弥生時代に製作されて使われたという『銅鐸』は、当初は吊り下げられて鐘のように鳴らして使われたとされており、滋賀県では湖南地方に多く出土している。
銅鐸はシャーマン(司祭者)が豊穣を祈る祀りの祭礼に銅鐸を用いたと考えられており、銅鐸時代後期になるとムラの共有物から有力者の権威を表す意味へと変わっていったという。
滋賀県の限られた地域で出土しているのは、規模の大きなムラが存在して金属加工する技術や原料があったということになり、青銅器を作れる素地があったと思われます。
「安土城考古博物館」では「里帰り!日本最大の銅鐸―太古の響きを安土の地で―」と題して、日本最大の銅鐸(東京国立博物館所蔵)を中心とした博物展が開催されています。
「里帰り!日本最大の銅鐸―太古の響きを安土の地で―」<安土城考古博物館>
銅鐸が24点も出土した「大岩山銅鐸」の近くには「銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)」があるにも関わらず安土で公開されており、野洲の「銅鐸博物館」では別の企画展が開催中。
また銅鐸はムラや古墳からは発見されておらず、村を外れた丘陵の麓などに埋められていることが多いとされ、その埋納については諸説が入り混じり謎が多く残るという。
この日の当初の予定は野洲市の「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」で仏像展、「安土城考古学博物館」で銅鐸と考えていましたが、急遽安土城を散策してから博物館巡りとなりました。
予定変更が幸いして、安土城では曇り空でしたが雨は降らず、最終目的地の野洲まで行った頃に雨が降り出し、天候に味方されました。
博物館に入るとエントランスに日本最大高さ134cmの「大岩山銅鐸」の復元品があり、その大きさを実感できます。
銅鐸は製作した時は金属色をしていますが、埋納されたりしているうちに錆で青銅色に変わるといいます。
横の壁には弥生時代の服や臼の再現品が展示されており、壁には絵が描かれています。
まだ漢字が日本に入らず普及もしていない時代ですから、絵で記録を残していたのかと思います。
展示物は常設会場では、縄文時代から弥生時代の出土物-弥生時代の石器-銅鐸の時代-古墳時代-銅鐸から神鏡の時代など時代順に展示してあります。
もう一つの常設会場では中世から戦国時代の近江の出土遺物を展示。格安の常設展示の図録がありましたので購入。
(常設展図録)
「大岩山銅鐸」は1881年に山の中へ遊びに行った子供が3個の銅鐸を発見。話を聞いた村の若者が翌日11個を掘り出したという。
1962年には東海道新幹線の土取り工事で9個の銅鐸が発見され、別の場所でも1個の銅鐸が発見されたという。
なぜ銅鐸が埋納されたのかについてにはっきりした答えはないようですが、豊穣を祈るための埋葬・変事にあたり神に埋葬・平時は埋めておき祭事等の時に掘り出したが信仰の変化により忘れ去られた・古墳時代になり不要になった...等。
面白いなと思ったのは、湖西・湖東・湖北・湖南の銅鐸を集合させて弥生時代最後の銅鐸祭祀を行ったという説。
これなら滋賀県で一部の地域にだけ銅鐸が発見されることになります。
(特別展図録)
展示された銅鐸は先述の134.7cmの銅鐸の他に日本最小の3.4cmの銅鐸や水鳥が描かれている銅鐸などが一堂に会し、部屋の展示物はほぼ銅鐸だけです。
充分に銅鐸に堪能し、次は「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」まで足を延ばします。
今回の当初の目的は「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」で仏像を観ることでしたが、すっかり銅鐸に順序が入れ替わってしまっています。
「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」<銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)>
