一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

最近見た夢(09-24、25、26、10-04、10、16)

2024-10-16 12:18:46 | 
最近見た夢を記しておこう。
24日は何度か小便で起きたのだが、その間に見た夢である。
私は旅行をしていて、最西端の駅に行った。その駅は崖にあったのだが、駅舎はなかった。たぶん、地下に埋もれていたのだろう。
場面変わって、私はワゴン車に乗っていた。ある観光地があり、そこで一時下車したい人はするシステムだった。
その観光地は、ふつうの道に天使の像があった。私は何度か訪れていたが、以前はもっと道が狭かったと思う。現在は拡張され、見やすくなっていた。
いっしょにワゴンから降りた青年がいたので彼にそのことを言ったが、彼はなんと答えたか、分からなかった。

つづいて25日に見た夢。
「ゆうひが丘の総理大臣」のロケをやっており、中村雅俊とその生徒が、バイクに乗り、いましも走り出すところだった。生徒の一人に、なぜか国分太一がいた。

つづいて26日に見た夢。
あるイベントがあり、2人の女性がこちらに来た。これからアーティストのライブがあるのだが、誰が出るか楽しみにしたいので、2人は、それまで調べないようにしている、といった。
だが私はパンフレットを持っている。そこには出演アーティストが書いてあるので、知らせたくなってしまった。
中を見ると、「GLAY」とあったので、彼女らに教えてしまった。
場面変わって、小公園でもイベントが行われていた。将棋盤は合計3面置かれ、いくつかの小皿には、サイコロが4つずつ入っていた。チンチロリンでもやるのだろうか。
将棋コーナーでは、植山悦行七段が青年に指導対局を行っていた。なぜ植山七段が出てきたか。25日の記事で書いたので、その記憶が映像化されたのだろう。

つづいて、たしか10月4日に見た夢。
私は風呂の排水溝の、丸い目皿めがけて、小便をしていた。目皿の手前半分に横から小便をかけたあと、奥の半分にも、小便をかけた。
あぶない。こんな夢を見て寝小便をしたら、シャレにならない。

つづいて10日に見た夢。
私は有志と研修旅行に出ていた。陸上競技場のトラックのような形状の高台に、新たなレールが設置されているところだった。千葉県で新線が建設中なのだ。レールの内側は池だか湖になっていて、私たちはその地点から見ていた。
私たちはその近場で食事と土産物を買うことになった。行動は2人一組で、食事の場面を仲間に見られてはいけないというルールがあった。食事はひとり1,000円以内である。
と、しゃがんでいる男性が振りむいた。
「オッペ!」
小・中学生のときに同級生だった佐藤である。対して親しくなかったが、なぜ彼が出てきたのか分からない。
さて食事である。私の相方はA氏だった気もするが、元同僚の須賀氏だった気もする。
ある土産物屋の内部には小さな座敷があり、そこで食事が摂れるようになっていた。外からはカーテンで隠れているので、誰にもバレない。
しかし私たちは保留した。すると、別の女子グループと会った。私たちは、すぐに食事処に入らなかったことを後悔した。

このあと、12日は織田裕二、14日は菜々緒が夢に出てきたのだが、はっきりしない。

そして16日に見た夢。
自宅の狭い2階に、弟やめいがやってきて、みんなで賑やかにテレビを見ていた。
私はどこかに旅行に行く予定だったのだが、その映画が面白く、全部見終えたときには深夜の
2時半を過ぎていた。どうも、福山雅治が出ていた気がする。
そこから私はクルマで行くのか知らないが、本当に家を出なければならなかった。
ところが、続けて見たテレビ映画がまた面白かった。数百メートルにおよぶ断崖絶壁があり、その先は海岸だった。崖の上にいた人物が海岸に向かって降下する。それは私だった気もするのだが、よく分からない。
そこで尿意で目が覚め、寝直して、また夢を見た。
私ともうひとりで、ある研究者だか医者の家にいった。ある患者が苦しんでおり、その助を求めるためだった。
博士―小林薫のイメージだった―は研究室にこもる。夢なのにだいぶ長い時間がかかった。
すると博士は注射器を作ってきた。いまの時代は昭和初期で、この注射器が画期的な発明になったらしい。
そして、ある液体を見せた。これは胃の中に常駐する液体で、これでヒトの病気を治すという。
博士はチューブのようなものを胃の中に何度も挿れ、その液を採取していた。それがある程度たまり、患者に注入することができるようになったのだった。

