
教林坊のある繖山の山頂には西国三十三所の第32番札所・観音正寺があり、繖山と近い地域には石馬寺など聖徳太子と縁の深い寺院が点在しています。
繖山周辺には独特の仏教圏があったようですが、教林坊も605年に聖徳太子によって創建されたとされており、聖徳太子自作の石仏を御本尊として祀る寺院です。
また、教林坊はかつて観音正寺の末寺の一つだったともされ、観音正寺の末寺として形をとどめているのは現在ではこの坊だけだともいわれています。

教林坊へと向かう道に「西国三十三所札所 観音正寺」の石碑がありましたので、かつてはこの教林坊から観音正寺とつながる道があったのかもしれません。
本堂へは緩やかな石段を登っていきますが、確かに「かくれ里」といった雰囲気に満ちており、実にひっそりと建てられている寺院です。

茅葺きの総門は江戸時代後期の門で“徳島県藍染庄屋 長屋門を移築”と書かれています。
覆いかぶさる楓の葉を見ると、紅葉の季節にはさぞや美しいのだろうと思いますが、その時期は紅葉狩りの方で溢れているでしょうからシーズン前に訪れることにしました。


総門から少し行くと今度は表門へつながります。
表門は江戸時代の建築物とあり、質素に造られた門でしたので「紅葉のかくれ里・教林坊」が紅葉だけでない素晴らしい寺院だったことにこの時点では想像もしていませんでした。

書院の土間で入山手続きをした後は、庭園を外回りに周回するようにして細い道を進みます。
本堂へ入るとまず驚くのが本尊「十一面観音菩薩」のお前立ちと、両脇を守護する「金剛力士像」です。
「繖山」の扁額の下に3躰の仏像が並ぶ姿に、余分な力が抜けて平穏な気持ちを取り戻していくような思いが深まります。

お前立ちとは思えないほどの美しい十一面観音菩薩は、胸の辺りに木の年輪が浮き出ており、穏やかな表情をされています。
躰はふくよかで衣もはっきりと彫られており、また観にいきたくなるような観音像でした。

十一面観音菩薩・金剛力士像の祀られた須弥壇の左には脇陣があり、こちらには秘仏「不動明王立像」と金剛力士像が安置されています。
金剛力士像は護摩で黒ずんでいて厨子も暗いため姿はかずかに観える程度ですが、ライトアップされた不動明王は神々しい姿を現しておられます。
正式には「願掛け不動明王」と呼ぶそうですが、秋の特別拝観時のみの御開帳だそうです。

後陣にももう1躰の「十一面観音菩薩立像」が安置されていました。
本堂の後陣で供養された方を導いて下さるお役目なのでしょう。

さて、本堂を出たすぐ側には御本尊を祀る岩窟があります。
御本尊は「赤川観音」と呼ばれ、岩屋(霊窟)に納められており、その苔むした巨石に圧倒されてしまいます。
巨石の下部の空間は「本尊霊窟」呼ばれ、中には太子自作の石仏が安置されており、上の岩は「太子の説法岩」の名があります。
この巨石は神山・繖山に造られた古墳の跡ともいわれている大岩です。


ここまで外回りに庭園を回ってきましたが、ここから庭園の正面へと道筋が変わります。
道の周囲には苔が雰囲気たっぷりに生えており、これは春と秋だけの期間限定公開の効果でもあるのでしょう。
茅葺き屋根の書院からは庭園をゆっくりと拝見することが出来ます。

庭園は桃山時代に作庭されたと考えられており、「地泉鑑賞式」という形式だそうです。
庭園のことがよく分らない当方でも美しいと感じるこの庭園は小堀遠州作と伝えられています。

書院が特徴的な造りになっており、床の間を作らず室内から「山水掛軸」に見立てる「掛軸庭園」との呼び名があります。
確かに部屋の中央にある障子の中が掛軸のような庭が広がり、独特の絵のように見えるこの書院は、室町期の名残りとされています。


書院には「釈迦如来像」と「聖徳太子稚児像」が祀られています。
新しそうな太子像ではありますが、前に置かれた小さなのホラ貝が印象に残ります。

書院は急勾配で狭い階段があって3階の天井裏まで行くことが出来ますが、3階まで登った時に思わず声をあげてしまいました。
茅葺き屋根の裏側を見る機会はあまりありませんし、安置されている「大黒天」も相まった驚きの声です。

教林坊の仏像や巨石、苔むした道・掛軸庭園を見ると「紅葉の教林坊」という言葉では収まらない寺院であり、まさしく「かくれ里」の寺という言葉がしっくりきます。
また教林坊には小堀遠州の考案といわれる「水琴窟」がありますが、この水琴窟の音色は実に美しい響きを奏でます。
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