湖南市の三雲山には戦国大名・六角氏の六宿老のひとりである三雲成持が城主を勤めた「三雲城址」があり、山の中腹には「八丈岩」と呼ばれる巨大な岩がある山です。
「八丈岩」へは過去に訪れたことがあったのですが、三雲山の山頂は三雲城址の山頂郭にあると知り、再び「八丈岩」と「三雲城址」の散策に訪れました。
六角氏は観音寺城を居城としていたが織田信長軍に攻め込まれると、三雲城に入り甲賀へ逃走したという。
三雲城城主だった三雲成持の三雲氏は、甲賀五十三家の一つだとされ、兄・三雲賢持の子は忍者・猿飛佐助のモデルになったとも言われています。
六角氏の没落後は浪人となり、蒲生氏に仕えた後、江戸時代に入ると旗本として旧領復帰を果たして幕府に仕え、幕末まで家名を存続出来たといいます。
三雲城址の登城口から登って行くと八丈岩と三雲城址の分岐がありますが、まず先に「八丈岩」へ行ってから「三雲城址」へ行く周回コースとしました。
「八丈岩」への木段の前には「琵琶湖龍神」と書かれた扁額が掛かり、ここが一之鳥居となっている。
鳥居を抜けると緩やかな木段が続き、目指す「八丈岩」へはあっという間に到着出来ます。
実はこの日の2つ目の山でしたが、これくらいの傾斜だと特に疲労も感じず、陽射しも良かったので心地よく登っていけます。
木段の途中に注連縄を巻かれた石と願い事を書いた小石が積まれていましたが、八丈岩に供えられた願い石が溜まり過ぎるとここへ降ろしているかと推測します。
八丈岩は“落ちそうで落ちない岩”として受験生の人気を集めているとされますが、願い事は様々で今の世界情勢から“世界平和”の文字も幾つかありました。
「琵琶湖龍神」の二之鳥居までくるともう鳥居の先に巨大な八丈岩が見えています。
三雲山で龍神をお祀りしているのは、麓の田畑を潤す山の水に対する信仰と近くを流れる野洲川の氾濫を抑えて欲しいとの願いや畏怖の信仰があったのでしょう。
「八丈岩」は麓からでも岩が光っているのが見えるほどよく目立つ岩で、8mを越える高さの岩が2本に分かれてそそり立っている。
最初は1枚岩だったのが自然環境などによって割れたのか、最初からこういう状態だったのかは定かではないが、まさに見上げるような巨石です。
巨大な方の岩は崖側にあり、祠や注連縄が掛けられていることから、信仰されている巨石なのが伺われる。
ただし巨石直下の場所からは、あまりに岩が大きすぎてフレームにおさめることは出来ません。
八丈岩が“落ちそうで落ちない岩”と呼ばれるのは裏側から見るこの姿でしょう。
今にも倒れて落ちそうな角度をしており、岩の下で岩を支えるポーズで写真を撮られる方の多い場所です。
ある角度から岩を眺めると、まさに今にも落ちそうに見えます。
“落ちそうで落ちない岩”として受験生が訪れて「合格祈願石」に願いを託すのも理解できますね。
「合格祈願石」は崖側の岩の上に奉納してあり、ここから見渡せる景色は竜王方面でしょうか。胸のすくような景色です。
三雲城城主だった三雲成持の兄・賢持の子とされる猿飛佐助はこの八丈岩を忍者修行に使ったとの伝説が残ります。
さて前回はどこにあるか分からなかった「六角氏家紋の刻印岩」と呼ばれる「隅立て四つ目結」の刻印岩を今回は見つけることができました。
刻印岩は八丈岩に刻まれていると勘違いしておりましたが、別の巨石群に看板があったので探してみると巨石の壁面に確認出来る。
六角氏は近江源氏・佐々木氏の嫡流で鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を地盤とする守護大名だったとされていた名門でした。
しかし、三好氏や浅井氏との争いや内紛で勢力に陰りをみせると最後は織田信長の上洛軍と戦って敗れ、歴史の表舞台から姿を消していきます。
六角氏の家紋「隅立て四つ目結」が刻印されている巨石群を裏側から見ると、八丈岩ほどではないものの刻印岩の巨石群も迫力を感じます。
