栗東市の安養寺山(標高234m)の麓に「五百井神社(いおのいじんじゃ)」という神社があり、境内の林の中に推定1000年以上という大杉があるといいます。
五百井神社は、古代豪族「蘆井造鯨(いおいのみやつこくじら)」の祖を祀るとされ、その名残か神社の鳥居の扁額には「蘆井神社」とある。
蘆井造鯨は、壬申の乱で大友皇子側の将として活躍した人物とされ、大和の古道で戦って敗れたという。
「蘆井神社」は中世の中頃から「五百井神社」と表記されるようになったといい、1524年の本殿棟札によると下砥山村(現下戸山)の鎮守として篤く崇敬されていたとされます。
鳥居の辺りから遠巻きに見ても並ぶ社は真新しく、近年に建て替えられたものと分かるが、「本殿再建の記」には2013年の台風十八号の豪雨で安養寺山で土砂災害が発生して本殿を飲み込んだとあります。
高さ100m幅30mの土石流により本殿は跡形もなく消失、社務所・神輿蔵も土砂に埋まり全壊と甚大な被害を受けたようです。
翌年の2014年に再建を決議し、地鎮祭、上棟祭を経て、令和元年に竣工祭が営まれたといいますから、数年という短い期間で見事に再建を果たした神社となります。
「五百井神社」の祭神は「木俣の神」。木の神、水神、安産の神として崇敬されている神だとされます。
真新しい拝殿・本殿の裏山には土石流で根こそぎ流されたような跡が未だに残り、何層かの治山施設が造られ、土石流の再発を防止しているようです。
後方にある安養寺山の山頂には磐座があるといいますが、土石流の発生以降は遊歩道がなくなり磐座には行けなくなっているとのことです。
「五百井神社のスギ」は、境内にある林の中にあり、威圧感のある姿で真っすぐに立っていました。
本殿などの社は壊滅的な被害を受けたものの、御神木の辺りまでは土石流は来なかったのでしょう。
玉垣に囲まれて凛とした姿で立つ大杉は、幹周5m、樹高37m、推定樹齢は1000年以上とも伝承2000年とも伝えられているという。
このスギには“壬申の乱の時に大友皇子の息子が馬をつないだ”と言う伝説が残っているといいますが、壬申の乱は飛鳥時代の672年のことですから、あくまでも伝承なのでしょう。
幹の瘤に架けるように注連縄が張られており、日当たりのいい方向には枝が何本も出てきています。
樹にできる瘤は、樹が自分で傷を治しているため出来たものという説があり、樹が持つ自己治癒力を考えさせられることになりました。
枝が出てきている南から上を見上げてみる。
推定樹齢からすると老木になりますが、この枝ぶりを見ていると、まだ血気盛んな力に満ち溢れた樹なんだと思います。
周辺に田圃しかない農道を山に向かって突き当たった場所にあった「五百井神社」からは、災害による不運とすぐに再建した地元の講の方々の尽力が伺えます。
また、真新しく再建された社と、1000年とも2000年とも伝わる御神木からも、幾星霜の年月に渡り守り続け、信仰されてきた人々の気持が伝わってきます。
五百井神社は、古代豪族「蘆井造鯨(いおいのみやつこくじら)」の祖を祀るとされ、その名残か神社の鳥居の扁額には「蘆井神社」とある。
蘆井造鯨は、壬申の乱で大友皇子側の将として活躍した人物とされ、大和の古道で戦って敗れたという。
「蘆井神社」は中世の中頃から「五百井神社」と表記されるようになったといい、1524年の本殿棟札によると下砥山村(現下戸山)の鎮守として篤く崇敬されていたとされます。
鳥居の辺りから遠巻きに見ても並ぶ社は真新しく、近年に建て替えられたものと分かるが、「本殿再建の記」には2013年の台風十八号の豪雨で安養寺山で土砂災害が発生して本殿を飲み込んだとあります。
高さ100m幅30mの土石流により本殿は跡形もなく消失、社務所・神輿蔵も土砂に埋まり全壊と甚大な被害を受けたようです。
翌年の2014年に再建を決議し、地鎮祭、上棟祭を経て、令和元年に竣工祭が営まれたといいますから、数年という短い期間で見事に再建を果たした神社となります。
「五百井神社」の祭神は「木俣の神」。木の神、水神、安産の神として崇敬されている神だとされます。
真新しい拝殿・本殿の裏山には土石流で根こそぎ流されたような跡が未だに残り、何層かの治山施設が造られ、土石流の再発を防止しているようです。
後方にある安養寺山の山頂には磐座があるといいますが、土石流の発生以降は遊歩道がなくなり磐座には行けなくなっているとのことです。
「五百井神社のスギ」は、境内にある林の中にあり、威圧感のある姿で真っすぐに立っていました。
本殿などの社は壊滅的な被害を受けたものの、御神木の辺りまでは土石流は来なかったのでしょう。
玉垣に囲まれて凛とした姿で立つ大杉は、幹周5m、樹高37m、推定樹齢は1000年以上とも伝承2000年とも伝えられているという。
このスギには“壬申の乱の時に大友皇子の息子が馬をつないだ”と言う伝説が残っているといいますが、壬申の乱は飛鳥時代の672年のことですから、あくまでも伝承なのでしょう。
幹の瘤に架けるように注連縄が張られており、日当たりのいい方向には枝が何本も出てきています。
樹にできる瘤は、樹が自分で傷を治しているため出来たものという説があり、樹が持つ自己治癒力を考えさせられることになりました。
枝が出てきている南から上を見上げてみる。
推定樹齢からすると老木になりますが、この枝ぶりを見ていると、まだ血気盛んな力に満ち溢れた樹なんだと思います。
周辺に田圃しかない農道を山に向かって突き当たった場所にあった「五百井神社」からは、災害による不運とすぐに再建した地元の講の方々の尽力が伺えます。
また、真新しく再建された社と、1000年とも2000年とも伝わる御神木からも、幾星霜の年月に渡り守り続け、信仰されてきた人々の気持が伝わってきます。
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