一昨日、原川末地区から大沢峠、尾根筋を経て潮見山、七曲り峠に向かう予定であったが、このところの寒さで尾根付近は10数cmの積雪があり尾根道が不明瞭となったので、中電管理道から葛原地区を廻ることになった。
長らくつららなど見たことがなかったが途中の標高450~550m付近ではつららを見ることができた。
昨日紹介した松ケ原大歳神社の拝殿に掲額されている絵馬で上絵馬は玄徳躍馬跳檀渓図で明治15年(1882)11月に奉納されたものである。
下絵馬は明治14年(1881)4月、右絵馬は文久3年(1863)6月に奉納されたものであるが何を題材にしているのかは定かでない。また他に36歌仙額も掲額されているが退色、剥落が激しく何が描かれているのか分からず失われたものもあるようである。
廿日市市市域にある大竹市の飛地松ケ原地区にある松ケ原小学校跡で平成20年(2008)に玖波小学校に統合されて廃校となった。
下画像の地図をみると旧校舎部分が大竹市域でグランドの中央部分から旧校舎の一部が廿日市市市域にあったようである。
原地区を散策していると小さな川沿いの田んぼの石垣にいろんな積み方がみられた。
石垣の右側は昔からある石積みで石を積み上げたままのもので目地には雑草が生えてくるものである。中央部分は石積みが崩れたものとみられ目地にはモルタルがかませてあり時代が経って石の形が分からないようである。
左側は玉石の裏側にコンクリートを打ったもので、少し離れた川沿いのところでも玉石の石垣がみられるので玉石を使用する時代があったものであろう。
県道289号線栗谷大野線の旧道にある和乱治峠付近の道路脇に蛇籠(ジャカゴ)と言われる珍しい石積みがみられた。
蛇籠は金網製のかご状構造物の内部に大きめの採石を中詰めして積み上げた石積みで、昔は竹製の籠を使用していたようである。当ブログ主が若いころ大山の登山道の崩壊を防ぐために設置されていたのを見たことがあるがそれ以来のことである。
昨日紹介した三島神社拝殿には絵馬が掲額されているが吹きさらしのため退色、剥落して何を題材として描いているのかは定かでない。
かすかな紀年銘から上絵馬は明治4年(1871)8月に奉納されており、下絵馬は明治40年(1907)2月に奉納されている。中画像は36歌仙額であるが退色、剥落、破損が激しく残されているものはわずかである。
大向井地区にある三島神社でもと渡の瀬地区の氏神であったが渡の瀬ダム建設のために昭和29年(1954)にこの地に移転再建されたようである。
江戸期には渡瀬村の三島神社に付随する祖父祖母社があったようである。現在、境内に祀られている天王尊の小祠と関わりがあるのかは定かでない。
渡の瀬ダムの水没地区には旧友和村域の渡の瀬住民と旧大野町域の渡の瀬住民が居住していたようであり、現在、同ダムの湖畔には旧大野町の11区集落があり団地内を含めて20数戸が居住されているようである。
旧大野町といえば瀬戸内に迫った山の間の細長い集落のみと思っていたが、渡の瀬ダム湖畔と大竹市松ケ原町の周辺にも旧大野町地籍内の住民が居住しておられるようである。
渡の瀬ダム湖畔に建立されている渡之瀬の碑で、ダム建設のために友和村の飛地であった渡の瀬地区住民は立ち退きを余儀なくされた。各地に離散した旧渡の瀬住民とその血縁者は旧地をしのび平成5年にこの碑を建立している。
この碑には昭和18年(1943)ごろの52戸主名とそれらの血縁者222名の名が刻されている。なお、明治14年(1881)は39戸で人口226人であったようである。
冬季は降水量が少ないために渡の瀬ダムの水位は低く湖岸の砂地が多く現れている。湖面中央付近が旧渡瀬集落の中心地であったものではなかろうか。
小瀬川水系の玖島川(江戸期は峠川と呼ばれていた)に設けられた当ダムは昭和31年(1956)4月に完成したようで、当ブログ主が小学校の遠足か社会見学であったろうか完成したてのダム堰堤を見学したことが思い出される。
昨日紹介した石清水神社の拝殿には多くの絵馬が掲額されているが吹きさらしのため退色、剥離が激しく何を描いているのか分かりづらいものもある。
これらの絵馬の内で万延元年(1860)に奉納された三十六歌仙額の35面が掲額されている。退色、剥離が激しく35面のうち32面の歌人は何とか確認することができるが、3面は確認不能である。
峠地区にある石清水神社で江戸期の地誌には石清水八幡宮とあるが現在石清水神社といわれているようである。
本殿前の幣殿上部には蟇股に相当する部分に雲龍の彫刻がみられ、本殿妻側に大瓶束という円形の束がありその下端部分に結綿といわれる装飾彫刻の獅子頭が刻まれている。