近江八幡市安土町にある「金勝山 浄厳院」は、織田信長の命により行われた浄土宗と法華宗の僧による仏教論争「安土問答」の場として有名な寺院です。
結果的に法華宗は敗北してしまう訳ですが、背景には信長の政治的意思による弾圧があったとされ、勝った浄土宗側は鉦や太鼓を叩いて喜んで念仏を唱えたといいます。
これが現在にも続く「かちどき念仏」で、毎年秋に勤められるこの法要は450年以上続いているという。
今年で3年目となる「浄厳院-現代美術展」では本堂や各堂宇が開帳され、堂宇や境内を使った現代美術展が開催されます。
通常は予約拝観の寺院で堂内には入れない寺院ですが、この期間中は仏像拝観と現代アートの両方を観ることができます。
浄厳院は信長が安土城下に建立した寺院で信長により浄土宗の近江総本山とされ、末寺の数は800余を数える大寺院だったといいます。
寺院は田圃の真ん中にポツンとある寺院ですが、楼門・本堂・鐘楼・不動堂・釈迦堂・庫裡・書院・僧坊など伽藍は多く、重要文化財の建築物や寺宝を有する寺院です。
見事な造りの楼門は室町後期の建築物とされて、国の重要文化財に指定されている。
かつてこの場所には佐々木六角氏頼の菩提寺とされる「慈恩寺」があったといい、慈恩寺は廃寺となったものの、この楼門は慈恩時の遺構ではないかと考えられているようです。
扁額の「金勝山」は、栗東の金勝寺に浄厳坊という草庵を構えていた八世応誉明感の高徳に感じ入った信長が浄厳院に引き込んで寺院を建立したことによる。
「楼門」には阿吽の仁王像が睨みを効かせており、古色然とした姿は歴史を感じさせる。
となると他の寺院から移築された本堂や仏像、江戸期に建てられた建物を除けば、この地に元々あった建築物としては最古のものになるようです。
楼門から境内に入ると正面に本堂ということになりますが、その手前に右には大きな墓地があります。
墓地の参道側には「無縫塔」が多く、過去の住職などの墓と思われる墓が並び、奥まった場所に南北朝期の「宝篋印塔」が祀られています。
南北朝期ですから浄厳院以前の佐々木六角氏の慈恩寺時代のものと推定され、佐々木六角氏頼の供養塔ではないかと伝承されているという。
本堂は今の近江八幡市多賀町にあった興隆寺の弥勒堂を移築したものだとされ、天台様式だった興隆寺の御堂を浄土宗の様式に改造して移築したとされます。
本堂に祀られる御本尊「阿弥陀如来坐像(平安期・重文)は、愛知郡二階堂から移された仏像だとされており、信長の強引さを考えざるを得ない逸話が残ります。
273.5cmの丈六の阿弥陀如来坐像は光背・蓮弁・天蓋が揃っていますが、御堂に入りきらなかったため光背の頂点部分が切り取られているという。
滋賀県では10躰ほどしかない丈六の大きな仏像で、2020年の現代美術展「2020 AT ARTS HIBITION」で初めて拝観するまで、是非一度拝観したい仏像のひとつでした。
(仏像は全て許可を得て撮影しています)
仏画や人物画など寺宝の大半はいくつかの博物館に寄託されており、そのうちの4点は国の重要文化財に指定されています。
後陣には四天王像などの諸仏が並びますが、その中に碁盤の上に立つ「薬師如来立像」という珍しい仏像があります。
薬師如来立像は鎌倉期の造像とされており、像内部の墨書により享保年間の修繕を行ったものと考えられているという。
興味深いのは左端に祀られている清凉寺式の「釈迦如来立像(南北朝期)」です。
信長が浄厳院創建前に当地にあった佐々木氏頼建立の慈恩寺の御本尊であったといい、京都清涼寺の本尊を模刻したものの1躰だとされている。
頭髪は縄目状になっており、衣文は波打ち首の下まで包み込むように彫られており、像高も157.5cmと清凉寺の像とほぼ同じくらいのようである。
御本尊の須弥壇の裏側には「釈迦三尊像」の大きな仏画があり、お釈迦さまを中心に、右に文殊菩薩・左に普賢菩薩が描かれています。
浄厳院の寺宝の半数近くは博物館の寄託になっていますが、寺院にも数多くの寺宝が残されている寺院だと感じます。
寺宝の内4点は2020年に栗東歴史民俗博物館で開催された「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」展に出品された時に拝見致しました。
特に「厨子入銀造阿弥陀如来立像(鎌倉期・重文)」と「舎利厨子 厨子入銅製舎利塔(室町期・重文)」の美しさに魅了された記憶があります。
*「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」展では他に「観経変相図 (南北朝期・市指定文化財)」「日吉山王曼荼羅図(鎌倉期・重文)」も展示。
この日は現代アートから始まって、本堂参拝で仏像を拝観して、また現代アートを見るという時間を過ごさせてもらいました。
すっかり時間を忘れてしまってお昼ご飯も抜きのまま、堂宇や境内を歩き回っておりました。
