小谷山の山麓にある「小谷寺」は真言宗豊山派(本山は奈良の長谷寺)は、奈良時代に白山の泰澄が湖北の峰々に修験道場を開いた際に小谷山に建てられた坊舎とされています。
かつては「常勝寺」の寺名を持ち、小谷山の峰にあったと考えられていますが、浅井氏が小谷山に城を築いた時に小谷山の東側に移動し、浅井氏の祈願時として栄えたとされます。
しかし、織田信長と浅井長政の戦によって小谷城落城と同時に小谷寺も廃塵と化し、その後は豊臣秀吉によって現在地に再建、徳川の時代になっても寺領は保護されたといいます。
小谷寺には美しい「如意輪観音半跏像」が祀られていますが、通常は開帳されておらず今回3年ぶりの開帳となりましたので、当方としては2016年以来の参拝となりました。
小谷寺は以前聞いた話では檀家は10軒とのことで、本堂も老朽化してきており、再建の寄進を募っておられます。
これは湖北の観音堂の多くで言えることですが、支える人の数が減り檀家の老齢化に伴って寺院の補修や改修が困難になってきていることが大きな問題になっています。
前回参拝した時は本堂へ直接上がらせて頂きましたが、今回は隣の護摩堂に受付があり、そちらから入らせて頂くようになっていました。
驚いたのはご住職や若い僧侶(住職の息子さん?)や檀家の方が訪れた人に付いて丁寧に説明されて頂けたことでしょうか。
結局、護摩堂から本堂を見て回る間中、若い僧侶の方が横について説明して頂いたのは実に分かりやすくてありがたかったです。
護摩堂へ入ると正面には「十二天」の仏画と御前立の「如意輪観音像」が祀られています。
二臂で左手に未開敷蓮華を持ち、右手は頬に手の平を当てるように思惟する姿をされている。
御前立とはいえこの如意輪観音像は気持ちが魅かれる仏像です。
やや小ぶりながら入り組んだような衣の装飾が特徴的な「十一面観音立像」は大顔の尊顔の目鼻や眉が凛々しい仏像でした。
横に祀られているのは「聖徳太子象」でしょうか。
小谷寺は廃仏希釈で廃寺になった寺院の仏像が多く集められているといい、履歴のはっきりしない仏像が多いそうです。
秀吉は小谷寺に対して四十四石の朱印を与えたといい、その朱印が3枚残されており、これが護摩堂の最後の展示物となる。
そのまま本堂へと入ると実に煌びやかな内陣となっており、多宝塔が置かれた登高座の前から見る雰囲気は本堂の建物の素朴さとはまるで別世界のようになっています。
須弥壇の横には大きな破損仏が祀られており、元は座像だったと推定されるが痛みは激しく痛々しい。
湖北では戦乱の際に仏像を土中や川に沈めて守ったという話をよく聞きますが、この仏も土中に埋めている間に劣化してしまったようです。
この破損仏は角度を変えて眺めると元々あった顔の表情が浮き上がってくるように確認出来ます。
また、首には3本の線も確認でき、これは「三道」で“見・修・無学”や“惑・業・苦”を意味するといわれているが、これには諸説あるという。
さていよいよ御本尊の「如意輪観音半跏思惟像」に再会です。
観音像は5~6世紀の百済で鋳造された金銅仏と推定されており、通常は秘仏となっており毎年この時期にだけ御開帳される。
曳山のような豪奢な印象を受ける厨子は、広目天と多聞天が守護し、扉絵には不動明王と毘沙門天が描かれている。
観音さまは岩窟を模した造作の中に苔の花が咲く華台に祀られており、1躰しか祀られていないが脇侍は前のめりになって今にも救済へ向かうが如く。
観音さまはスリムな体形に手が長く、思惟する右手は人差し指と中指の2本がやや反りながら頬につけている。
目は物思いに耽るかのように伏し目ふがちで表情は実に穏やか。
像高22cmと小さな仏像ですが、遠方から訪れる人が多いのも納得できる美しい仏像です。
御本尊の厨子の右側には空海の座像が祀られる。
五鈷杵を握る空海の右手は実際に同じ形を真似てみると、かなり辛く不自然な形をなる。
これは空海が苦しい姿勢をしながらも必死で人の話を聞こうとしている姿なのだと説明がありました。
湖北では竹生島宝厳寺の御本尊であり、浅井氏も信仰した「辯才天」が神仏習合して「宇賀辯才天」として祀られることが多いのですが、小谷寺にも2躰の「辯才天」が残されています。
最初の1躰は典型的な「宇賀辯才天」で、八臂の手に武具を握り、頭の上には鳥居がある。
