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NO-MA美術館では2006年に「快走老人録 ~老ヒテマスマス過激ニナル~」という展覧会でも紹介されたようですが、当時はNO-MA美術館を知らず、林田さんの名前も知りませんでした。
林田さんは1933年に満州で出生され、裕福な上流家庭に育ち、父親の仕事の関係で激動の戦前・戦中・戦後を満州・大連・ハルピン・上海・青島・京城で幼少期を過ごされたという。
林田さんは12年間を大陸で過ごしますが、終戦後に父親が他界したため、引揚船で帰国して母の故郷である北海道で生活を始める。
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北海道の高校を卒業した後は北海道庁に勤務しながら絵を描き、学芸員から「自分の生い立ちを描いたらどうか」と勧められたことで、大戦下の満州などで見た幼年期の記憶を描き続けるようになったという。
林田さんは北海道庁で窓のない地下の印刷室で30年間勤めあげることになりますが、実際は左遷されて周囲から嘲笑されるような扱いであったそうです。
しかし、当の本人は“アートの本が腐るほどあるので印刷の仕事が終わったら「死んだふり」して本を見て勉強してたの。”と語られていたというしたたかさのある人のようです。
(櫛野展正連載29:アウトサイドの隣人たち 「死んだふり」の流儀からの抜粋)
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《八幡港》は12歳で終戦を迎えて帰国した八幡港を描いたもので、丸い船窓の向こうには沈没して沈みつつある船と焼野原、空を飛ぶ飛行機はシンボリックな像と合体しています。
戦時の中国や引き揚げ体験をもとにした作品を制作されるようになったのは46歳の時からだといい、晩年は北海道江別市で暮らし、身近にあるのどかな風景を描かれるようになったようです。
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1階は風景画が多かったのですが、2階の会場では「満州ポップシリーズ」という林田さんの本領発揮とでも言える作品群が所狭しと吊り下げられています。
幼年期の記憶にあるヨーロッパやロシアから流入した文化が異種混合的な社会環境で見た大連やハルビンの光景と、その時の感情を40歳の林田さんが記憶をつなぎ合わせて描かれています。
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《「大人文化」の映像を「シミュレーション」化した「子供文化」の「オリジナルイメージ」化》という長いタイトルの絵は、日本赤十字の看護師さんと銃を持った兵隊さんを描いている。
背景に1917年とあり、第一次世界大戦の最中ですが、林田さんはまだ生まれておらず、幼少期に見た映像の記憶をテーマとしているのでしょうか。
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《第2次上海事変の現場「戦争」被害者の映像(上空を飛ぶ「少女」の身体を「導入」した戦闘機)》と《上海郊外の第2次上海事変》は室内の窓から眺めた光景のようです。
第二次上海事変は1937年8月に始まった中華民国軍と日本軍との軍事衝突のことで、これを機に日中全面戦争に発展したといい、林田さんは4歳の頃にこの光景を記憶したことになります。
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「満州ポップシリーズ」には「レストラン天津飯店」が何度も出てきますので、当時上海にお店があり林田さん家族は利用されていたのかと想像します。
店の中から見える窓の外の光景は、銃を持った兵隊立っており、くり抜かれた空間には足の生えた船のようなものが置かれている。
これには林田さんの“戦争で殺戮兵器を操るのは成人男性であり、女性や子供たちは一方的に巻き込まれていく戦争被害者となっている。”という意志の現れだという。
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同じく「レストラン天津飯店」を描いた作品では、ギター弾きながら歩く2人の男の顔が戦車になっており、その下には銃を構える子供と思われるオブジェがある。
いくつかの作品にはヨーロッパの文化を思わせるポスターなどがコラージュされていて、戦時下にありながらモダーンさを残す上海の光景が連想されてしまいます。
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《満州事変の「テロの現場」》では海の近くの荒涼とした場所に兵隊が立ち、切り抜かれた穴には“日本帝国〇付病院(ハルピン)”の建物があります。
崩壊しつつある病院は泣いているようにも見え、建物からは腕のようなものが伸びているようにも見える。
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「河北福榮閣理髪社」を正面にした町並みはどこの街なのでしょう。下には船と車に乗った何かの生き物の造形があります。
絵には写真がコラージュされているように見え、横には“日本国家でもなし...(ロシア国家)”と書かれ、ロシアの絵と思えるカードが展示されています。
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鮮やかな色彩と異種文化が混合したような「満州ポップシリーズ」とは打って変わって、帰国後の日本を描いた絵は陰鬱で暗いトーンの絵に変わる。
林田さんは終戦に伴い引揚船で八幡港へ帰ってきた後、列車で北上して母の故郷である北海道へ辿り着くのですが、下の絵は北海道の留萌駅で見た女性で、戦争の喪失感からトランプ占いをしていたといいます。
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NO-MA美術館は町屋を改築した美術館で、1階・2階と蔵の中での展示がありますが、蔵の中では「満州ポップシリーズ」より前の時代に描かれていた「人間製造所」「顔のある風景」が展示されています。
作風はシュールな世界を描いたものが多く、林田さんは「絵に描いたような幻覚を見た」と話されていたといい、現実と幻想が混合した世界になっています。
絵のあちこちに人物や人ではないような生き物が潜んでいたり、馬や車輪あるいは人同士が合体し、顔が180°逆の人や機械と合体したりした人がここでは製造されています。
(人間製造所)
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顔のある風景ではゴルゴダの丘を描いた宗教的な印象を受けるシリーズがあります。
戦前・戦争中の大陸の不穏で不安な雰囲気を子供心で感じられていたのでしょうか。
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蔵の中をパノラマで見ると、4面に絵が展示され、明るく映っていますが実際は薄暗く絵だけが浮かび上がって見えます。
林田嶺一さんの名前も作品も初めて知ったのですが、もの凄くインパクトのある展覧会でした。
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