の乳銀杏の共通に伝わる伝説とされており、情報が伝達されたというより人が垂れ下がった気根を見て感じたことに共通性があったということかと思います。
鍾乳石のように垂れ下がった気根は作為的には造れない自然の造形の不思議さを感じます。
折れた枝の断面が生き物の目に見えてしまうのも、この樹の造形の特殊さからくるものかもしれません。
この上板並集落から姉川沿いに上流を遡っていくと、吉槻→甲賀→曲谷→甲津原の東草野地区になりますが、曲谷集落の白山神社の境内にも乳銀杏の樹があります。
写真は以前に訪れた時のものですが、曲谷の乳銀杏はそれほど老木ではないにも関わらず、大きな気根が垂れ下がっていました。
これは巨樹に限ったことではありませんが、その土地に残された物を見て、少しその土地の歴史や民俗・伝統などが垣間見えると興味が高まってきます。
またそういったものが人知れず残されたり、継承されたりしていることが多いのが滋賀県の風土の魅力になっているのかと思います。
米原市の東草野と呼ばれる山村は、「東草野の山村景観」として全国で61ヶ所ある国の重要文化的景観に選定されているといいます。(滋賀県では6カ所が選定)
東草野は伊吹山地の西麓の姉川上流の谷にある山村で、甲津原・曲谷・甲賀・吉槻の4集落の総称とされています。
東草野地域の最奥にある甲津原集落にはグランスノー奥伊吹(奥伊吹スキー場)があってスキーシーズンにはぎわい、スキー場がある東草野地域は西日本屈指の豪雪地帯といわれています。
姉川を上流に向かって遡る県道40号線は探鳥目的で何度か通った道ですが、今回は「吉槻のカツラ」を探しに向かいます。
「吉槻のカツラ」は滋賀県の指定記念物の案内板によると、株立ちの幹周は8.1mで樹高は16m、推定樹齢は1000年だという。
ガードレールのすぐ横の斜面にあるが、斜面の下にはとても降りれそうにもなく、坂の上から眺めることになる。
株は密集し、分岐した枝は各方向に何本も伸びていて新葉が生え揃う頃にはまた違った姿をみせてくれるのでしょう。
霊仙山の山中の廃村にある「井戸神社のカツラ」や、伊吹山山麓の神社にある「梓河内のカツラ」とはかなり受ける印象が違います。
おそらくは集落の入口辺りにあって、身近な樹となっていることも影響しているのでしょう。
横に回り込むとカツラの立つ位置は斜面始まる場所となっていて、姉川まで急斜面が続く。
推定樹齢1000年ということですが、よくこの不安定そうな場所で育ってきたものだと驚きます。
左右どちらから見ても見事な巨樹で、特に姉川方面となる南東方向に何本も枝が伸びています。
幹に苔が生えているのは湿度の高い水辺ならではなのかと思います。
現在も長閑な山村風景の名残りが残る吉槻集落ですが、中世から近世にかけては東西南北の峠道が交錯する交通の要所だったとされます。
東は岐阜方面、西は北国街道方面、南は彦根や多賀なのでしょうか。
米原市のウェブサイトによると、吉槻集落には石造物が多く残るといい、多くは墓標として造られたものだとあります。
峠道には石仏(地蔵尊)が祀られて道行く人の安全を祈願したとされるのは、それだけ人の往来が多くあった時代があり、繁栄していた集落だったということになります。
諏訪神社の乳銀杏
イチョウは、葉や幹の水分量が多いとされ、神社や仏閣で防火の効果があるとして植えられることが多い樹です。
通常は真っすぐにそそり立つ事の多いイチョウですが、まれに枝に気根が垂れ下がり乳のようになるものがあり、乳がよく出るようにと信仰されることも多いといいます。
東草野地区の吉槻集落から姉川を下流方向へ向かうと、上板並という集落があり、諏訪神社の境内に乳銀杏(正式名は「乳公孫」)の巨樹があると聞き、現地へと向かいました。
しかし、探せども探せども樹は見つからず、唯一あった看板の方向へ進むんでいくと姉川の岸部に着いてしまうといった有様。
畑で作業されていた地元の方に教えて頂いてやっと道が分かり現地へと向かいます。
車で行けるところまで林道を進み、山道へと入ります。
その先にあると教えてもらってなければ入ることを躊躇したくなるような鬱蒼としたスギ林です。
途中で道が陥落している場所があって、避けながら進むことになりますが、山道は距離にして数十mといったところ。
すぐに陽の差す場所が見えてきました。
沢に架けられた石橋を渡って石段を登れば、そこは「諏訪神社」の境内地になります。
「諏訪神社」とはいっても祠が祀られているだけでしたが、上板並の大銀杏には武田信玄にまつわる伝承が残されているようです。
戦国時代、武田信玄の乳母の親元が板並で、乳母が郷里の板並に帰ってきた時に杖にしていた銀杏の木を地面に突きさしたものが成長したといいます。
どういう経緯で甲斐の武田信玄の乳母にになったのかは謎ですが、伝承にはミステリアルな逸話が付き物ですから、何か関わりがあったのでしょう。
「諏訪神社」とはいっても小さな祠が祀られているのみで、横には合体樹になりつつあるスギの木がある。
信玄公の崇敬した諏訪大社の分霊というよりも、山を御神体として祀る祠のようにも思えます。
注連縄の巻かれたイチョウの樹は、幹周が6.8m・樹高が30mあるといい、推定樹齢は300年以上(400年以上ともされる)とされます。
枝から垂れ下がった気根は大きいもので長さ2m・直径30cmあるとされており、県内でも有数の大きさとされています。(滋賀県緑化推進会)
気根が垂れ下がっている方から見ると、心なしか巨大な象やマンモスのようにも見えてしまいます。
落葉している季節でしたから、パッと見てイチョウの樹だとはとても思えない神がかった姿です。
乳銀杏のコブは、削って煎じて飲んだり、触ったりするとお乳がよく出ると伝えられ、お詣りする人が絶えなかったといいます。
この話は、日本の乳銀杏の共通に伝わる伝説とされており、情報が伝達されたというより人が垂れ下がった気根を見て感じたことに共通性があったということかと思います。
鍾乳石のように垂れ下がった気根は作為的には造れない自然の造形の不思議さを感じます。
折れた枝の断面が生き物の目に見えてしまうのも、この樹の造形の特殊さからくるものかもしれません。
この上板並集落から姉川沿いに上流を遡っていくと、吉槻→甲賀→曲谷→甲津原の東草野地区になりますが、曲谷集落の白山神社の境内にも乳銀杏の樹があります。
写真は以前に訪れた時のものですが、曲谷の乳銀杏はそれほど老木ではないにも関わらず、大きな気根が垂れ下がっていました。
これは巨樹に限ったことではありませんが、その土地に残された物を見て、少しその土地の歴史や民俗・伝統などが垣間見えると興味が高まってきます。
またそういったものが人知れず残されたり、継承されたりしていることが多いのが滋賀県の風土の魅力になっているのかと思います。
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