太平洋戦争(第二次世界大戦)が終わった時点で、海外に残された日本人の数は、軍人が約320万人、一般人が約300万人以上という。この600万人以上の人が一日でも早く日本へ帰国できるよう民族の大移動とも言うべき大事業が敗戦の混乱の中で行われ、まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ9港が引揚湾に指定された。
マッカーサーは人道的立場から協力的で、東南アジア、台湾、中国、韓国などからの引き揚げは1946年には9割以上達成された。しかし、ソ連占領下の北朝鮮や満州などでは、引き揚げは遅れた。実際、関東軍70万人のうち、66万人はシベリアに抑留され、強制労働に従事させられることになる。
なお、引揚船は在日中国人・朝鮮人の帰国船ともなり、中国へ3,936人、朝鮮へ29,061人を送還した。
満州から帰国しようとした開拓者らは食糧事情などで途中力尽きた者も少なくない。また子供を中国人に預けざるを得ないこともあり、いまだに残る中国残留日本人孤児の問題となっている。
藤原てい(夫は作家の新田次郎、息子は数学者というより「国家の品格」の著者の藤原正彦)が、子供を連れ満州より引揚げてきた体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』は戦後空前のベストセラーとなった。
舞鶴港はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、昭和25年からは国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果 たした。1958年9月の最終船入港で13年間の海外引き揚げ業務は終了した。
日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。
私が覚えているのは興安丸という引揚船の名前で、「今日も来ました・・・」で始まる「岸壁の母」という歌も覚えている。この歌は、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親を歌ったもので、二葉百合子(300万枚)が歌ったと思っていたが、その前に菊池章子という人が歌ってヒット(100万枚)していたようだ。
舞鶴港の国別引揚者
ソ連 455,952(68%)、中国 191,704(29%)、韓国 14,225(2.1%)、北朝鮮 2,375(0.4%)、他 275(0.1%) 計 664,532人
舞鶴引揚記念館のホームページ
(http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/hikiage_homepage/next.html)を参考にさせていただきました。