辯才天は水の神様ですから華台は水を模したものとなっており、何やら白い花が咲いている。
もう1躰の「辯才天」も八臂の手に武具を握っており、頭の上には白蛇の姿が見える。
厨子の紋様の美しさにも驚きますが、この小さな辯才天の彩色の細かさにも驚くことになります。
見事な装飾の辯才天は波高き水の中から突然現れた水の神のようで、琵琶を持つ天女の姿の辯才天とは随分印象が異なります。
「愛染明王」は織田信長の妹であるお市の方が浅井長政に輿入れする際に念じ仏として持っていった仏像だとされています。
長政が自害して小谷城が落城した後、長政の冥福を祈るために小谷寺に奉納したという。
「不動明王像」はこれまで何十躰も見てきましたが、頭に蓮華を載せているのにはこれまで気付いていませんでした。
下から見上げることの多い不動明王ですから見えにくかったこともありますが、この不動さんはうつむき加減でしたので蓮華がはっきり分かります。
憤怒の表情をしながら衆生の傍に現れ、悟りの世界に導いて下さるという現れなのでしょう。
あまり聞き慣れない珍しい「馬鳴菩薩」という仏像が小谷寺には祀られています。
馬鳴菩薩は養蚕の神とされており、かつての湖北では養蚕が盛んに行われ、伊部の辺りでも近年まで養蚕が行われていたといいます。
馬鳴菩薩は六臂の座像で白馬に跨り、手には竿秤や糸巻きを持っているかなり変わった菩薩さまです。
かつて長浜は繊維の町とされるほど繊維業が盛んな町で養蚕業を営む農家が多かったといいますが、今では浜ちりめんと木之本の楽器糸くらいになってしまったようです。
かなりゆっくりと堂内を見て回りましたが、僧侶の方はずっと付き添って説明をして頂き、大変感謝しています。
おまけに世話方の方から洒落た手作りのブローチまで頂いてしまいました。
ヒマワリの種とキュウリの種と大豆でしょうか。安全ピンで留めるようになっており、道の駅などで売ったら結構売れそうな逸品です。
今回参拝することが出来たのは、少し前に小谷寺さんから如意輪観音さまを描いたハガキを頂いたからでした。
“人々の憂い、悲しみ、苦しみをやさしく見つめ あなたの心に添ってお救いくださいます。”
言葉の通りのやさしくも美しい観音さまでした。
かつては「常勝寺」の寺名を持ち、小谷山の峰にあったと考えられていますが、浅井氏が小谷山に城を築いた時に小谷山の東側に移動し、浅井氏の祈願時として栄えたとされます。
しかし、織田信長と浅井長政の戦によって小谷城落城と同時に小谷寺も廃塵と化し、その後は豊臣秀吉によって現在地に再建、徳川の時代になっても寺領は保護されたといいます。
小谷寺には美しい「如意輪観音半跏像」が祀られていますが、通常は開帳されておらず今回3年ぶりの開帳となりましたので、当方としては2016年以来の参拝となりました。
小谷寺は以前聞いた話では檀家は10軒とのことで、本堂も老朽化してきており、再建の寄進を募っておられます。
これは湖北の観音堂の多くで言えることですが、支える人の数が減り檀家の老齢化に伴って寺院の補修や改修が困難になってきていることが大きな問題になっています。
前回参拝した時は本堂へ直接上がらせて頂きましたが、今回は隣の護摩堂に受付があり、そちらから入らせて頂くようになっていました。
驚いたのはご住職や若い僧侶(住職の息子さん?)や檀家の方が訪れた人に付いて丁寧に説明されて頂けたことでしょうか。
結局、護摩堂から本堂を見て回る間中、若い僧侶の方が横について説明して頂いたのは実に分かりやすくてありがたかったです。
護摩堂へ入ると正面には「十二天」の仏画と御前立の「如意輪観音像」が祀られています。
二臂で左手に未開敷蓮華を持ち、右手は頬に手の平を当てるように思惟する姿をされている。
御前立とはいえこの如意輪観音像は気持ちが魅かれる仏像です。
やや小ぶりながら入り組んだような衣の装飾が特徴的な「十一面観音立像」は大顔の尊顔の目鼻や眉が凛々しい仏像でした。
横に祀られているのは「聖徳太子象」でしょうか。
小谷寺は廃仏希釈で廃寺になった寺院の仏像が多く集められているといい、履歴のはっきりしない仏像が多いそうです。
秀吉は小谷寺に対して四十四石の朱印を与えたといい、その朱印が3枚残されており、これが護摩堂の最後の展示物となる。
