昨日17日(金)は地元の区の検診があったのだが、準備万端で臨んだにもかかわらず、問診においてバリウム検査は見送りとなった。
昨年バリウムを飲んだところ再検査になり、近くの病院で胃カメラを飲んだら、ポリープが確認された。ポリープは自然消滅しないだろうから、今年もバリウムを飲めば再検査になる理屈だった。確かにそれなら、今回バリウムを飲んでもしょうがない。
それで肺検診をするに留まったのだが、自分だけ検診着に着替えずバリウムを飲まないのは、特別扱いというか疎外された気がして、たいそう虚しかった。
◇
4日(土)に大野教室に行った時、スタッフのW氏から、18日の子供教室の臨時講師を頼まれた。しかし今日18日は、私の誕生日である。こういう特別の日は、自宅で静かに過ごしたいと思い、丁重にお断りした。
W氏は佐藤氏に代打を頼み、佐藤氏が快諾してその場は何とか収まった。佐藤氏には申し訳ないことをしたが、考えてみれば、自分の誕生日にちびっ子諸君と触れあい元気をもらうのもひとつの手で、この選択もあったかもしれない。
…というわけで、今日は改めて、私の誕生日である。その齢を考えると気が滅入るが、もうどうにでもなれという気持ちだ。
私は風貌が増田裕司六段に似ていると思っていて、昨年はご本人に確認する機会にも恵まれた。回答は「そう思う」で、私の錯覚でないことが証明された。
では私の声は誰に似ているのか。先日の大野教室で、私の声を「江川卓に似ている」という人がいた。するとそれに賛同する人も出てきて、私は苦笑するよりなかった。
実は私の声が江川に似ていると言われたのは、今回が初めてではない。私がサラリーマン時代にも言われたことがあるし、私自身、その話し方が似ていると思ったこともある。
改めて江川卓は、1955年5月25日、福島県生まれの61歳。幼少時から野球に親しみ、高校時代はノーヒットノーランや完全試合を何度も達成し、「怪物クン」の異名を取った。
1978年オフ、巨人に入団。1年目(79年)は9勝10敗でパッとしなかったが、翌80年は16勝、81年は20勝、82年は19勝を挙げ、ことに81年は球団日本一に大きく貢献した。
中でも印象深いのは日本ハムファイターズと戦った日本シリーズ第6戦である。この試合に先発した江川は9回まで3点を取られたもののリードを保ち、9回もツーアウト、バッターに五十嵐信一を迎えた。
ここで江川は考えた。日本一のウイニングボールをこの手で捕りたい、と。しかし投手が最後のボールを補球するのは、ファーストゴロでピッチャーがベースカバーに入るか、ズバリ、ピッチャーフライしかない。五十嵐は右打ちである。そこで、内角の速球で詰まらせれば、ピッチャー付近に打ち上げるかもしれないと考えたのだ。
五十嵐の打球は果たして詰まり、ピッチャー付近に打ち上げた。江川は右手を高く上げて「俺が捕る!」のポーズ。しっかりキャッチし、ここに巨人8年振りの日本一が決まったのだった。打者の凡打をイメージして実際に討ち取る。何という天才であろうか。江川卓、生涯最高の日であった。
江川を語るうえでもうひとつ忘れられない一球がある。1984年7月24日のオールスター第3戦だ。この試合で4回から登板した江川は、福本豊(阪急)、蓑田浩二(阪急)、ブーマー・ウェルズ(阪急)、栗橋茂(近鉄)、落合博満(ロッテ)、石毛宏典(西武)、伊東勤(西武)、トミー・クルーズ(日本ハム)と立て続けに三振を奪い、1971年に江夏豊(阪神)が達成した9連続奪三振の記録にあと1と迫っていた。
最後のバッターは大石大二郎(近鉄)。1、2球目とストレートでストライクを取り、三振まであと1球となった。
セ・リーグのベンチを見ると、「優勝まであと1球」の雰囲気で、今にもベンチから飛び出しそうである。大石はと見れば、ガチガチに固くなって、とてもバットに当たりそうにない。
これは真ん中高めに速球のボール球をほうれば、大石は空振りしそうに思う。私は江川の9連続三振を疑わなかった。
ところが江川の投じた3球目は、外角へのカーブ。大石はバットを合わせ、セカンドゴロになったのだった。
この時の周りの落胆を何と表現したらいいのだろう。球場全体がどよめき、試合が終了した雰囲気だった。
ちなみに江川卓著「たかが江川 されど江川」(新潮文庫)によると、捕手・中尾孝義(中日)のサインは「カーブをボールに」だったが、内側に甘く入ってしまったらしい。もっともカーブは江川も同意見だったそうで、それなら周りがどうこう言っても始まらない。
また江川は、記録が8連続三振で終わったことを、「実を言えば、悔しさもショックもなかった」と述懐している。この欲のなさが、江川らしいともいえる。
1987年、江川は惜しまれつつ現役を引退した。
現在江川は61歳。巨人の監督が辞任するたび、監督待望論が起こったが、最近はその声も薄れてきたようである。
昨年バリウムを飲んだところ再検査になり、近くの病院で胃カメラを飲んだら、ポリープが確認された。ポリープは自然消滅しないだろうから、今年もバリウムを飲めば再検査になる理屈だった。確かにそれなら、今回バリウムを飲んでもしょうがない。
それで肺検診をするに留まったのだが、自分だけ検診着に着替えずバリウムを飲まないのは、特別扱いというか疎外された気がして、たいそう虚しかった。
◇
4日(土)に大野教室に行った時、スタッフのW氏から、18日の子供教室の臨時講師を頼まれた。しかし今日18日は、私の誕生日である。こういう特別の日は、自宅で静かに過ごしたいと思い、丁重にお断りした。
W氏は佐藤氏に代打を頼み、佐藤氏が快諾してその場は何とか収まった。佐藤氏には申し訳ないことをしたが、考えてみれば、自分の誕生日にちびっ子諸君と触れあい元気をもらうのもひとつの手で、この選択もあったかもしれない。
…というわけで、今日は改めて、私の誕生日である。その齢を考えると気が滅入るが、もうどうにでもなれという気持ちだ。
私は風貌が増田裕司六段に似ていると思っていて、昨年はご本人に確認する機会にも恵まれた。回答は「そう思う」で、私の錯覚でないことが証明された。
では私の声は誰に似ているのか。先日の大野教室で、私の声を「江川卓に似ている」という人がいた。するとそれに賛同する人も出てきて、私は苦笑するよりなかった。
実は私の声が江川に似ていると言われたのは、今回が初めてではない。私がサラリーマン時代にも言われたことがあるし、私自身、その話し方が似ていると思ったこともある。
改めて江川卓は、1955年5月25日、福島県生まれの61歳。幼少時から野球に親しみ、高校時代はノーヒットノーランや完全試合を何度も達成し、「怪物クン」の異名を取った。
1978年オフ、巨人に入団。1年目(79年)は9勝10敗でパッとしなかったが、翌80年は16勝、81年は20勝、82年は19勝を挙げ、ことに81年は球団日本一に大きく貢献した。
中でも印象深いのは日本ハムファイターズと戦った日本シリーズ第6戦である。この試合に先発した江川は9回まで3点を取られたもののリードを保ち、9回もツーアウト、バッターに五十嵐信一を迎えた。
ここで江川は考えた。日本一のウイニングボールをこの手で捕りたい、と。しかし投手が最後のボールを補球するのは、ファーストゴロでピッチャーがベースカバーに入るか、ズバリ、ピッチャーフライしかない。五十嵐は右打ちである。そこで、内角の速球で詰まらせれば、ピッチャー付近に打ち上げるかもしれないと考えたのだ。
五十嵐の打球は果たして詰まり、ピッチャー付近に打ち上げた。江川は右手を高く上げて「俺が捕る!」のポーズ。しっかりキャッチし、ここに巨人8年振りの日本一が決まったのだった。打者の凡打をイメージして実際に討ち取る。何という天才であろうか。江川卓、生涯最高の日であった。
江川を語るうえでもうひとつ忘れられない一球がある。1984年7月24日のオールスター第3戦だ。この試合で4回から登板した江川は、福本豊(阪急)、蓑田浩二(阪急)、ブーマー・ウェルズ(阪急)、栗橋茂(近鉄)、落合博満(ロッテ)、石毛宏典(西武)、伊東勤(西武)、トミー・クルーズ(日本ハム)と立て続けに三振を奪い、1971年に江夏豊(阪神)が達成した9連続奪三振の記録にあと1と迫っていた。
最後のバッターは大石大二郎(近鉄)。1、2球目とストレートでストライクを取り、三振まであと1球となった。
セ・リーグのベンチを見ると、「優勝まであと1球」の雰囲気で、今にもベンチから飛び出しそうである。大石はと見れば、ガチガチに固くなって、とてもバットに当たりそうにない。
これは真ん中高めに速球のボール球をほうれば、大石は空振りしそうに思う。私は江川の9連続三振を疑わなかった。
ところが江川の投じた3球目は、外角へのカーブ。大石はバットを合わせ、セカンドゴロになったのだった。
この時の周りの落胆を何と表現したらいいのだろう。球場全体がどよめき、試合が終了した雰囲気だった。
ちなみに江川卓著「たかが江川 されど江川」(新潮文庫)によると、捕手・中尾孝義(中日)のサインは「カーブをボールに」だったが、内側に甘く入ってしまったらしい。もっともカーブは江川も同意見だったそうで、それなら周りがどうこう言っても始まらない。
また江川は、記録が8連続三振で終わったことを、「実を言えば、悔しさもショックもなかった」と述懐している。この欲のなさが、江川らしいともいえる。
1987年、江川は惜しまれつつ現役を引退した。
現在江川は61歳。巨人の監督が辞任するたび、監督待望論が起こったが、最近はその声も薄れてきたようである。