現在の後小路で手前に廿日市鋳物師の墓地がある常国寺と向う側に光明寺が見え、かつて江戸時代にはもう少し西側に西念寺があり寺町通りであった。
大永3年(1523)頃、桜尾城にいた厳島神主家の継承争いで後小路で合戦していることが記されており、この頃すでに町の通りが出来ていたことがわかるのである。
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