そのまま本堂へと入ると実に煌びやかな内陣となっており、多宝塔が置かれた登高座の前から見る雰囲気は本堂の建物の素朴さとはまるで別世界のようになっています。
須弥壇の横には大きな破損仏が祀られており、元は座像だったと推定されるが痛みは激しく痛々しい。
湖北では戦乱の際に仏像を土中や川に沈めて守ったという話をよく聞きますが、この仏も土中に埋めている間に劣化してしまったようです。
この破損仏は角度を変えて眺めると元々あった顔の表情が浮き上がってくるように確認出来ます。
また、首には3本の線も確認でき、これは「三道」で“見・修・無学”や“惑・業・苦”を意味するといわれているが、これには諸説あるという。
さていよいよ御本尊の「如意輪観音半跏思惟像」に再会です。
観音像は5~6世紀の百済で鋳造された金銅仏と推定されており、通常は秘仏となっており毎年この時期にだけ御開帳される。
曳山のような豪奢な印象を受ける厨子は、広目天と多聞天が守護し、扉絵には不動明王と毘沙門天が描かれている。
観音さまは岩窟を模した造作の中に苔の花が咲く華台に祀られており、1躰しか祀られていないが脇侍は前のめりになって今にも救済へ向かうが如く。
観音さまはスリムな体形に手が長く、思惟する右手は人差し指と中指の2本がやや反りながら頬につけている。
目は物思いに耽るかのように伏し目ふがちで表情は実に穏やか。
像高22cmと小さな仏像ですが、遠方から訪れる人が多いのも納得できる美しい仏像です。
御本尊の厨子の右側には空海の座像が祀られる。
五鈷杵を握る空海の右手は実際に同じ形を真似てみると、かなり辛く不自然な形をなる。
これは空海が苦しい姿勢をしながらも必死で人の話を聞こうとしている姿なのだと説明がありました。
湖北では竹生島宝厳寺の御本尊であり、浅井氏も信仰した「辯才天」が神仏習合して「宇賀辯才天」として祀られることが多いのですが、小谷寺にも2躰の「辯才天」が残されています。
最初の1躰は典型的な「宇賀辯才天」で、八臂の手に武具を握り、頭の上には鳥居がある。
辯才天は水の神様ですから華台は水を模したものとなっており、何やら白い花が咲いている。
もう1躰の「辯才天」も八臂の手に武具を握っており、頭の上には白蛇の姿が見える。
厨子の紋様の美しさにも驚きますが、この小さな辯才天の彩色の細かさにも驚くことになります。
見事な装飾の辯才天は波高き水の中から突然現れた水の神のようで、琵琶を持つ天女の姿の辯才天とは随分印象が異なります。
「愛染明王」は織田信長の妹であるお市の方が浅井長政に輿入れする際に念じ仏として持っていった仏像だとされています。
長政が自害して小谷城が落城した後、長政の冥福を祈るために小谷寺に奉納したという。
「不動明王像」はこれまで何十躰も見てきましたが、頭に蓮華を載せているのにはこれまで気付いていませんでした。
下から見上げることの多い不動明王ですから見えにくかったこともありますが、この不動さんはうつむき加減でしたので蓮華がはっきり分かります。
憤怒の表情をしながら衆生の傍に現れ、悟りの世界に導いて下さるという現れなのでしょう。
あまり聞き慣れない珍しい「馬鳴菩薩」という仏像が小谷寺には祀られています。
馬鳴菩薩は養蚕の神とされており、かつての湖北では養蚕が盛んに行われ、伊部の辺りでも近年まで養蚕が行われていたといいます。
馬鳴菩薩は六臂の座像で白馬に跨り、手には竿秤や糸巻きを持っているかなり変わった菩薩さまです。
かつて長浜は繊維の町とされるほど繊維業が盛んな町で養蚕業を営む農家が多かったといいますが、今では浜ちりめんと木之本の楽器糸くらいになってしまったようです。
かなりゆっくりと堂内を見て回りましたが、僧侶の方はずっと付き添って説明をして頂き、大変感謝しています。
おまけに世話方の方から洒落た手作りのブローチまで頂いてしまいました。
ヒマワリの種とキュウリの種と大豆でしょうか。安全ピンで留めるようになっており、道の駅などで売ったら結構売れそうな逸品です。
今回参拝することが出来たのは、少し前に小谷寺さんから如意輪観音さまを描いたハガキを頂いたからでした。
“人々の憂い、悲しみ、苦しみをやさしく見つめ あなたの心に添ってお救いくださいます。”
言葉の通りのやさしくも美しい観音さまでした。
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