この辺でアップしておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第5期白玲戦・女流順位戦の白玲挑戦者および、昇級者予想

2024-10-15 23:34:06 | 勝敗予想
現在、第4期白玲戦七番勝負が激闘中だが、あす16日から、第5期白玲戦・女流順位戦が開幕する。
そこで、当ブログ恒例の、白玲挑戦者および昇級者の予想をする。なお降級者の予想は、今年もしない。

🔳A級🔳
福間香奈女流五冠or西山朋佳白玲

A級は参加10名。白玲挑戦者は、福間女流五冠か西山白玲、すなわち今期の七番勝負敗者で決まりである。女流順位戦はトーナメントと違い、1敗してもまだ大丈夫。相当プレーオフになる確率が高いので、そこで勝てる。前期の女流名人戦がいい例である。つまりそのくらい、この2名と他者との実力は離れている。

🔳B級🔳
④中井広恵女流六段*、⑩加藤結李愛女流二段

B級は参加10名。なかなか予想が難しく、前期降級の渡部愛女流三段、強いんだか弱いんだか分からない千葉涼子女流四段に食指が動くが、中井女流六段は挙げないとしょうがないだろう。ただ、以前ほどの信用はない。
もう1名は加藤女流二段とする。加藤女流二段は将棋に真摯に取り組んでいる姿勢がいい。連続昇級は十分ある。

🔳C級🔳
④内山あや女流初段、⑧室谷由紀女流三段、⑮大島綾華女流二段

C級は参加20名。ここから8局になるので、組み合わせに運不運が生じる。でも、内山女流初段、大島女流二段はすぐに挙がった。私はふたりの実力を買っているのである。ただ、ふたりが7回戦で当たっているのが微妙だ。この敗者が脱落する可能性はある。
残り1名は相当迷った。山口恵梨子女流三段を考えたが、5回戦の内山女流初段戦で敗れると思った。
それで、室谷女流三段とした。室谷女流三段は休場明けにまとめて指すことになるが、休場中の棋力の減退はないと思う。

🔳D級🔳
⑤今井絢女流初段、⑦磯谷祐維女流初段※、⑫木村朱里女流初段、㉑竹部さゆり女流四段

D級は3名休場で参加34名。元奨励会1級の今井女流初段は、上がらないとしょうがない。
磯谷女流初段の昇級も固い。磯谷女流初段は根性があるのだ。
あとの2名ちょっと分からないが、勘で木村女流初段、竹部女流四段とした。

女流順位戦が指せるのは女流棋士冥利につきる。皆さま頑張ってください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長嶋茂雄、現役引退50年