湖南地方の巨石の多さを感じるとともに山伝いに京都南部や奈良まで続く山々は。まさに石の道とでも呼びたくなるような巨石の山が多い。
三雲城は戦国時代に落城・廃城となっているにも関わらず分かりやすく整備がされており、城の規模は東西300南北200mとされ八丈岩や刻印岩からは馬の背道という稜線を歩きます。
兵站地という兵器や食料などの物資の補給地を越えると「近代の採石場跡」が見えてきます。
つい最近まで採石していたかのように切り出した岩がゴロゴロと転がり、途中で放棄されてしまったような場所です。
まもなく「主郭北・東辺の石垣」が見えてきて、堅牢な山城があったことが伺われます。
六角氏は1563年の観音寺騒動や1568年の織田信長の侵攻の際に、居城であった観音寺城から落ち延びこの三雲城に逃げ込んだとされたといいます。
「枡形虎口の石垣」は虎口の石垣を屈折させて敵の侵入を防ぐためのもの。
案内板には六角氏没落後の戦国時代後期に穴太積みで造営されたものとされているそうです。
廃城となった城ではあるものの、場所的な利便性から利用されていたのかもしれません。
山城に欠かせないのが生きるために必要な水の確保で、主郭跡には井戸が残されています。
井戸は口径が1.9mφで深さ6.2mの穴太積みの野面積みとありました。
恐る恐る覗いてみましたが、6m以上の深さがあり、シダが茂っていることから水面は全く見えず。
「城郭2」と呼ばれる場所が三雲山の山頂部(334m)になり、磐座のような巨石が“倒れそうで倒れない”ように置かれている。
城址によっては土塁や竪堀や曲輪が分かりにくい城址もありますが、三雲城址はどちらかというと分かりやすい感じのする城跡だったと思います。
山頂から見る景色は平野部に三上山、琵琶湖を隔てて対岸に連なるのは比良山系。
滋賀県には高層ビル群がほとんどないので、周辺に高い山のない三上山はどこからでも見えるような感覚になってしまいますね。
「八丈岩」へは過去に訪れたことがあったのですが、三雲山の山頂は三雲城址の山頂郭にあると知り、再び「八丈岩」と「三雲城址」の散策に訪れました。
六角氏は観音寺城を居城としていたが織田信長軍に攻め込まれると、三雲城に入り甲賀へ逃走したという。
三雲城城主だった三雲成持の三雲氏は、甲賀五十三家の一つだとされ、兄・三雲賢持の子は忍者・猿飛佐助のモデルになったとも言われています。
六角氏の没落後は浪人となり、蒲生氏に仕えた後、江戸時代に入ると旗本として旧領復帰を果たして幕府に仕え、幕末まで家名を存続出来たといいます。
三雲城址の登城口から登って行くと八丈岩と三雲城址の分岐がありますが、まず先に「八丈岩」へ行ってから「三雲城址」へ行く周回コースとしました。
「八丈岩」への木段の前には「琵琶湖龍神」と書かれた扁額が掛かり、ここが一之鳥居となっている。
鳥居を抜けると緩やかな木段が続き、目指す「八丈岩」へはあっという間に到着出来ます。
実はこの日の2つ目の山でしたが、これくらいの傾斜だと特に疲労も感じず、陽射しも良かったので心地よく登っていけます。
木段の途中に注連縄を巻かれた石と願い事を書いた小石が積まれていましたが、八丈岩に供えられた願い石が溜まり過ぎるとここへ降ろしているかと推測します。
八丈岩は“落ちそうで落ちない岩”として受験生の人気を集めているとされますが、願い事は様々で今の世界情勢から“世界平和”の文字も幾つかありました。
「琵琶湖龍神」の二之鳥居までくるともう鳥居の先に巨大な八丈岩が見えています。
三雲山で龍神をお祀りしているのは、麓の田畑を潤す山の水に対する信仰と近くを流れる野洲川の氾濫を抑えて欲しいとの願いや畏怖の信仰があったのでしょう。
「八丈岩」は麓からでも岩が光っているのが見えるほどよく目立つ岩で、8mを越える高さの岩が2本に分かれてそそり立っている。