(図録「浄厳院の寺宝」)
結果的に法華宗は敗北してしまう訳ですが、背景には信長の政治的意思による弾圧があったとされ、勝った浄土宗側は鉦や太鼓を叩いて喜んで念仏を唱えたといいます。
これが現在にも続く「かちどき念仏」で、毎年秋に勤められるこの法要は450年以上続いているという。
今年で3年目となる「浄厳院-現代美術展」では本堂や各堂宇が開帳され、堂宇や境内を使った現代美術展が開催されます。
通常は予約拝観の寺院で堂内には入れない寺院ですが、この期間中は仏像拝観と現代アートの両方を観ることができます。
浄厳院は信長が安土城下に建立した寺院で信長により浄土宗の近江総本山とされ、末寺の数は800余を数える大寺院だったといいます。
寺院は田圃の真ん中にポツンとある寺院ですが、楼門・本堂・鐘楼・不動堂・釈迦堂・庫裡・書院・僧坊など伽藍は多く、重要文化財の建築物や寺宝を有する寺院です。
見事な造りの楼門は室町後期の建築物とされて、国の重要文化財に指定されている。
かつてこの場所には佐々木六角氏頼の菩提寺とされる「慈恩寺」があったといい、慈恩寺は廃寺となったものの、この楼門は慈恩時の遺構ではないかと考えられているようです。
扁額の「金勝山」は、栗東の金勝寺に浄厳坊という草庵を構えていた八世応誉明感の高徳に感じ入った信長が浄厳院に引き込んで寺院を建立したことによる。
「楼門」には阿吽の仁王像が睨みを効かせており、古色然とした姿は歴史を感じさせる。
となると他の寺院から移築された本堂や仏像、江戸期に建てられた建物を除けば、この地に元々あった建築物としては最古のものになるようです。
楼門から境内に入ると正面に本堂ということになりますが、その手前に右には大きな墓地があります。
墓地の参道側には「無縫塔」が多く、過去の住職などの墓と思われる墓が並び、奥まった場所に南北朝期の「宝篋印塔」が祀られています。
南北朝期ですから浄厳院以前の佐々木六角氏の慈恩寺時代のものと推定され、佐々木六角氏頼の供養塔ではないかと伝承されているという。
本堂は今の近江八幡市多賀町にあった興隆寺の弥勒堂を移築したものだとされ、天台様式だった興隆寺の御堂を浄土宗の様式に改造して移築したとされます。
本堂に祀られる御本尊「阿弥陀如来坐像(平安期・重文)は、愛知郡二階堂から移された仏像だとされており、信長の強引さを考えざるを得ない逸話が残ります。
273.5cmの丈六の阿弥陀如来坐像は光背・蓮弁・天蓋が揃っていますが、御堂に入りきらなかったため光背の頂点部分が切り取られているという。
滋賀県では10躰ほどしかない丈六の大きな仏像で、2020年の現代美術展「2020 AT ARTS HIBITION」で初めて拝観するまで、是非一度拝観したい仏像のひとつでした。
(仏像は全て許可を得て撮影しています)
仏画や人物画など寺宝の大半はいくつかの博物館に寄託されており、そのうちの4点は国の重要文化財に指定されています。
後陣には四天王像などの諸仏が並びますが、その中に碁盤の上に立つ「薬師如来立像」という珍しい仏像があります。
薬師如来立像は鎌倉期の造像とされており、像内部の墨書により享保年間の修繕を行ったものと考えられているという。
興味深いのは左端に祀られている清凉寺式の「釈迦如来立像(南北朝期)」です。
信長が浄厳院創建前に当地にあった佐々木氏頼建立の慈恩寺の御本尊であったといい、京都清涼寺の本尊を模刻したものの1躰だとされている。
頭髪は縄目状になっており、衣文は波打ち首の下まで包み込むように彫られており、像高も157.5cmと清凉寺の像とほぼ同じくらいのようである。
御本尊の須弥壇の裏側には「釈迦三尊像」の大きな仏画があり、お釈迦さまを中心に、右に文殊菩薩・左に普賢菩薩が描かれています。
浄厳院の寺宝の半数近くは博物館の寄託になっていますが、寺院にも数多くの寺宝が残されている寺院だと感じます。
寺宝の内4点は2020年に栗東歴史民俗博物館で開催された「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」展に出品された時に拝見致しました。
特に「厨子入銀造阿弥陀如来立像(鎌倉期・重文)」と「舎利厨子 厨子入銅製舎利塔(室町期・重文)」の美しさに魅了された記憶があります。
*「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」展では他に「観経変相図 (南北朝期・市指定文化財)」「日吉山王曼荼羅図(鎌倉期・重文)」も展示。
この日は現代アートから始まって、本堂参拝で仏像を拝観して、また現代アートを見るという時間を過ごさせてもらいました。
すっかり時間を忘れてしまってお昼ご飯も抜きのまま、堂宇や境内を歩き回っておりました。
(図録「浄厳院の寺宝」)
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