戦争中、といってもイラク戦争でも、朝鮮戦争でもなく、アメリカと戦った太平洋戦争中のことだが、主食であるお米が不足して1941、42年からお米は配給制になった。このとき各世帯に配られたのが米穀通帳(べいこくつうちょう)で、正式には米穀配給通帳と言った。
戦後も米穀通帳は続いた。通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋に行っても米が買えない。食堂で米が入っているカレーライスのような料理を注文するには、米を持参するか米穀通帳を提出しなければならない時期もあった。
米穀通帳は、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書かわりの、まさに命の綱の大切なものだったのだ。
食糧管理法という法律があって、個人が直接農家の方からお米を買うことは犯罪だった。しかし、配給だけでは誰もお米が足りないのでやみ米が出回っていた。たしか、裁判官だと思ったが、家族の中で一人、頑固に配給米だけしか食べずに栄養失調で死亡した人が居て、問題になったという記憶がある。
農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいた。かなり年とった小柄なおばさんが百キロはあろうかという山になった荷物を背中にベンチに座っている。電車が入ってくると、少し前かがみになり、スーと立ち上がり、何事もない様に電車に乗る。まさに手練の技だと思った。
ときどき警察の手入れがあり、ずらりと並ばされたおばさんたちと、唐草模様のふろしきに包まれた米の山。しかし、没収されても、もくもくと、翌日の農家へ買出しに出かけるのだ。たくましい時代でもあった。
配給米もやみ米も、質が悪く、新聞紙の上に広げて、混じっている石を拾った。これをやらないと、おいしい白米を食べている途中で、ジャリッと噛んでしまう。父親が、米を入れた一升瓶を両足で抑えて、棒でつついて、ぬかを落としていた光景を思い出す。
しかし、そもそも、米を食べられる日は少なく、スイトンやグリーンピース、サツマイモが主食だった。たまに食べる米もあの細長く、ポソポソした外米が多かった。
やがて正規ルートを通さないやみ米や、自主流通米が増え、1970年代になると米余りの状況に陥ったため、米穀通帳なしでどこでも米が買えるようになり、1981年に廃止された。
こんな時代を経て、今でも私はお茶碗の中の米粒ひとつも残すことはできない。たとえ、ウエストに問題があり、またその時、おなかが悪くとも。
先日、北朝鮮の食料事情のニュースを見た。そこに子供の時の自分が居た。