竹石松次著『これが戦争の実態~七十五年目の戦争実録~ 歩兵第二一五連隊・竹石三男中隊長の壮絶な記録 中国・ミャンマー・シンガポール』(2022年9月5日東洋出版株式会社発行)を読んだ。
2008年に94歳で亡くなった竹石三男さんが書き留めていた戦争の実態、実働部隊体験の克明なメモや日記、写真などの資料が見つかった。三男さんの娘さんからこの資料を託された甥の新潟放送(BSN)顧問・竹石松次さんが本書にまとめた。
松次さんの叔父・竹石三男さんは1914年に新潟市で生まれ、1935年に歩兵第16連隊(新発田)に入隊。1939年に歩兵第215連隊中隊長となった。この間、中国本土、ビルマ、シンガポールで実働部隊として従軍した。
中国戦線で、敵に協力していた集落の女子供が機関銃掃射を受けて殺された光景を見て、
戦争にも限度がある。
仮に敵であっても、私は老人、婦女、赤子は殺せない。私はこれを強制されるならば(従わないであろう。従わなかった場合)、将校失格であろう、それでもよい。
「アブナイ」といって右手で私の左肩を突いたので、私は思わずレンガの壁の影に飛ばされた。同時に曹長は胸部を貫通されて即死。
私は最近着任したばかりの予備少尉に攻撃を命じた。……「私はこの攻撃に自信はありません」とうなだれた。…「…この攻撃で君は死なんよ。なんとかやってみなさい。…」。そばにいた分隊長と兵士が「小隊長殿やりましょう、私どもが先に攻撃しますから大丈夫です、安心してください」と言い、ようやく……。
ビルマ進攻作戦の一貫であるプルーム夜襲戦
我等皇軍将兵はいかなる困難をも突破して皇国守護の大任を貫遂するのである。我等は今から、只今から軍旗の高栄のもとに勇躍死地に赴くことが出来るのだ。
弱き民族ビルマは哀れ英国の奴隷として苦難の道に引き入れられたのであった。……新興日本の前に敵無く皇道の前に悪の栄なし、今こそ宿敵米英を撃破して、東亜人の東亜、日本を盟主とする東亜共栄圏確立に……。
物質万能の敵軍は戦場においては、家にあるがごとき食物を執り機械化と称して歩かずに戦う火力に頼って肉弾を知らないのである。
1942年のビルマ中部の街、プロームでの夜襲戦については、そのむごさなど当時の様子を細かく記している。部下の多くを失い、中隊長として指揮していた三男さんも負傷し、野戦病院行きになった。
(捕虜に対し)「従順なれば生命は安全である」と彼等を安心させた。突然、私の脇にいた敵兵が逃亡した。軍刀の鞘を払って彼の背後から斬撃した。白刃は月光花に冴えて、敵の右肩から首にかけ鋭く喰い込んでいた。かすかなうめきがした。四、五名の兵士が期せずして一勢に、その敵を刺突した。敵兵は黒い血に染まって斃れてしまった。……この殺戮は一同の志気を鼓舞するに十分であった。私は紙を出して赤く染まった刀刃を静かに拭った。
病院に入っていた三男さんは、多くの死者を出したインパール作戦への参戦を免れ、奇跡的に日本への生還を果たした。1947年12月、長崎・佐世保に復員。その後、団体職員を経て2008年に94歳でその生涯を終えました。
「TBS NEWS DIG」に本書の概要、多くの写真が載っていて、BSN(新潟放送)のTV放送も見られる。
私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め、 最大は五つ星)
銃撃から自分を助けてくれた兵士がそのまま撃たれて死亡したり、後には自分自身も重傷を負ったり、戦場の生の姿が描かれている。逃げる捕虜を切り殺した描写もある。生々しい戦いの具体的描写が続くこのような手記は珍しいのではないだろうか。
当時の人としては冷静、理性的で、アジアの住民にもある程度の理解があった三男さんも、皇国の兵士として欧米を憎み、大東亜共栄圏を信じ、合理的な機械化を否定して肉弾を信じていたことに驚かされる。
目次
第1章 参戦の記録
第2章 中国・武昌上陸
第3章 蒋介石の冬季攻勢・小嶺の戦闘
第4章 ビルマ・ラングーン入城
第5章 ビルマ進攻・シュエダンの夜襲
第6章 プローム夜襲戦
第7章 南方軍の戦争終結と最後の引揚船の奇蹟
第8章 耳に残った言葉
用語解説・軍歴・写真・参考地図
竹石松次(たけいし・まつじ)
1943年新潟市生まれ。法政大学社会学部卒、新潟放送社長、会長を歴任、現在顧問、その他新潟日報社監査役など。