「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」では「益須寺(やすじ)遺跡」「福林寺遺跡」の出土物、仏像8躰、仏画や鰐口、三上神社や兵主神社の神像や棟札や出土物などが展示。
展示されているのは守山市と野洲市の寺院や教育委員会の所蔵品で、仏像は奈良・平安時代を中心に重要文化財も含まれています。
鎌倉期の阿弥陀如来立像は、快慶1派の作品とされていたが、頭部と胸が金色に塗られている。(上のチラシの仏像)
こういう復元にはあまり馴染めないのですが、造像当時はこんな色彩だったのでしょう。
また御上神社の「相撲人形」は相撲神事の雛形として作られたと考えられ、行司と力士を一組として神前に奉納されたものとされ興味深い。
「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」の敷地内には「弥生の森歴史公園」が併設されており、竪穴住居・高床倉庫・古代米の水田などや「宮山二号墳」という石室に入れる円墳も残されている。
先日、大岩山の近隣にある「桜生史跡公園」に訪れた際に甲山・円山・天王山の3つの古墳を巡った帰りに弥生の森を訪れましたが、今回は古墳ではなく、仏像と銅鐸なのでなかなか忙しい。
「銅鐸博物館」の中は、「安土城考古嶽博物館」の特別展示室以上とも思えるくらい銅鐸が並んでいます。
日本最大の大岩山銅鐸の復元品もありましたが、復元+汚しがしてあると素人ゆえに本物の見分けが付きません。
銅鐸の製造方法について動く模型で説明する場所がありましたが、銅鐸の制作工程がよく分かるコーナーでした。
帰りに大岩山銅鐸の出土地に立ち寄ってみます。石碑しかありませんが、よくこんなところで子供が発見したなと関心してしまいます。
銅鐸の時代ごとの変遷を守山弥生遺跡研究会の資料で見ると、弥生時代の中期前半は「出雲」や「摂津」の“聞く銅鐸”が多く、中期後半になると近畿四国の東部へ中心が移動している。
弥生時代の後期になると近畿・東海へ移動していくが、“聞く銅鐸”と“見る銅鐸”が継続しているのは「紀伊」や「近江」となります。
銅鐸の出土数で「近江」は4位となるので、近江は銅鐸文化が盛んだったクニと言えます。
銅鐸はシャーマン(司祭者)が豊穣を祈る祀りの祭礼に銅鐸を用いたと考えられており、銅鐸時代後期になるとムラの共有物から有力者の権威を表す意味へと変わっていったという。
滋賀県の限られた地域で出土しているのは、規模の大きなムラが存在して金属加工する技術や原料があったということになり、青銅器を作れる素地があったと思われます。
「安土城考古博物館」では「里帰り!日本最大の銅鐸―太古の響きを安土の地で―」と題して、日本最大の銅鐸(東京国立博物館所蔵)を中心とした博物展が開催されています。
「里帰り!日本最大の銅鐸―太古の響きを安土の地で―」<安土城考古博物館>
銅鐸が24点も出土した「大岩山銅鐸」の近くには「銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)」があるにも関わらず安土で公開されており、野洲の「銅鐸博物館」では別の企画展が開催中。
また銅鐸はムラや古墳からは発見されておらず、村を外れた丘陵の麓などに埋められていることが多いとされ、その埋納については諸説が入り混じり謎が多く残るという。
この日の当初の予定は野洲市の「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」で仏像展、「安土城考古学博物館」で銅鐸と考えていましたが、急遽安土城を散策してから博物館巡りとなりました。
予定変更が幸いして、安土城では曇り空でしたが雨は降らず、最終目的地の野洲まで行った頃に雨が降り出し、天候に味方されました。
博物館に入るとエントランスに日本最大高さ134cmの「大岩山銅鐸」の復元品があり、その大きさを実感できます。
銅鐸は製作した時は金属色をしていますが、埋納されたりしているうちに錆で青銅色に変わるといいます。
横の壁には弥生時代の服や臼の再現品が展示されており、壁には絵が描かれています。
まだ漢字が日本に入らず普及もしていない時代ですから、絵で記録を残していたのかと思います。
