滋賀県の湖東・湖南地方には聖徳太子が開基したと伝わる寺院や伝承のある寺院・摩崖仏・巨樹が多く残されています。
なぜそこまで「聖徳太子信仰」が高くなったのか?奈良県や大阪府を凌ぐ数の聖徳太子に関する文化遺跡がなぜ滋賀県には多いのか不思議に思います。
東近江市観光協会は、中国天台宗を確立した「智顗」という僧の師匠が「慧思」という僧になり、「慧思」の生まれ変わりとされるのが聖徳太子になるとしています。
すると、中国天台宗の「智顗」は、「慧思」=聖徳太子となることから、聖徳太子の弟子ということになり、「智顗」に学んだ最澄は、「聖徳太子の弟子」となるという。
天台王国だった近江の天台宗寺院は「聖徳太子は最澄に生まれ変わって仏法を広めた」として聖徳太子との関係を語り始めたとしています。
今年は「聖徳太子千四百年御聖忌」に当たることから、聖徳太子ゆかりの寺院で特別開帳がされており、「釈迦山 百済寺」では「秘仏御本尊 十一面観音菩薩 特別参拝」が開催されています。
「植木観音」と呼ばれる秘仏御本尊は、本来住職一代につき一度しか開帳されない秘仏となっていて拝見できない仏像ですので是非この機会にということで参拝しました。
(御開帳は2006年・2014年以来になる。)
まず車で本坊・喜見院近くの駐車場まで上がるのですが、そうすると「赤門」からの石の参道が歩けない。
赤門付近には駐車場がありませんので、一旦石段を下って赤門まで下り、赤門から入り直して再び石段を登る...という順序での参拝となりました。
赤門は1650年の建立の総門で、2018年に改修されていることもあって、朱色が鮮やかでかなり新しさを感じます。
参道は緩やかな段差となっていて、暑からず寒からずで朝の空気が気持ちよい。
石段を登ると「阿弥陀堂」があるが堂内に阿弥陀仏が祀られているかは未確認です。
朱の「極楽橋」まで来ると、手前は「此岸」、橋の向こうは「彼岸」となります。
極楽橋の向こう側に見えるのは「矢杉」。
「矢杉」は、織田信長軍が攻めてきた時、大杉の幹が二つに割けて大蛇の姿に変わり、杉の葉が無数の矢になって信長軍に向かって行ったという。
しかし、宣教師のルイス・フロイスが「地上の楽園」と書いた百済寺は全山灰燼と化し、信長は石垣や石仏を安土城建立のため運び出したとされます。
民話では、信長軍矢が矢を射てくると、どこからともなく無数のネズミが現れ、矢を受け止めて僧兵のもとへ運んだと伝わるという。
焼き討ちに抗ったねずみを祀る祠が「ねずみ地蔵」で、参道の横で今はひっそりと祀られています。
参道の横のあちこちに石仏や石塔が祀られています。
これも焼き討ちで亡くなった方の菩提を弔うものなのでしょうか。
百済寺の赤門から表門までの続く石段の表参道は、参道に覆いかぶさるようなカエデが美しく、紅葉の時期はさぞや壮観なのだと思います。
もっとも紅葉の時期の湖東三山は、参拝者が多いので落ち着いて散策するという気分にはなれないかもしれませんが...。
表門横の受付まで行くと、拝観開始が始まったばかりにも関わらず参拝者の姿が何組かおられ、やはり秘仏「植木観音」の御開帳を楽しみに訪れる方が多いんだなぁと感じます。
本坊喜見院の横の書院に面して池泉回遊・鑑賞式庭園の「喜見院庭園」がありますので、喜見院の縁側に腰かけてしばらく庭を楽しみます。
庭園から少し上の小高い場所からは西方が遠望できる場所があり、ここからは比叡山や比良山系まで見えるはずですが、この日は太郎坊山や観音寺山までしか裸眼では見えませんでした。
西方880㌔先には往時の「百済国」があり、百済からの渡来人がここから母国を偲んだといい、湖東地方や聖徳太子と百済国とのつながりに思いを馳せます。
遠望台から表参道へと戻る道筋には大きな岩が幾つかある場所がありました。
石垣が多く残る百済寺ですが、この一角にある巨石も含めての「喜見院庭園」なのか、なぜここに岩が集められているのか。
百済寺は秘仏「植木観音」以外にももう1躰の秘仏があり、飛鳥・白鳳期の作とされる「金銅弥勒半跏思惟像」があります。
像は高さ27cmの小金銅仏とされますが、秘仏のため境内に「弥勒菩薩半跏思惟像」(座高1.75m・全高3.3m)の石像が祀られています。
この石像の周辺には和紙の原料にもなるミツマタの植生群があるといい、4月頃に参拝すれば花と花の香りが楽しめそうです。
また初春から春には参道脇に「千本椿」の開花時期にもなりますので、黄色と赤の花の饗宴になるのかと思ってもみます。
石段を登りきると3mもある大きな草鞋が吊り下げられた「仁王門」へ到着します。
「仁王門」には阿吽の金剛力士像が祀られており、草鞋は仁王さまの履物とされていますが、参拝客が健脚・長寿の願を掛けるようになり大型になっていったといいます。
おやっと思ったのは、前回参拝した2016年には仁王像は木色の像だったのに、いつの間にやら修復されて赤々と彩色された像になっていたこと。全く違う仏像のようになっています。
石垣の上にある「本堂」へ続く石段の横には、樹齢430年・幹周6.8m・(主幹幹周4m)・高さ35mの「観音杉」があります。
また、石段の両側の森には巨樹スギが多く見られ、将来に残る大きな遺産となっています。
「本堂」の左には「千年菩提樹」という巨樹があり、説明板によると直径1.6m・幹周5mある推定樹齢約千年という古木とされている。
旧本堂の前庭になるこの地に植えられていたが、信長の焼き討ちに遭い、幹まで焼損し、中央部には空洞部が残るそうである。
幸いにも熱が根にまで及ばなかったため、再び蘇って現在に至るという。
本堂の右手前には鎌倉期のものとされる「宝篋印塔」が残されている。
木立に囲まれ、苔むした石の上にひっそりと祀られており、塔身に陽刻された仏がくっきりと浮き上がっています。
本堂は1650年の再建で、内陣には一番右の厨子に「元三大師」を祀り、その横には「聖徳大師像」、須弥壇には中央に御本尊の「十一面観音菩薩(植木観音)」を祀って横にはお前立を祀る。
御本尊の前方左右には「聖観音坐像(室町期)」と「如意輪観音半跏思惟像(室町期)」。さらに横には「不動明王」と「毘沙門天」が守護し、左の厨子には「護法童子」、さらに右には「阿弥陀如来座像(鎌倉期)」。
御本尊の「十一面観音菩薩(植木観音)」は奈良時代の作で、像高2.49mの巨大な仏像は奈良時代の木造仏としては2番目の大きさだといい、滋賀県では最古の木造仏となるようである。(朝日新聞デジタル)
像には金箔が残っており、背が高いが、なぜか顔が小さく感じる。中央に背の高い御本尊が立ち周囲を諸仏に並んでいる須弥壇をしばらく眺めていたら、お役の方が案内デープを流して下さり、聞きながら仏の前に座る。
内陣に元三大師が祀られて護符も売っておられたので、元三大師と百済寺の関係を聞いてみたものの、縁起は天台宗寺院なので元三大師を祀っているということなのか。
境内図には山の上の方に「本堂跡・五重塔跡」とあったので聞くと礎石が残っているということ。
道はもう獣道のようになっていて、先ほども聞いて登りかけた人がいたけど諦めて戻ってきたとのことで行くのを諦める。
なぜそこまで「聖徳太子信仰」が高くなったのか?奈良県や大阪府を凌ぐ数の聖徳太子に関する文化遺跡がなぜ滋賀県には多いのか不思議に思います。
東近江市観光協会は、中国天台宗を確立した「智顗」という僧の師匠が「慧思」という僧になり、「慧思」の生まれ変わりとされるのが聖徳太子になるとしています。
すると、中国天台宗の「智顗」は、「慧思」=聖徳太子となることから、聖徳太子の弟子ということになり、「智顗」に学んだ最澄は、「聖徳太子の弟子」となるという。
天台王国だった近江の天台宗寺院は「聖徳太子は最澄に生まれ変わって仏法を広めた」として聖徳太子との関係を語り始めたとしています。
今年は「聖徳太子千四百年御聖忌」に当たることから、聖徳太子ゆかりの寺院で特別開帳がされており、「釈迦山 百済寺」では「秘仏御本尊 十一面観音菩薩 特別参拝」が開催されています。
「植木観音」と呼ばれる秘仏御本尊は、本来住職一代につき一度しか開帳されない秘仏となっていて拝見できない仏像ですので是非この機会にということで参拝しました。
(御開帳は2006年・2014年以来になる。)
まず車で本坊・喜見院近くの駐車場まで上がるのですが、そうすると「赤門」からの石の参道が歩けない。
赤門付近には駐車場がありませんので、一旦石段を下って赤門まで下り、赤門から入り直して再び石段を登る...という順序での参拝となりました。
赤門は1650年の建立の総門で、2018年に改修されていることもあって、朱色が鮮やかでかなり新しさを感じます。
参道は緩やかな段差となっていて、暑からず寒からずで朝の空気が気持ちよい。
石段を登ると「阿弥陀堂」があるが堂内に阿弥陀仏が祀られているかは未確認です。
朱の「極楽橋」まで来ると、手前は「此岸」、橋の向こうは「彼岸」となります。
極楽橋の向こう側に見えるのは「矢杉」。
「矢杉」は、織田信長軍が攻めてきた時、大杉の幹が二つに割けて大蛇の姿に変わり、杉の葉が無数の矢になって信長軍に向かって行ったという。
しかし、宣教師のルイス・フロイスが「地上の楽園」と書いた百済寺は全山灰燼と化し、信長は石垣や石仏を安土城建立のため運び出したとされます。
民話では、信長軍矢が矢を射てくると、どこからともなく無数のネズミが現れ、矢を受け止めて僧兵のもとへ運んだと伝わるという。
焼き討ちに抗ったねずみを祀る祠が「ねずみ地蔵」で、参道の横で今はひっそりと祀られています。
参道の横のあちこちに石仏や石塔が祀られています。
これも焼き討ちで亡くなった方の菩提を弔うものなのでしょうか。
百済寺の赤門から表門までの続く石段の表参道は、参道に覆いかぶさるようなカエデが美しく、紅葉の時期はさぞや壮観なのだと思います。
もっとも紅葉の時期の湖東三山は、参拝者が多いので落ち着いて散策するという気分にはなれないかもしれませんが...。
表門横の受付まで行くと、拝観開始が始まったばかりにも関わらず参拝者の姿が何組かおられ、やはり秘仏「植木観音」の御開帳を楽しみに訪れる方が多いんだなぁと感じます。
本坊喜見院の横の書院に面して池泉回遊・鑑賞式庭園の「喜見院庭園」がありますので、喜見院の縁側に腰かけてしばらく庭を楽しみます。
庭園から少し上の小高い場所からは西方が遠望できる場所があり、ここからは比叡山や比良山系まで見えるはずですが、この日は太郎坊山や観音寺山までしか裸眼では見えませんでした。
西方880㌔先には往時の「百済国」があり、百済からの渡来人がここから母国を偲んだといい、湖東地方や聖徳太子と百済国とのつながりに思いを馳せます。
遠望台から表参道へと戻る道筋には大きな岩が幾つかある場所がありました。
石垣が多く残る百済寺ですが、この一角にある巨石も含めての「喜見院庭園」なのか、なぜここに岩が集められているのか。
百済寺は秘仏「植木観音」以外にももう1躰の秘仏があり、飛鳥・白鳳期の作とされる「金銅弥勒半跏思惟像」があります。
像は高さ27cmの小金銅仏とされますが、秘仏のため境内に「弥勒菩薩半跏思惟像」(座高1.75m・全高3.3m)の石像が祀られています。
この石像の周辺には和紙の原料にもなるミツマタの植生群があるといい、4月頃に参拝すれば花と花の香りが楽しめそうです。
また初春から春には参道脇に「千本椿」の開花時期にもなりますので、黄色と赤の花の饗宴になるのかと思ってもみます。
石段を登りきると3mもある大きな草鞋が吊り下げられた「仁王門」へ到着します。
「仁王門」には阿吽の金剛力士像が祀られており、草鞋は仁王さまの履物とされていますが、参拝客が健脚・長寿の願を掛けるようになり大型になっていったといいます。
おやっと思ったのは、前回参拝した2016年には仁王像は木色の像だったのに、いつの間にやら修復されて赤々と彩色された像になっていたこと。全く違う仏像のようになっています。
石垣の上にある「本堂」へ続く石段の横には、樹齢430年・幹周6.8m・(主幹幹周4m)・高さ35mの「観音杉」があります。
また、石段の両側の森には巨樹スギが多く見られ、将来に残る大きな遺産となっています。
「本堂」の左には「千年菩提樹」という巨樹があり、説明板によると直径1.6m・幹周5mある推定樹齢約千年という古木とされている。
旧本堂の前庭になるこの地に植えられていたが、信長の焼き討ちに遭い、幹まで焼損し、中央部には空洞部が残るそうである。
幸いにも熱が根にまで及ばなかったため、再び蘇って現在に至るという。
本堂の右手前には鎌倉期のものとされる「宝篋印塔」が残されている。
木立に囲まれ、苔むした石の上にひっそりと祀られており、塔身に陽刻された仏がくっきりと浮き上がっています。
本堂は1650年の再建で、内陣には一番右の厨子に「元三大師」を祀り、その横には「聖徳大師像」、須弥壇には中央に御本尊の「十一面観音菩薩(植木観音)」を祀って横にはお前立を祀る。
御本尊の前方左右には「聖観音坐像(室町期)」と「如意輪観音半跏思惟像(室町期)」。さらに横には「不動明王」と「毘沙門天」が守護し、左の厨子には「護法童子」、さらに右には「阿弥陀如来座像(鎌倉期)」。
御本尊の「十一面観音菩薩(植木観音)」は奈良時代の作で、像高2.49mの巨大な仏像は奈良時代の木造仏としては2番目の大きさだといい、滋賀県では最古の木造仏となるようである。(朝日新聞デジタル)
像には金箔が残っており、背が高いが、なぜか顔が小さく感じる。中央に背の高い御本尊が立ち周囲を諸仏に並んでいる須弥壇をしばらく眺めていたら、お役の方が案内デープを流して下さり、聞きながら仏の前に座る。
内陣に元三大師が祀られて護符も売っておられたので、元三大師と百済寺の関係を聞いてみたものの、縁起は天台宗寺院なので元三大師を祀っているということなのか。
境内図には山の上の方に「本堂跡・五重塔跡」とあったので聞くと礎石が残っているということ。
道はもう獣道のようになっていて、先ほども聞いて登りかけた人がいたけど諦めて戻ってきたとのことで行くのを諦める。
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