年が明けて天正二年(1574)の事件は越前から始まった
信長に越前守護を任された前波が与力である府中城の富田に襲われて殺されたのである
富田は、その足で岐阜までやってきて信長に申し開きをした
「こたび拙者が前波殿を討ったのは私怨ではありませぬ、越前国人の総意を組んで拙者が立ち上がったのです
あのまま放っておけば、朝倉一族や朝倉旧臣が反乱を起こす恐れがありました、それも前波殿に対する不信からです、前波殿のやりようはあまりにも朝倉一族に対してむごい仕打ちでありました
拙者はお屋形様に忠義を貫いております、できれば前波殿に変わり守護に命じていただけましたら必ずや越前から不穏を取り除きまする」
しかし信長は富田を守護にするなどもってのほかと願いを蹴った、だが前波殺しについては不問にして府中は安堵した
それから間もなく、信長のもとに新たな越前からの報が届いた
「加賀の一揆勢が攻め込み富田長繁殿が討ち死にしました、朝倉勢も防戦していますが一揆は加賀から七里と言う大将を先頭に猛攻を仕掛けていて、お味方は押されております」
続いて新しい伝令がやってきた
「朝倉勢は一乗谷、北の庄を放棄して府中辺りまで退却しましたが、朝倉景鏡様がお討ち死にしたとのことでございます」
「おのれ、越前は全滅か、せっかく朝倉義景を討って得たというに、仕方あるまい今は動けぬ故、筑前に木の芽峠を越えさせぬよう厳重に固めよと申し伝えよ、美濃に武田勝頼が出張っている以上動くことが出来ぬ、いずれ大軍にて越前は取り戻す」
越前は加賀からやってきた七里頼周(らいしゅう)が守護となって越前を加賀同様に門徒が支配する国とした。
秀吉は敦賀にあって加賀一揆の侵入を必死で防いでいる。
「兄様よ、お屋形様はよくも体が動くお方じゃ、感心するでよ、兄様も朝倉攻めには明智様と先陣で攻め込み、浅井攻めでは勲功第一番で長浜城をいただいた、じゃが今度の伊勢の戦いには声がかからず越前の見張りをしておる、その間もお屋形様はすべての戦に自ら戦場で戦っておる、儂は時々思うのよ・・
なんでお屋形様は休みなしに戦をしておるのかのお? と」
「ふむ、おまえも、そんなことを考えるようになったか」
「ああ、百姓の時は戦は迷惑なものだとしか思っとらんかったが、さむらいになってからは戦の看方が変わってきたでよ」「どんな風にじゃ」
「戦がのうなったら儂らは何をして生きて行けばいいんじゃろうかと?」
「そんなことか、心配するな戦はのうならんでよ、未来永劫、戦は侍の性じゃこの世から戦がのうなることはないぞ」
「じゃがそれも寂しいのう、いつかは弾か矢に当たって死ぬではないだろうか」
「仕方あるまい、それも侍の性じゃ、うまくやれば儂のように水飲み百姓でも大将に出世できる、戦に出んで一生貧しい百姓のまま地べたを這って搾取されたおこぼれを食べて暮らす方が良いか?」
「いや、そうは思わんが、なぜ戦がおこるんじゃろう」
「それはのう、神武天皇の御代からずっと繰り返されているということじゃ」
「神武天皇とは誰じゃ?」
「今、都におわす後陽成天皇(ごようぜい)の100代も前の初代の天皇じゃ」
「ほう、兄者は物知りじゃのう」
「なんの、暇つぶしに半兵衛から教えてもらったのよ、その神武天皇は天上界からわれらが住む地上に降りてこられた神様である、そして先に下りてきて出雲にてこの国の政をしていた大国主命から政権を譲られたが、それに反対した大国主命の息子が兵を挙げて神武天皇に反抗したのじゃ、
だが神武方の雷(いかづち)のなんとやらという戦の神が率いる軍に打ち負かされて信濃の諏訪にまで追い詰められた、
諏訪湖に身を投げて、そこの竜神になったそうじゃ、それが我が国の戦の始まりである、以来ずっと日本では戦が絶える暇がない」
「面白い話じゃ、それでは諏訪四郎という武田勝頼はその負けた息子の子孫と言うことになるのう、さしずめお屋形様は雷のなんとやらのようじゃ、武田にわれらは勝つ運命じゃ」
「戦はしょっちゅう起きておるが、日本中をひっくり返すような大戦は数百年に一度しか起こらぬ、今がその時じゃ、応仁の大乱がその始まりであった」
「なぜ起こるのかのお?」「それは大きな湖と同じじゃ」
「どういうことじゃろ?」
「湖が波立っている時は波の間に空気がたっぷり入って栄養豊富な水になって魚たちも育つ、しかし何日も鏡のように静かな湖面が続くと空気が表面をすべって逃げていくから水は腐ってしまう、魚も死に絶える
われらの世も同じじゃ、平和が長く続くといろんな部分が腐ってくる、風を起こして波風を立てて空気を送る必要が出てくるのだ、それが戦よ、風を起こすのがわれら侍じゃ」
「なるほど、腐った水は足利義昭のことじゃな」
「それに安定した地位に安心してしまった今川氏真や朝倉義景なども腐った水であったわ」
「なるほど、お屋形様はやはり雷神様じゃな、そうなると武田信玄は風神か、兄者はなんじゃ?」
「そうじゃのう、いつかは竜神になって大空をゆうゆうと飛んでみたいのう」
「うん、兄者なら竜神になれるぞ、わしはそう思う」
「そうか、そう言ってもらえば嬉しいのう、お前にも風を起こしてもらわないとな、儂は風に乗れぬ、頼んだぞ」
「ははは、まかしてちょ」「ははは」
信玄が死んだのちの武田家はどうなったのであろうか
一説では信玄は死を目前にして、息子の武田勝頼や重臣を呼んで遺言を残したという
それによると、武田家は孫の武田太郎が継ぐこと、父親の勝頼は太郎が元服するまで太郎を補佐すること
勝頼は主だった重臣の意見を取り入れて太郎を立派な武田の継承者に育てること
儂(信玄)の死は3年間他国には隠し通すこと、その間は国内の固めに集中して他国に打って出てはならない
という遺言であった、その間は信玄の弟の信廉が影武者を勤めること。
しかし、早くも「信玄死す」の噂は越後から関東、京まで広がった
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