磯田道史著『武士の家計簿-「加賀藩御算用者」の幕末維新』新潮新書005、2003年4月、新潮社発行、を読んだ。
加賀藩の下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を代々務めた猪山家の約37年間の家計簿(入払帳)や書簡をもとに、武士から明治士族となる下級武士の実際の日常生活を分析している。
当時多くの下級武士と同じく、猪山家も借金が膨大になり、年収の2倍となってしまった。
天保13年(1842年)当主・直之、父・信之は家財を売り払い借金整理し、日常の収支から冠婚葬祭の費用までを詳細に記録する家計簿をつけることにした。こうして饅頭一つ買っても記録した帳面が36年分も残っていたのだ。
猪山家がそれと知らずに残したこの記録から武士の暮らし、習俗、とくに武士身分であることによって生じる祝儀交際費などの「身分費用」に関する項目や、江戸末期の藩の統治システムについて実証的、具体的に知ることができる。
直之の息子、猪山成之も代々の家職である事務処理と計算に優れ、その才能を発揮して、加賀藩の京都守衛諸隊の兵站を仕切った。さらに新政府の軍務官会計方、後に兵部省会計少佑海軍掛、呉鎮守府会計監督部長などを務めることになる。一方、算術を卑しいものと考え、先祖の威光だけに頼る上級武士は徐々に藩の行政から実質的に排除され、変化の激しい幕末から明治になると一気に没落していく。
磯田道史(いそだ みちふみ)
1970年岡山市生れ。
2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。
日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現在、茨城大学准教授。
著書に本書『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など。
私の評価としては、★★★★★(五つ星:是非読みたい)(最大は五つ星)
著者の磯田が2001年に神田神保町の古書店の販売目録にこれらの文書を見つけ、あわてて駆けつけ、入手する経緯が「はしがき」に記されている。まさに長年埋もれていた文書が読まれるべき人を得て、その本当の価値を発揮するようになった。
これまではメモ程度の武士の家計簿しか得られなかった著者はこの膨大な数字が並んだ単なる家計簿から下級武士の実生活、さらには藩の統治システム、幕末から明治の時代の流れを具体的に描いてみせる。
以下、私がなるほどと思った点のメモ。
武士は知行が与えられると、藩主の花押が記された「知行宛行状(判物)」が発行され、それには一応その所在地が書かれているが、江戸時代の武士は現実の領地に行くことはない。とくに微禄の武士は生々しい「土地と人民」をあたえられているという感覚はなく、知行地の行政(勧農、裁判、租率決定)は藩の官僚が肩代わりする。
借金の金利は年18%がもっとも多く、悲惨である。
江戸時代の前期ではおそらく武士が国内総生産の50%近くを取り上げて消費していた。後期になって農業以外の生産が伸びて、25%ほどになったと思われる。
武士同士の交際は、儀礼行事が多く、費用がかさんだ。
宇和島藩士32人で4割の13人が離婚していた。しかも多くはさっさと再婚した。56組も3年で20組が離婚した。したがって、夫と妻の財産は別になっていて、妻は財政的にも実家との絆が強かった。
加賀藩の下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を代々務めた猪山家の約37年間の家計簿(入払帳)や書簡をもとに、武士から明治士族となる下級武士の実際の日常生活を分析している。
当時多くの下級武士と同じく、猪山家も借金が膨大になり、年収の2倍となってしまった。
天保13年(1842年)当主・直之、父・信之は家財を売り払い借金整理し、日常の収支から冠婚葬祭の費用までを詳細に記録する家計簿をつけることにした。こうして饅頭一つ買っても記録した帳面が36年分も残っていたのだ。
猪山家がそれと知らずに残したこの記録から武士の暮らし、習俗、とくに武士身分であることによって生じる祝儀交際費などの「身分費用」に関する項目や、江戸末期の藩の統治システムについて実証的、具体的に知ることができる。
直之の息子、猪山成之も代々の家職である事務処理と計算に優れ、その才能を発揮して、加賀藩の京都守衛諸隊の兵站を仕切った。さらに新政府の軍務官会計方、後に兵部省会計少佑海軍掛、呉鎮守府会計監督部長などを務めることになる。一方、算術を卑しいものと考え、先祖の威光だけに頼る上級武士は徐々に藩の行政から実質的に排除され、変化の激しい幕末から明治になると一気に没落していく。
磯田道史(いそだ みちふみ)
1970年岡山市生れ。
2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。
日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現在、茨城大学准教授。
著書に本書『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など。
私の評価としては、★★★★★(五つ星:是非読みたい)(最大は五つ星)
著者の磯田が2001年に神田神保町の古書店の販売目録にこれらの文書を見つけ、あわてて駆けつけ、入手する経緯が「はしがき」に記されている。まさに長年埋もれていた文書が読まれるべき人を得て、その本当の価値を発揮するようになった。
これまではメモ程度の武士の家計簿しか得られなかった著者はこの膨大な数字が並んだ単なる家計簿から下級武士の実生活、さらには藩の統治システム、幕末から明治の時代の流れを具体的に描いてみせる。
以下、私がなるほどと思った点のメモ。
武士は知行が与えられると、藩主の花押が記された「知行宛行状(判物)」が発行され、それには一応その所在地が書かれているが、江戸時代の武士は現実の領地に行くことはない。とくに微禄の武士は生々しい「土地と人民」をあたえられているという感覚はなく、知行地の行政(勧農、裁判、租率決定)は藩の官僚が肩代わりする。
微禄の武士が江戸詰めを命じられると国元との二重生活で家計は悲惨の極みになる。・・・武士の世界で禄高を決定する主役は、「由緒」であって「現職」は脇役にすぎなかった。現在でなく過去が給与をきめていたのである。
借金の金利は年18%がもっとも多く、悲惨である。
江戸時代の前期ではおそらく武士が国内総生産の50%近くを取り上げて消費していた。後期になって農業以外の生産が伸びて、25%ほどになったと思われる。
武士同士の交際は、儀礼行事が多く、費用がかさんだ。
宇和島藩士32人で4割の13人が離婚していた。しかも多くはさっさと再婚した。56組も3年で20組が離婚した。したがって、夫と妻の財産は別になっていて、妻は財政的にも実家との絆が強かった。
明治新政府は革命家の寄り合い所帯であり、実務官僚がいない。例えば、1万人の軍隊を30日間行軍させると、ワラジはいくら磨り減って何足必要になり、いくら費用がかかるのか、といった計算が出来る人材がいないのである。
そこで日本最大の大名行列の兵站業務を担ってきた加賀藩の猪山成之が抜擢された。
そこで日本最大の大名行列の兵站業務を担ってきた加賀藩の猪山成之が抜擢された。
教育して官僚・軍人にして身を立てさせる。とくに、明治初年の士族はこの教育エネルギーが絶頂に達していた。日露戦争を実質的に担った年齢層の将校達は、多かれ少なかれ、江戸時代の生き残りの父や祖父から、このような教育を受けて育っていた。この士族の家庭教育は、日露戦争の勝利に欠かせない要素となったが、その後の日本社会の針路に大きな弊害をもたらしたのも事実である。