今年も♪商売繁盛で笹持ってこい!♪の掛け声もにぎやかに、今年も豊国神社の「長浜十日戎」が始まりました。
「長浜十日戎」は今年で復活六十年祭を迎えるといい、甘酒のふるまいや福餅まきがあり、「本戎」には宝恵駕籠錬行が行われます。
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、織田信長の浅井長政の小谷城攻めの際、横山城に陣取って小谷城落城寸前にお市と浅井三姉妹を救出したという。
浅井氏が滅亡後、秀吉は浅井氏の領地の大部分を賜り、今浜と呼ばれていた地名を信長の長から長浜と改める。
そして長浜の地に長浜城を築き、羽柴秀吉と名を改め、その後は関白にまで出世して天下人となったのは周知の通りです。
秀吉は長浜の町で楽市楽座で商工業を発展させ、年貢米や労役を免除し、秀吉に待望の男子が生まれた際には各町に祝儀の砂金を振舞ったといいます。
町民は、その砂金を元に曳山を作り、子供歌舞伎を演じるようになったのが「長浜曳山祭り」で、祭りは現代に至っても続いています。
太閤さんが1598年に亡くなると、豊国神社を建立したものの、徳川幕府の政権下で太閤さんを神格化できず、豊国神社は取り壊されたといいます。
江戸時代には太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていたが、1793年に彦根藩に「戎宮」を建立する許可を得て一社を建立。
宮では表では戎さんをお祀りし、太閤さんは裏に隠してお祀りしていたといいます。
明治維新後になると「豊国神社」を名乗ることが出来るようになり、大手を上げて太閤さんをお祀りできるようになったようです。
本殿の横にある「出世稲荷神社」は秀吉の大出世にあやかろうと参拝する方が絶えない神社で、回廊で「お百度めぐり祈願」が出来るようになっています。
立身出世して天下人にまで昇りつめた秀吉の銅像は、福笹と熊手を片手に一万円札(旧紙幣)をぶら下げています。
何とも裕福そうな姿にあやかりたいところですが、福笹や熊手は縁起物とはいえ結構高いんですよね。
境内の中央辺りではお焚き上げをされており、寒い夜でも暖まれることが出来ます。
昨年の福笹や熊手やお札をお焚き上げに持って来られる方も後を絶たず、勢いよく燃える炎に煩悩も焼かれる。(といいのにね。)
お焚き上げで少し体を温めた後は、手洗池の横で振舞われている甘酒を頂きます。
紙コップに注がれた甘酒に、すりおろされたショウガをたっぷりと入れて飲むと体の芯から温まります。
というところで、お待ちかねの餅まきの時間がやってきました!
撒かれるのは、紅白それぞれのお餅と鯛を模ったカマボコ。
お餅に「福」のシールが貼ってある福餅を掴めば「おたね福銭」がもらえて、1年間財布に入れておくとお金に困らないとか。
お餅はたくさん撒かれるのですが、手に当って刎ねてしまったり、頭上高く通り過ぎたりと中々の苦戦です。
飛んでくるお餅に「福餅」が見えたので、手を伸ばしたら見事に手中に納まりました!