2024-10-14 23:32:35 | プライベート
きょう10月14日は何の日か。鉄道ファンなら「鉄道の日」、食通なら「焼きうどんの日」というだろう。
そして、コアな野球ファンなら、「長嶋茂雄が現役を引退した日」となる。
「長嶋茂雄」の説明は必要あるまい。国民栄誉賞も受賞した、日本のプロ野球界を代表するスーパースターである。きょうはその長嶋茂雄が1974年10月14日に引退試合を行ってから、50年になるのだ。
長嶋は佐倉一高から立教大学に進学し、六大学野球で活躍した。8ホームランの新記録(当時)をひっさげ、1957年、巨人に入団した。
デビューは1958年4月5日の開幕戦・国鉄スワローズ戦。だが、国鉄のエース・金田正一の前に4打席4三振。別の意味で、鮮烈なデビューとなった。
だがそれから長嶋は打ちまくった。1年を終え、29本塁打、92打点、打率.305。本塁打と打点の二冠王になり、打率も2位だった。今年の大谷翔平みたいなものである。惜しかったのは本塁打で、もし30本を達成していれば、打率、盗塁37とともに、「トリプルスリー」を達成していた。
だが長嶋は、実際は30本塁打を打っていた。9月26日の広島カープ戦で28号を打ったのだが、1塁ベースを踏み忘れ、幻となった。このチョンボも長嶋らしい。
長嶋の人気の秘密は、1959年6月25日、天覧試合でのサヨナラホーマーに代表されるように、ここぞという場面で、ヒットを打ってくれることたった。
そして、ファンへの徹底したショーマンシップがあった。
長嶋はヘルメットを一回り大きめにしていた。それだと空振りしたときヘルメットが飛び、観衆が湧くからである。
サードでの守備範囲も広く、ショートまで侵食するのは当たり前。ショート正面のゴロは横から飛び出し、軽く捌いた。
ピッチャー横も守備範囲で、ボテボテのゴロは「オレが捕る!」とばかり捌く。ファーストにスローイングした右手の薬指と小指がピクピク動き、その姿に観客は熱狂した。
その反対に、フライの捕球はあまり興味を示さなかった。フライは捕るだけで、見せ場がないからである。だから平凡なフライは、ショートの黒江透修に任せていた。
また、巨人が大差で勝っているときにゴロが飛んでくると、わざとトンネルをし、観客を楽しませた。
こうして長嶋は、王貞治とともに、昭和40年代の巨人常勝の立役者となった。
だがそんな長嶋にも、体力の限界がやってくる。1971年は打率.320で6度目の首位打者を獲ったが、72年は.266、73年は.269と、徐々に成績が落ちて行った。
そんな秋の日、長嶋は川上哲治監督に呼ばれた。
「長嶋、私は今年で監督を辞める。お前は今年で現役を辞め、来年は監督をやれ」
そう、川上はおもむろに切り出した。
だが長嶋は
「地位も名誉も要りません、あと1年、1年だけ現役をやらせてください」
と頼みこんだ。川上も了承し、こうして長嶋の1974年が始まった。
だが長嶋は調子がパッとしない。6月にはついに先発メンバーから外れ、ときには1番を打つことにもあった。調子が上向いてきたときも、使ってもらえないときがあった。長嶋と川上との関係が、なんとなくギクシャクしていた。
実は長嶋は、あと2~3年は現役を続けるつもりでいた。しかしこの成績ではもうダメである。夏頃には、今年限りでの引退を決めていた。
10月12日、ナゴヤ球場で中日ドラゴンズが優勝を決め、巨人のV10はなくなった。同日、長嶋が現役引退を表明した。ついに来るときが来たのである。
翌13日、中日とのダブルヘッダー最終戦が引退試合にあたったが、雨天中止で翌14日に順延となった。
ところがこの日は中日が名古屋市で、祝勝パレードを開くことになっていた。シーズン中の開催は、現在では考えられない。
これに主力選手の高木守道は、このパレードを蹴ってでも長嶋の引退試合に臨みたかった。しかし、球団にダメを出された。
余談だが、しぶしぶパレードに参加した高木は、ファンとの握手攻めに長時間遭い、両手が腫れてしまった。そのため、ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実力を発揮できなかった。チームも2勝4敗で敗れた。
もし高木が長嶋の引退試合に出場していたら、日本シリーズも違った結果になっていたかもしれない。
さて、10月14日の引退試合である。長嶋は第1試合に3番・サードで出場し、4回に15号本塁打を放った。7回には王も本塁打を放ち、通算106回目のアベックホーマーとなった。
第1試合終了後、長嶋は観衆のコールに応えてダグアウトを飛び出し、外野を一周して、その声援に応えた。
第2試合は4番・サードで出場。最終打席はショートゴロのゲッツーに倒れた。プロ初打席は三振、最終打席はゲッツー。これも長嶋らしかった。
試合終了後は長嶋の引退セレモニーがあった。

昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、きょうまで17年間、巨人ならびに長嶋茂雄のために、絶大なるご支援をいただきまして、誠にありがとうございました。
皆様から頂戴いたしましたご支援、熱烈なる応援をいただきまして、きょうまで私なりの野球生活を続けてまいりました。いまここに、自らの体力の限界を知るに至り、引退を決意いたしました。
振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。その試合をひとつひとつ思い起こしますときに、好調時は皆様の激しい大きな拍手を、この背番号3を、さらに闘志を掻き立ててくれました。
また不調なとき、皆様の温かいご声援の数々のひとつに、きょうまで支えられてきました。我が巨人軍はV10を目指し、監督以下、選手一丸となり死力を尽くして最後の最後までベストを尽くし闘いましたが、力ここに及ばず、10連覇の夢は敗れ去りました。