展示物は常設会場では、縄文時代から弥生時代の出土物-弥生時代の石器-銅鐸の時代-古墳時代-銅鐸から神鏡の時代など時代順に展示してあります。
もう一つの常設会場では中世から戦国時代の近江の出土遺物を展示。格安の常設展示の図録がありましたので購入。
(常設展図録)
「大岩山銅鐸」は1881年に山の中へ遊びに行った子供が3個の銅鐸を発見。話を聞いた村の若者が翌日11個を掘り出したという。
1962年には東海道新幹線の土取り工事で9個の銅鐸が発見され、別の場所でも1個の銅鐸が発見されたという。
なぜ銅鐸が埋納されたのかについてにはっきりした答えはないようですが、豊穣を祈るための埋葬・変事にあたり神に埋葬・平時は埋めておき祭事等の時に掘り出したが信仰の変化により忘れ去られた・古墳時代になり不要になった...等。
面白いなと思ったのは、湖西・湖東・湖北・湖南の銅鐸を集合させて弥生時代最後の銅鐸祭祀を行ったという説。
これなら滋賀県で一部の地域にだけ銅鐸が発見されることになります。
(特別展図録)
展示された銅鐸は先述の134.7cmの銅鐸の他に日本最小の3.4cmの銅鐸や水鳥が描かれている銅鐸などが一堂に会し、部屋の展示物はほぼ銅鐸だけです。
充分に銅鐸に堪能し、次は「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」まで足を延ばします。
今回の当初の目的は「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」で仏像を観ることでしたが、すっかり銅鐸に順序が入れ替わってしまっています。
「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」<銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)>
「近江湖南に華開く宗教文化 -野洲・守山の神と仏-」では「益須寺(やすじ)遺跡」「福林寺遺跡」の出土物、仏像8躰、仏画や鰐口、三上神社や兵主神社の神像や棟札や出土物などが展示。
展示されているのは守山市と野洲市の寺院や教育委員会の所蔵品で、仏像は奈良・平安時代を中心に重要文化財も含まれています。
鎌倉期の阿弥陀如来立像は、快慶1派の作品とされていたが、頭部と胸が金色に塗られている。(上のチラシの仏像)
こういう復元にはあまり馴染めないのですが、造像当時はこんな色彩だったのでしょう。
また御上神社の「相撲人形」は相撲神事の雛形として作られたと考えられ、行司と力士を一組として神前に奉納されたものとされ興味深い。
「銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館)」の敷地内には「弥生の森歴史公園」が併設されており、竪穴住居・高床倉庫・古代米の水田などや「宮山二号墳」という石室に入れる円墳も残されている。
先日、大岩山の近隣にある「桜生史跡公園」に訪れた際に甲山・円山・天王山の3つの古墳を巡った帰りに弥生の森を訪れましたが、今回は古墳ではなく、仏像と銅鐸なのでなかなか忙しい。
「銅鐸博物館」の中は、「安土城考古嶽博物館」の特別展示室以上とも思えるくらい銅鐸が並んでいます。
日本最大の大岩山銅鐸の復元品もありましたが、復元+汚しがしてあると素人ゆえに本物の見分けが付きません。
銅鐸の製造方法について動く模型で説明する場所がありましたが、銅鐸の制作工程がよく分かるコーナーでした。
帰りに大岩山銅鐸の出土地に立ち寄ってみます。石碑しかありませんが、よくこんなところで子供が発見したなと関心してしまいます。
銅鐸の時代ごとの変遷を守山弥生遺跡研究会の資料で見ると、弥生時代の中期前半は「出雲」や「摂津」の“聞く銅鐸”が多く、中期後半になると近畿四国の東部へ中心が移動している。
弥生時代の後期になると近畿・東海へ移動していくが、“聞く銅鐸”と“見る銅鐸”が継続しているのは「紀伊」や「近江」となります。
銅鐸の出土数で「近江」は4位となるので、近江は銅鐸文化が盛んだったクニと言えます。
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