現在の将棋界で、若い女性に最も人気がある棋士は誰か。それは羽生善治三冠でも渡辺明竜王でもなく、桐谷広人七段である。もしステージに棋士が登場したら、桐谷七段にいちばん声援が飛ぶ。
桐谷七段は昨年から、フジテレビ系「うもれびと」「笑っていいとも!」、日本テレビ系「月曜から夜ふかし」と立て続けにテレビ出演し、お茶の間に笑いを提供している。
その中身はほとんど同じで、桐谷七段のライフワークである「株」の、「株主優待券」を消費するさまにスポットを当てている。
その使い方が一種ストイックで、そこに桐谷七段の「キモカワ」というか、まあ特異な風貌が相まって、えも言われぬおかしさを醸し出している。
ただしこの嚆矢は、2006年に放送されたNHKのテレビ番組にあり、ここで登場した桐谷七段は、すでに株主優待の有用性を説いていた。
あらためて桐谷広人(ひろと)七段は、1949年10月15日、広島県竹原市生まれの63歳。升田幸三実力制第四代名人門下。1975年7月、四段昇段。
高校時代は、県内一の秀才と言われ、知能指数は200を越えていた。
現役時代は、局面の一部分を見ただけで、いついつの誰と誰の対局、と間髪入れず答え、「コンピューター桐谷」と呼ばれた。
棋風は「受け」。相手の攻めに丁寧に面倒を見る指し方は「桐谷マッサージ」と呼ばれた。
日本将棋連盟機関誌「将棋マガジン」の、河口俊彦七段による「対局日誌」では、桐谷七段は常連のごとく登場していた。しかしある号で桐谷七段のポカを紹介したところ、桐谷七段が激怒。同誌に反論文を載せたこともあった。
しかし河口七段に他意はなく、むしろ河口七段は桐谷七段を「当欄のスター」と呼んでいた。
著書もいくつかあり、1986年に現マイナビから上梓した「これが矢倉だ」シリーズは名著。ただ、当時はヒラの五段(失礼)の著作では売れ行きに不安があると見たか、米長邦雄永世棋聖が推薦文を寄せていた。もっともそれは、「プロは定跡を覚えたから勝てるといわけではないが、アマはそれで十分勝率が上がる」みたいな記述で、暗に桐谷七段の将棋を否定するニュアンスがあったように記憶する。
1995年に上梓した「歩の玉手箱」は2003年に文庫化。これは私も購入したが、トッププロから女流の将棋までを万遍なく題材に取り、その精力的な取材に感心したものだった。
しかし肝心の対局では勝ち星に恵まれず、竜王戦では昇級があったものの、順位戦ではついぞ昇級することはなかった。2007年3月引退。
桐谷七段の人気の秘密を、あらためて考えてみる。株主優待券の利用だけで生活する、といういままでにないライフスタイルを提供した、特異なキャラ、ということはあるが、それだけでは女性から人気が出ない。
その人気の秘密は、桐谷七段が誰にも媚びず、自分の行きたい道をひた走っているからではないだろうか。これは、やはり最近テレビ出演づいている、加藤一二三九段にも同じことがいえる。時代が、桐谷七段と加藤九段に追いついたのだ。
現在の桐谷七段の人気を見て、泉下の米長永世棋聖はどう思っているだろう。聞いてみたいものである。
桐谷七段と私は、似ているところがある。むかし好きになった女性をいまも追い駆けている、行動が怪しい、いい歳をして未婚、などがそうだ。桐谷七段は年賀状にも特徴があり、けっこうビッシリ文言が書いてあるらしい。私もけっこうビッシリ書くほうで、これなんかも似ている。
いま私は、桐谷七段に将棋を教えてもらいたい。ウソ。いろいろ話が聞きたい。これは桐谷七段に人気が出たからいうのではなく、以前から欲していたことだ。
もっとも桐谷七段は、むかしLPSA駒込サロンに顔を見せたことがある。もちろん愛車(自転車)での来館だった。私が入るとW氏とふたりきりの雑談を終えたところで、
「いやあ、おもしろかった。あなたとはまたお話したい」
と桐谷七段は満足そうだった。私は桐谷七段とオトモダチになりたかったので、このときはホントに、W氏を羨ましく思った。
このとき藤森奈津子女流四段が、「またいらしてください」と顔をひきつらせながらお願いしていたが、以後桐谷七段がサロンに見えた形跡はない。
現在桐谷七段は多忙である。私は大野八一雄七段に「大野教室」への特別講師をお願いしたものの、まず無理であろう。次にお会いできるのはいつになるか。私は楽しみにしている。
桐谷七段は昨年から、フジテレビ系「うもれびと」「笑っていいとも!」、日本テレビ系「月曜から夜ふかし」と立て続けにテレビ出演し、お茶の間に笑いを提供している。
その中身はほとんど同じで、桐谷七段のライフワークである「株」の、「株主優待券」を消費するさまにスポットを当てている。
その使い方が一種ストイックで、そこに桐谷七段の「キモカワ」というか、まあ特異な風貌が相まって、えも言われぬおかしさを醸し出している。
ただしこの嚆矢は、2006年に放送されたNHKのテレビ番組にあり、ここで登場した桐谷七段は、すでに株主優待の有用性を説いていた。
あらためて桐谷広人(ひろと)七段は、1949年10月15日、広島県竹原市生まれの63歳。升田幸三実力制第四代名人門下。1975年7月、四段昇段。
高校時代は、県内一の秀才と言われ、知能指数は200を越えていた。
現役時代は、局面の一部分を見ただけで、いついつの誰と誰の対局、と間髪入れず答え、「コンピューター桐谷」と呼ばれた。
棋風は「受け」。相手の攻めに丁寧に面倒を見る指し方は「桐谷マッサージ」と呼ばれた。
日本将棋連盟機関誌「将棋マガジン」の、河口俊彦七段による「対局日誌」では、桐谷七段は常連のごとく登場していた。しかしある号で桐谷七段のポカを紹介したところ、桐谷七段が激怒。同誌に反論文を載せたこともあった。
しかし河口七段に他意はなく、むしろ河口七段は桐谷七段を「当欄のスター」と呼んでいた。
著書もいくつかあり、1986年に現マイナビから上梓した「これが矢倉だ」シリーズは名著。ただ、当時はヒラの五段(失礼)の著作では売れ行きに不安があると見たか、米長邦雄永世棋聖が推薦文を寄せていた。もっともそれは、「プロは定跡を覚えたから勝てるといわけではないが、アマはそれで十分勝率が上がる」みたいな記述で、暗に桐谷七段の将棋を否定するニュアンスがあったように記憶する。
1995年に上梓した「歩の玉手箱」は2003年に文庫化。これは私も購入したが、トッププロから女流の将棋までを万遍なく題材に取り、その精力的な取材に感心したものだった。
しかし肝心の対局では勝ち星に恵まれず、竜王戦では昇級があったものの、順位戦ではついぞ昇級することはなかった。2007年3月引退。
桐谷七段の人気の秘密を、あらためて考えてみる。株主優待券の利用だけで生活する、といういままでにないライフスタイルを提供した、特異なキャラ、ということはあるが、それだけでは女性から人気が出ない。
その人気の秘密は、桐谷七段が誰にも媚びず、自分の行きたい道をひた走っているからではないだろうか。これは、やはり最近テレビ出演づいている、加藤一二三九段にも同じことがいえる。時代が、桐谷七段と加藤九段に追いついたのだ。
現在の桐谷七段の人気を見て、泉下の米長永世棋聖はどう思っているだろう。聞いてみたいものである。
桐谷七段と私は、似ているところがある。むかし好きになった女性をいまも追い駆けている、行動が怪しい、いい歳をして未婚、などがそうだ。桐谷七段は年賀状にも特徴があり、けっこうビッシリ文言が書いてあるらしい。私もけっこうビッシリ書くほうで、これなんかも似ている。
いま私は、桐谷七段に将棋を教えてもらいたい。ウソ。いろいろ話が聞きたい。これは桐谷七段に人気が出たからいうのではなく、以前から欲していたことだ。
もっとも桐谷七段は、むかしLPSA駒込サロンに顔を見せたことがある。もちろん愛車(自転車)での来館だった。私が入るとW氏とふたりきりの雑談を終えたところで、
「いやあ、おもしろかった。あなたとはまたお話したい」
と桐谷七段は満足そうだった。私は桐谷七段とオトモダチになりたかったので、このときはホントに、W氏を羨ましく思った。
このとき藤森奈津子女流四段が、「またいらしてください」と顔をひきつらせながらお願いしていたが、以後桐谷七段がサロンに見えた形跡はない。
現在桐谷七段は多忙である。私は大野八一雄七段に「大野教室」への特別講師をお願いしたものの、まず無理であろう。次にお会いできるのはいつになるか。私は楽しみにしている。