ここで野球界に永遠に残る、あの名フレーズが出る。

私はきょう引退をいたしますが、
我が巨人軍は永久に不滅です。


「永久」か「永遠」かはクイズで出されるところだが、正解は「永久」である。
テレビで紹介される映像ではここまでだが、実際はこの後も続く。

今後、微力ではありますが、巨人軍の新しい歴史の発展のために、栄光ある巨人が明日の勝利のために、今日まで皆様方からいただいたご支援、ご声援を糧としまして、さらに前進して行く覚悟でございます。長い間皆さん、本当にありがとうございました。

こうして長嶋の現役生活は終わったのだが、改めて問う。長嶋の引退試合は10月14日だったのか?
答えはYesであり、Noである。
実はこの年の秋、ニューヨーク・メッツとの日米野球が組まれた。全18試合の長丁場で現在では考えられないが、それに長嶋も何試合か出場していた。引退が確定した棋士が、竜王戦6組の昇級者決定戦を戦うようなものである。
最後の出場となったのは11月4日、後楽園球場での一戦である。第1打席で長嶋はヒットを打ち、この時点で打率4割越え。野球ファンは、長嶋は来年も現役をやるんじゃないか、と本気で願望したのだった。
最終打席はサードゴロだったと記憶する。
以上、これが本当の、長嶋の現役最終試合であった。
11月20日、メッツとの最終戦後に、川上は監督勇退を表明する。横には長嶋が列席した。シーズンオフにつきもののスーツでなくユニホーム姿なのは、このような理由であった。
そして1975年から長嶋の、波乱万丈の監督人生が始まるのだが、それはまた、別の話。
長嶋のニックネームは「ミスター」「ミスター・ジャイアンツ」「ミスタープロ野球」である。「ジャイアンツ」はともかく「プロ野球」とは、最高のニックネームではなかろうか。
そしてきょう10月14日が、「スポーツの日」として祝日だったのも、いかにも長嶋らしい記念日であった。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第4期白玲戦第4局

2024-10-13 23:16:21 | 女流棋戦
ヒューリック杯第4期白玲戦第4局(主催:ヒューリック株式会社、日本将棋連盟)が12日に京都府で行われた。ここまで西山朋佳、福間香奈、福間の順に勝ち、本局は負けられない戦い、というのは西山白玲のほうに強い。
将棋は西山白玲の先手で、いつもの▲7八飛。以下△5四歩▲7六歩△4二銀という、ふたりの定跡に突入した。
と、西山白玲は角を換える。これは△同飛と取らざるを得ず、必然的に相振り飛車になった。
そこから福間女流五冠は玉を小刻みに移動し、西山白玲は1筋に地下鉄飛車を構築した。何というか力戦振り飛車で、どちらも振り飛車党だが、そういうふたりが指すとこういう異様な展開になる。
やがてどちらも三段玉になり、西山白玲は飛車の王手から香を補充する。だが直後に福間女流五冠が△2四桂と▲3六金取りに打った手が厳しかった。これは福間女流五冠が大優勢、そのまま勝つと思った。
ここで私は1時間半くらい中座しなければならなかったのだが、その後スマホを見ると、西山白玲が勝っていたので驚いた。いや、この将棋は西山白玲が勝てないだろう。
記譜を再生してみると、西山白玲は▲2二竜と銀桂両取りに引いた。福間女流五冠は当然、△3六桂と金を取る。ここで私だったら、何はともあれ▲6二竜と銀を取り、△2八桂成(と銀を取る)▲同玉までを必然とし、そこからを改めて考える。
ところが西山白玲はじっと銀を引いたのだ。これが本局一感心した手で、この辛抱はなかなかできない。どうであろう、女流棋士でこの手を指せるひとが何人いるだろう。
以下、西山白玲は入玉をチラつかせつつ、反撃。福間女流五冠も、西山玉を攻めるのだが、なんだか指し手がダサい。そのうち形勢が逆転したようで、最後は西山白玲が福間玉を即詰みに討ち取ったのだった。
なおこの投了図がちょっと衝撃で、この周辺は福間女流五冠の制空権だったのだ。その勢力図がどうして逆になったのか。ここに私は、西山白玲の豪腕を見たのだった。とはいえ本局の勝因は、金を取られたときにじっと我慢した、▲3九銀だったと思う。
そして改めて西山白玲、本局の勝利は大きかった。少なくとも終盤の入口までは苦しかったはずで、そのまま負けていてもおかしくなかった。それが2勝2敗のイーブンは、今後の戦いに大きく視野が開けたといってよい。
第5局は19日、私の好きな札幌からである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すき家で80円クーポンを値引きしてくれなかった話

