原橋本地区にある民家の2階に設けられている肘掛窓で、持ち出し床は板張りで先端部分に装飾手摺が取付けられている。
この民家はもと商家であり古き良き時代に2階座敷の肘掛け窓から外景を眺めていたものであろうか。
時折紹介している廿日市7代目桜島大根の1株を抜いてみたら胴回り80cmで、葉を付けて重さ7.8kgであった。
本場の桜島大根にはとても及ばないが廿日市7代目となっても桜島大根の性質を受け継いでいるものとみられる。残り3株から廿日市8代目桜島大根を目指して種子採取をする予定である。
平良地区の東側に延びている山の尾根筋に江戸期の石州往還道が残っており、子供の頃以来久しぶりに通ってみた。人が通らなくなっても何百年も踏み固められた往還道はしっかりと残っているものだ。
子供の頃廿日市に行くときはこの道が最短距離でありよく通ったものである。また、小学校からの帰りに回り道をしてこの山道を通っていたこともあり、現在では考えられない良き時代であった。
時折宮島SAスマートICへのアクセス道路の拡幅について紹介しているが、高架水槽脇のICゲートに至るS字カーブ部分の工事が進みつつある。
山を削れば土量は沢山あると思ったが現在廿日市駅裏の山土をダンプカー数台で搬入しているようである。
西広島バイパス側道からトンネルをぬけ林道を登って行くと農業用の八ケ迫溜池がある。流入している水はきれいであるが溜池の水は黒い水であり腐植土などから何らかの化学変化をしているのだろうか。
弘法川水系に設けられた溜池で昭和11年(1936)に築造されたもので、かつて灌漑面積は5haであったが、現在流域は原野化と宅地化しているので治水用の溜池と化している。
上平良地区にある速谷神社前郵便局の横道を進んで行くと農業用の速谷溜池がある。現在は上流域が住宅地となっているために生活排水が流入しているようである。
新宮川水系に設けられた溜池で昭和18年(1943)に築造されたもので、かつて灌漑面積は5haであったが、流域は宅地化が進んでおり大幅に減少しているものとみられる。
山陽自動車道側道近くの日比呂山にある高圧線鉄塔をみると鉄柱の外側と内側に鉄線が柵状に張られていた。
この付近の山には猿の群れがおり宮園団地や二重原地区に出没して屋根上や農作物に被害があるので猿による被害防止のために設置されたもののようである。
柱島の金蔵山中腹付近から柱島港と主要集落を俯瞰する。人一人が通れるくらいの坂小路が迷路のように巡っておりそれに面して多くの民家が建て込んでいる。画像左側の山の上に小中学校があるが現在は休校中のようである。かつてこのような大きな校舎で小中学生の声が響いていたのであろうが・・・
船の時間待ちで島中をうろうろしたが高齢者とのら猫には遭遇したが若い人や子供は見かけなかった。
柱島の最高所である金蔵山(290m)山頂にあった柱島聴測照射所の遺構で指揮所、水槽、兵舎跡とみられる遺構が残されている。
ここに空中聴測装置や探照灯、望遠鏡などで呉軍港などの軍事重要施設の防衛援護をしていた施設である。ここの指揮所建物は厳島聴測照射所のものとは少し違った建物であったようである。
昨日岩国新港から柱島に向ったが途中岩国工場地帯の岸壁にむけて大きな貨物船をタグボート3隻で押しているのがみられた。
ここの工場は日本製紙のようで工場内には木材チップが山積みにされており、貨物船は外国から木材チップを運搬して来たものだろうか。
極楽寺への廿日市参道には江戸期廿日市町人の寄進で1丁ごとに里程碑が建立されているが、長い年月の間に見当たらなくなったものがみられる。
里程碑が見当たらない付近には最近手作りの里程表示(樹木に取付)がされており、極楽寺は37丁であるので登山途中の目安になるのである。