最初は1枚岩だったのが自然環境などによって割れたのか、最初からこういう状態だったのかは定かではないが、まさに見上げるような巨石です。
巨大な方の岩は崖側にあり、祠や注連縄が掛けられていることから、信仰されている巨石なのが伺われる。
ただし巨石直下の場所からは、あまりに岩が大きすぎてフレームにおさめることは出来ません。
八丈岩が“落ちそうで落ちない岩”と呼ばれるのは裏側から見るこの姿でしょう。
今にも倒れて落ちそうな角度をしており、岩の下で岩を支えるポーズで写真を撮られる方の多い場所です。
ある角度から岩を眺めると、まさに今にも落ちそうに見えます。
“落ちそうで落ちない岩”として受験生が訪れて「合格祈願石」に願いを託すのも理解できますね。
「合格祈願石」は崖側の岩の上に奉納してあり、ここから見渡せる景色は竜王方面でしょうか。胸のすくような景色です。
三雲城城主だった三雲成持の兄・賢持の子とされる猿飛佐助はこの八丈岩を忍者修行に使ったとの伝説が残ります。
さて前回はどこにあるか分からなかった「六角氏家紋の刻印岩」と呼ばれる「隅立て四つ目結」の刻印岩を今回は見つけることができました。
刻印岩は八丈岩に刻まれていると勘違いしておりましたが、別の巨石群に看板があったので探してみると巨石の壁面に確認出来る。
六角氏は近江源氏・佐々木氏の嫡流で鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を地盤とする守護大名だったとされていた名門でした。
しかし、三好氏や浅井氏との争いや内紛で勢力に陰りをみせると最後は織田信長の上洛軍と戦って敗れ、歴史の表舞台から姿を消していきます。
六角氏の家紋「隅立て四つ目結」が刻印されている巨石群を裏側から見ると、八丈岩ほどではないものの刻印岩の巨石群も迫力を感じます。
湖南地方の巨石の多さを感じるとともに山伝いに京都南部や奈良まで続く山々は。まさに石の道とでも呼びたくなるような巨石の山が多い。
三雲城は戦国時代に落城・廃城となっているにも関わらず分かりやすく整備がされており、城の規模は東西300南北200mとされ八丈岩や刻印岩からは馬の背道という稜線を歩きます。
兵站地という兵器や食料などの物資の補給地を越えると「近代の採石場跡」が見えてきます。
つい最近まで採石していたかのように切り出した岩がゴロゴロと転がり、途中で放棄されてしまったような場所です。
まもなく「主郭北・東辺の石垣」が見えてきて、堅牢な山城があったことが伺われます。
六角氏は1563年の観音寺騒動や1568年の織田信長の侵攻の際に、居城であった観音寺城から落ち延びこの三雲城に逃げ込んだとされたといいます。
「枡形虎口の石垣」は虎口の石垣を屈折させて敵の侵入を防ぐためのもの。
案内板には六角氏没落後の戦国時代後期に穴太積みで造営されたものとされているそうです。
廃城となった城ではあるものの、場所的な利便性から利用されていたのかもしれません。
山城に欠かせないのが生きるために必要な水の確保で、主郭跡には井戸が残されています。
井戸は口径が1.9mφで深さ6.2mの穴太積みの野面積みとありました。
恐る恐る覗いてみましたが、6m以上の深さがあり、シダが茂っていることから水面は全く見えず。
「城郭2」と呼ばれる場所が三雲山の山頂部(334m)になり、磐座のような巨石が“倒れそうで倒れない”ように置かれている。
城址によっては土塁や竪堀や曲輪が分かりにくい城址もありますが、三雲城址はどちらかというと分かりやすい感じのする城跡だったと思います。
山頂から見る景色は平野部に三上山、琵琶湖を隔てて対岸に連なるのは比良山系。
滋賀県には高層ビル群がほとんどないので、周辺に高い山のない三上山はどこからでも見えるような感覚になってしまいますね。
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