2024-10-12 00:58:14 | プライベート
牛丼の吉野家が、9日11時から15日20時まで、主要メニューを100円引き(税込)している。たとえば牛丼並の場合、税込498円が398円となる。なんでも、13年ぶりの企画らしい。
それに対抗したか、松屋とすき家も、それぞれ値引きしている。期間もほぼ同じで、それぞれ50円と80円の値引きだ。ただ両店とも、アプリのクーポン券を提示するか、券売機に読み込ませなければならない。
ちなみに松屋の牛丼は430円が380円に、すき家のそれが430円から350円になる計算だ。
吉野家が客全員にサービスを実施するのに対し、松屋とすき家は客を選ぶ。すなわち、ネット弱者は恩恵を受けられない。
それはともかく、最近は晩ご飯を外食している私には、願ってもない企画だった。
9日、会社の帰りに御徒町で途中下車し、吉野家に入った。むろん、最寄り駅に吉野家がなかったからである(むかしはあった)。
牛丼の並を頼む。出てきた丼の横に伝票が置いてあり、その値段が「498円」だったのでビビったが、会計のときは、アジア系の店員が、ちゃんと398円にしてくれた。
ふだん私は、行かなくてもいい耳鼻科に20年近くも通い、医療費を散財しているのに、こういう100円の得は、妙に大きく感じるのである。
そして11日、今度はすき家に行った。ここも、最寄り駅にすき家はないので、ひとつ前の駅で途中下車した。
ここはタブレット形式で、同じく並を頼んだ。丼が運ばれ、私はタブレットを見ながら食事をしたが、「80円クーポン」の画像が全然出てこない。
それでも食事を終え、私はスマホアプリの80円クーポンを開き、レジに向かった。ここでは日本人の店員が応対してくれた。
「ポイントカードはありますか?」
私はTカード(本当はVカードのほうがよい)を提示し、それをリーダーに読み込ませた。
その後、430円を支払う前に、80円クーポンの画像を提示した。すると店員が、バーコードリーダーみたいなものをかざす。だが、リーダーは反応しない。
「これは使えませんね」
「はあ」
すると店員は、その場を去ってしまった。あとの会計は、私が機械でやりとりをするだけだからだ。
私は店を出て、当然釈然としなかった。こっちは80円引きがあるからわざわざこの店に来たのに、なんだよこれ!!
そこで、クーポン券が反応しなかった理由を考えてみた。
これ、最初にTカードを読んだのがマズかったのではないか。このポイントがいくら付くか知らないが、このTカードは「430円分」の食事に対して付くものだった。だから、そこから80円引いて350円の会計となると、機械の方も、「それは話が違うだろう。350円の会計なら、そのときにTカードを読ませてくれ」となるのではないか。
だから店員は、この値引き期間に限り、最初に「クーポン券はお持ちですか?」と訊かねばならなかった、のではないか。
だけど、である。こういう値引き企画をやるんだったら、店員にもマニュアルというか、諸注意が与えられているもんじゃないか?ふつう。
それと店員も、リーダーが反応しなかったら、もっと疑いの目を向けろよ。なんでその場を離れちゃうんだよ。
少なくとも私のやり方は間違っていなかったと思うし、仮に私がクーポン券を出さなければ、ふつうに430円で会計されていた。これって、本社が本当に値引きする気があったのかさえ、疑わしい。吉野家に対抗するポーズを取っただけじゃないの?
ともかく、これでここのすき家も、当分行かないことが決定した。何しろ私は、日高屋でお冷やが出なかったから、その店に行かなくなったという実績がある(実際あの日以来、どこの日高屋も利用していない)。タダの水でそうなのだから、80円の怨みはでかいのである。
とりあえず12日は、松屋へ行ってみる。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする