滋賀県は周囲を山々に囲まれていますので、大きな道でつながっていない限りは、峠越えの道を行くことになり、滋賀県最奥の集落が点在します。
奥伊吹の東草野地区も同様で、最奥の甲津原集落の先にはグランスノー奥伊吹(奥伊吹スキー場)があるだけで、そこがこの方面での滋賀県の最奥の集落になります。
この奥伊吹に続く姉川上流の道のへは野鳥(クマタカやヤマセミ)に出会えるスポットもあって何度も通った道ですが、近年は巨樹や石仏のある神社へも訪れた場所でもあります。
「東草野」と呼ばれる地域は、「甲津原」「曲谷」「甲賀」「吉槻」の4つの集落のことをいい、「東草野の山村景観」として国の重要文化的景観に指定されています。
最奥の「甲津原」集落だけはスキー場に行った時に通過したことはあったものの、いまだに歩いたことのない集落でした。
伊吹山の標高520mほどの山間にある甲津原は、今でこそ道路が通って往来が出来るようになっていますが、かつては峠道で福井や美濃との往来が中心だったとされます。
縄文時代から先住民が住んでいたとされており、現代人が住み着くようになったのには諸説あって、峠を越えて住み着いた・木地師が移り住んだ・平家の落人が住み着いたなどあるようです。
甲津原集落の最北には菅原道真を御祭神として祀る「天満神社」があり、スギに囲まれた境内は独特の静けさに包まれた境内にある「面堂」には、室町時代のものとされる能面10個と鼓の胴2個が残されているといいます。
天満神社に所蔵されている能面は、雨乞いの神様として祀られ、能面に触れると必ず雨が降ると信じられているという。
集落を流れる「洗面川」では、雨乞いが必要な時にこの川の石の上に能面を置き、笹の葉で水をかけると2羽の白鷺が舞い立って雨をもたらしたとの伝承があるようです。
甲津原は雪深い集落ですので、民家には積雪時にも使用可能な作業場となる広い軒下空間の「カイダレ」を備えた急勾配の屋根を持つ家が多いのですが、今は茅葺の家はなくトタン屋根の家に変わっています。
唯一の茅葺屋根の民家は、江戸初期から残る「奥伊吹ふるさと伝承館」で、現在は甲津原の暮らしを伝える展示館になっています。(当日は会館していなかった)
東草野の山村4集落の内、甲津原だけが初めて訪れた集落だったのですが、実はイメージとして辺境の集落という印象を勝手に抱いていました。
しかし、実際は2車線の道路に面したごく普通の山村なのには少し驚きました。
調べてみると、甲津原まで車で行けるようになったのは1970年、奥伊吹スキー場(グランスノー奥伊吹)が開業した頃だったといい、トンネルが通じて舗装された2車線の道になったのは2000年とのこと。
おそらく道路開通とともに集落の生活が大きく変わったことだろうと思いますが、逆に道路がなく峠道だけだったらもっと過疎化していたかもしれません。
集落にポツンと残っているのは穀物を精米するための「唐臼小屋」。
流れ出る水を利用して、栗の木をくり抜いた箕に水が溜まると水の重みで箕が傾き、水を流し落とす反動で小屋の中の杵が米を搗く仕組みになっているという。
昭和20年代までは集落周辺の渓流沿いに20基の唐臼小屋があり、5升ないしは1斗の米を1昼夜で精米していたといいます。
水車で米を精米している地方もありますが、この唐臼も自然の力をうまく利用した精米機ですね。
東草野の山村4集落の最奥の甲津原集落から姉川沿いに下ってくると、次の集落は「曲谷」集落になります。
甲津原は麻の産地で麻布づくりが盛んで「麻の里」とされるのに対して、曲谷は石臼作りが盛んな「石工の里」として知られています。
集落の入口には大きな石臼のモニュメントがあり、集落のあちこちの家でかつて加工に失敗した石臼が階段や仕切りに使われています。
曲谷に伝わる伝承では、保元の頃(1156~1158年)平清盛の追討を逃れた僧・信救得業がこの地に逃れ、故郷木曽の石工を招いて石臼の業をこの地に広めたとあります。
隣村の甲津原には平家の落人説、曲谷の信救得業説。各地にいろいろな伝承が残ります。
曲谷集落には伊弉冉尊を御祭神として祀る「白山神社」があり、この神社には2度目の参拝となります。
白山神社は、社殿によると731年に行基が白山大権現を勧請し、社殿を造営したとされます。