掴んだお餅と鯛のカマボコは12個。
ちょうど12月分に相当する数で何となく縁起が良い感じで、福餅を「おたね福銭」と交換しました。
ところが帰ってから見たらもう1個「福餅」があり、気付かないところにもう一つ「福」があったと都合良く解釈しておきます。
さて長浜十日戎の「本戎」は、今年初めての大雪で夜が明けて午前中は真冬の雪景色となっていました。
昼頃には雪が止み晴れ間が広がって雪解けとなりましたが、神社では宵戎の夜とは全く違った光景が広がっていました。
出世稲荷神社の屋根や境内に積雪があり、白い雪に鳥居の朱色が映える光景は爽快な冬の景色です。
早朝から午前中に吹き荒れていた吹雪が嘘のような晴れ間となり、この寒波は取り合えずは終了となるのでしょう。
「本社」も屋根には雪が残っており、太閤さんの銅像は福笹と熊手を持って、恵比寿協賛会の法被を羽織っています。
参拝者は途絶えることなく来られていましたので、豊国さん・えべっさん・太閤さんの御利益にあやかりたい人は多いようですね。
「初詣」が終わって「十日戎」が終わると、やっと正月が明けたような気分になります。
「十日戎」が終わると入れ替わるように慶雲館の「長浜盆梅展」が始まり、少しづつですが春に近づいていくことになります。
「長浜十日戎」は今年で復活六十年祭を迎えるといい、甘酒のふるまいや福餅まきがあり、「本戎」には宝恵駕籠錬行が行われます。
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、織田信長の浅井長政の小谷城攻めの際、横山城に陣取って小谷城落城寸前にお市と浅井三姉妹を救出したという。
浅井氏が滅亡後、秀吉は浅井氏の領地の大部分を賜り、今浜と呼ばれていた地名を信長の長から長浜と改める。
そして長浜の地に長浜城を築き、羽柴秀吉と名を改め、その後は関白にまで出世して天下人となったのは周知の通りです。
秀吉は長浜の町で楽市楽座で商工業を発展させ、年貢米や労役を免除し、秀吉に待望の男子が生まれた際には各町に祝儀の砂金を振舞ったといいます。
町民は、その砂金を元に曳山を作り、子供歌舞伎を演じるようになったのが「長浜曳山祭り」で、祭りは現代に至っても続いています。
太閤さんが1598年に亡くなると、豊国神社を建立したものの、徳川幕府の政権下で太閤さんを神格化できず、豊国神社は取り壊されたといいます。
江戸時代には太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていたが、1793年に彦根藩に「戎宮」を建立する許可を得て一社を建立。
宮では表では戎さんをお祀りし、太閤さんは裏に隠してお祀りしていたといいます。
明治維新後になると「豊国神社」を名乗ることが出来るようになり、大手を上げて太閤さんをお祀りできるようになったようです。
本殿の横にある「出世稲荷神社」は秀吉の大出世にあやかろうと参拝する方が絶えない神社で、回廊で「お百度めぐり祈願」が出来るようになっています。
立身出世して天下人にまで昇りつめた秀吉の銅像は、福笹と熊手を片手に一万円札(旧紙幣)をぶら下げています。
何とも裕福そうな姿にあやかりたいところですが、福笹や熊手は縁起物とはいえ結構高いんですよね。
境内の中央辺りではお焚き上げをされており、寒い夜でも暖まれることが出来ます。
昨年の福笹や熊手やお札をお焚き上げに持って来られる方も後を絶たず、勢いよく燃える炎に煩悩も焼かれる。(といいのにね。)
お焚き上げで少し体を温めた後は、手洗池の横で振舞われている甘酒を頂きます。
紙コップに注がれた甘酒に、すりおろされたショウガをたっぷりと入れて飲むと体の芯から温まります。
というところで、お待ちかねの餅まきの時間がやってきました!
撒かれるのは、紅白それぞれのお餅と鯛を模ったカマボコ。
お餅に「福」のシールが貼ってある福餅を掴めば「おたね福銭」がもらえて、1年間財布に入れておくとお金に困らないとか。
お餅はたくさん撒かれるのですが、手に当って刎ねてしまったり、頭上高く通り過ぎたりと中々の苦戦です。
飛んでくるお餅に「福餅」が見えたので、手を伸ばしたら見事に手中に納まりました!
掴んだお餅と鯛のカマボコは12個。
ちょうど12月分に相当する数で何となく縁起が良い感じで、福餅を「おたね福銭」と交換しました。
ところが帰ってから見たらもう1個「福餅」があり、気付かないところにもう一つ「福」があったと都合良く解釈しておきます。
さて長浜十日戎の「本戎」は、今年初めての大雪で夜が明けて午前中は真冬の雪景色となっていました。
昼頃には雪が止み晴れ間が広がって雪解けとなりましたが、神社では宵戎の夜とは全く違った光景が広がっていました。
出世稲荷神社の屋根や境内に積雪があり、白い雪に鳥居の朱色が映える光景は爽快な冬の景色です。
早朝から午前中に吹き荒れていた吹雪が嘘のような晴れ間となり、この寒波は取り合えずは終了となるのでしょう。
「本社」も屋根には雪が残っており、太閤さんの銅像は福笹と熊手を持って、恵比寿協賛会の法被を羽織っています。
参拝者は途絶えることなく来られていましたので、豊国さん・えべっさん・太閤さんの御利益にあやかりたい人は多いようですね。
「初詣」が終わって「十日戎」が終わると、やっと正月が明けたような気分になります。
「十日戎」が終わると入れ替わるように慶雲館の「長浜盆梅展」が始まり、少しづつですが春に近づいていくことになります。
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