2層の立派な石垣の上に本殿があり、石臼の里として栄えた曲谷の繁栄ぶりが伺える神社です。
この神社の興味深いところは、鎌倉期の「石造板碑」、大きな乳房状の突起を持つ「乳銀杏」、石室に納められた「秀吉の母の石仏」、南北朝期の石仏群などです。
イチョウの巨樹によくある幹の太さというのは感じず、幹自体はそれほど太くはないものの、垂れ下がる乳房状突起はまるで鍾乳石の如くです。
突起のある方の枝が重いのか、幹自体が枝の方に傾いてしまっており、冬の豪雪が心配です。
石造板碑は鎌倉末期の作とされ、一般的には鎌倉期から室町前期に集中しているといわれており、鎌倉武士の信仰に関係するとされています。
信救得業の伝承に関係あるのかどうかは分かりませんが、滋賀県では頻繁に見かけるものではないと思います。
ところで、甲津原には「甲津原交流センター」があり、という漬物加工部と売店喫茶「麻心ーmagokoroー」の土日祝日のみ営業されている店舗があります。
「麻心ーmagokoroー」には「甲津原育ち」とラベルの付いた漬物加工部の商品と、甲津原にゆかりのあるアーティストの作品が展示されています。
名産のみょうがの漬物に魅かれつつ、「大豆あん入りトチ餅」「大豆あん入りとよもぎ餅」を購入。
素朴であっさりとした味ですが、トチやよもぎの香り良く、大豆あん(白あん)もほどよい甘さで美味しくいただきました。
「麻心ーmagokoroー」には切り絵作家・早川鉄平さんのグッズが置いてあると聞き、楽しみにしていたのですが、購入したのはモンベルとのコラボTシャツでした。
売り切れたサイズが多い中、サイズの合うのがあったので運よく入手出来ました。
ちなみに2021年春夏モデルです。
さて、東草野の山村を最奥の甲津原と曲谷を見てきましたが、話が長くなり過ぎましたので、残りの甲賀・吉槻集落は機会を改めてということにします。
余談ですが、甲津原では過疎化が進んでいたようですが、積極的な移住者受け入れによって、10年前は10歳以下の子供がゼロだったのが12人へと増えたそうです。
山奥の過疎の村の人口増加というのは面白い現象ですね。
奥伊吹の東草野地区も同様で、最奥の甲津原集落の先にはグランスノー奥伊吹(奥伊吹スキー場)があるだけで、そこがこの方面での滋賀県の最奥の集落になります。
この奥伊吹に続く姉川上流の道のへは野鳥(クマタカやヤマセミ)に出会えるスポットもあって何度も通った道ですが、近年は巨樹や石仏のある神社へも訪れた場所でもあります。
「東草野」と呼ばれる地域は、「甲津原」「曲谷」「甲賀」「吉槻」の4つの集落のことをいい、「東草野の山村景観」として国の重要文化的景観に指定されています。
最奥の「甲津原」集落だけはスキー場に行った時に通過したことはあったものの、いまだに歩いたことのない集落でした。
伊吹山の標高520mほどの山間にある甲津原は、今でこそ道路が通って往来が出来るようになっていますが、かつては峠道で福井や美濃との往来が中心だったとされます。
縄文時代から先住民が住んでいたとされており、現代人が住み着くようになったのには諸説あって、峠を越えて住み着いた・木地師が移り住んだ・平家の落人が住み着いたなどあるようです。
甲津原集落の最北には菅原道真を御祭神として祀る「天満神社」があり、スギに囲まれた境内は独特の静けさに包まれた境内にある「面堂」には、室町時代のものとされる能面10個と鼓の胴2個が残されているといいます。
天満神社に所蔵されている能面は、雨乞いの神様として祀られ、能面に触れると必ず雨が降ると信じられているという。
集落を流れる「洗面川」では、雨乞いが必要な時にこの川の石の上に能面を置き、笹の葉で水をかけると2羽の白鷺が舞い立って雨をもたらしたとの伝承があるようです。
甲津原は雪深い集落ですので、民家には積雪時にも使用可能な作業場となる広い軒下空間の「カイダレ」を備えた急勾配の屋根を持つ家が多いのですが、今は茅葺の家はなくトタン屋根の家に変わっています。
唯一の茅葺屋根の民家は、江戸初期から残る「奥伊吹ふるさと伝承館」で、現在は甲津原の暮らしを伝える展示館になっています。(当日は会館していなかった)
東草野の山村4集落の内、甲津原だけが初めて訪れた集落だったのですが、実はイメージとして辺境の集落という印象を勝手に抱いていました。
しかし、実際は2車線の道路に面したごく普通の山村なのには少し驚きました。
調べてみると、甲津原まで車で行けるようになったのは1970年、奥伊吹スキー場(グランスノー奥伊吹)が開業した頃だったといい、トンネルが通じて舗装された2車線の道になったのは2000年とのこと。
おそらく道路開通とともに集落の生活が大きく変わったことだろうと思いますが、逆に道路がなく峠道だけだったらもっと過疎化していたかもしれません。
集落にポツンと残っているのは穀物を精米するための「唐臼小屋」。
流れ出る水を利用して、栗の木をくり抜いた箕に水が溜まると水の重みで箕が傾き、水を流し落とす反動で小屋の中の杵が米を搗く仕組みになっているという。
昭和20年代までは集落周辺の渓流沿いに20基の唐臼小屋があり、5升ないしは1斗の米を1昼夜で精米していたといいます。
水車で米を精米している地方もありますが、この唐臼も自然の力をうまく利用した精米機ですね。
東草野の山村4集落の最奥の甲津原集落から姉川沿いに下ってくると、次の集落は「曲谷」集落になります。
甲津原は麻の産地で麻布づくりが盛んで「麻の里」とされるのに対して、曲谷は石臼作りが盛んな「石工の里」として知られています。
集落の入口には大きな石臼のモニュメントがあり、集落のあちこちの家でかつて加工に失敗した石臼が階段や仕切りに使われています。
曲谷に伝わる伝承では、保元の頃(1156~1158年)平清盛の追討を逃れた僧・信救得業がこの地に逃れ、故郷木曽の石工を招いて石臼の業をこの地に広めたとあります。
隣村の甲津原には平家の落人説、曲谷の信救得業説。各地にいろいろな伝承が残ります。
曲谷集落には伊弉冉尊を御祭神として祀る「白山神社」があり、この神社には2度目の参拝となります。
白山神社は、社殿によると731年に行基が白山大権現を勧請し、社殿を造営したとされます。
2層の立派な石垣の上に本殿があり、石臼の里として栄えた曲谷の繁栄ぶりが伺える神社です。
この神社の興味深いところは、鎌倉期の「石造板碑」、大きな乳房状の突起を持つ「乳銀杏」、石室に納められた「秀吉の母の石仏」、南北朝期の石仏群などです。
イチョウの巨樹によくある幹の太さというのは感じず、幹自体はそれほど太くはないものの、垂れ下がる乳房状突起はまるで鍾乳石の如くです。
突起のある方の枝が重いのか、幹自体が枝の方に傾いてしまっており、冬の豪雪が心配です。
石造板碑は鎌倉末期の作とされ、一般的には鎌倉期から室町前期に集中しているといわれており、鎌倉武士の信仰に関係するとされています。
信救得業の伝承に関係あるのかどうかは分かりませんが、滋賀県では頻繁に見かけるものではないと思います。
ところで、甲津原には「甲津原交流センター」があり、という漬物加工部と売店喫茶「麻心ーmagokoroー」の土日祝日のみ営業されている店舗があります。
「麻心ーmagokoroー」には「甲津原育ち」とラベルの付いた漬物加工部の商品と、甲津原にゆかりのあるアーティストの作品が展示されています。
名産のみょうがの漬物に魅かれつつ、「大豆あん入りトチ餅」「大豆あん入りとよもぎ餅」を購入。
素朴であっさりとした味ですが、トチやよもぎの香り良く、大豆あん(白あん)もほどよい甘さで美味しくいただきました。
「麻心ーmagokoroー」には切り絵作家・早川鉄平さんのグッズが置いてあると聞き、楽しみにしていたのですが、購入したのはモンベルとのコラボTシャツでした。
売り切れたサイズが多い中、サイズの合うのがあったので運よく入手出来ました。
ちなみに2021年春夏モデルです。
さて、東草野の山村を最奥の甲津原と曲谷を見てきましたが、話が長くなり過ぎましたので、残りの甲賀・吉槻集落は機会を改めてということにします。
余談ですが、甲津原では過疎化が進んでいたようですが、積極的な移住者受け入れによって、10年前は10歳以下の子供がゼロだったのが12人へと増えたそうです。
山奥の過疎の村の人口増加というのは面白い現象ですね。
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