神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(235) 甲越 川中島血戦 62

2024年10月27日 19時08分20秒 | 甲越軍記
 武田信玄は諏訪、村上、小笠原の信濃の諸将を攻め滅ぼして信濃の過半を奪い取ったが、木曽左馬頭義昌は、険阻なる地形にあって上杉謙信と通じて抵抗を続けていた
信玄は、これを勢いに任せて攻め滅ぼさんと願うが、上杉謙信が背後から攻め寄せるを危ぶみ、間者を使って越後を探らせたところ、信濃から帰陣して間もなく、今度は関東に出張って北條と干戈を交えるとの報が入った。

信玄は直ちに木曾に向けて兵を進めた
ここに木曽の隣地に瀬場兵衛大夫宗範という勇猛無双の将がいる、木曽に属して堅固な城を構える
武田に属す板垣法印は、瀬場と因があるのを幸いに、板垣を使者として「武田家になびけば領地安堵に加えて信州にて一郡を与えよう」と持ち掛けた
瀬場は思案して、板垣の誘いに乗ることを決めた
その後、天文二十四年正月、年始の慶賀に甲府まで大蓮寺に宿を賜った。

山本道鬼と信玄は密談を行い、瀬場がもし上杉に調略されれば木曽退治の大いなる妨げになると甘利左衛門尉に命じて、その夜、俄かに宿を取り囲み競いかかって討ちこめば、瀬場は大いに怒って「信玄に欺かれたる悔しさよ」と死に物狂いになって甘利勢に切りかかる
瀬場の主従二百十三人は甘利の士卒を大いに討ち果たしたけれども、地の利悪く、多勢に無勢なれば瀬場も大剛の将と言えども、体中に手傷を負い討死となった、家来たちもそこかしこで切り死にして果てた
これにて木曽を討つ妨げ無しと三月七日に信玄は兵を率いて、本山、贄川を押し渡り、習井峠(奈良井か?)を越えて屋根原に着陣して、この地に砦を築いて、これを足掛かりに木曽に攻め寄せると普請にかかった
しかし越後に放った間者が「謙信が川中島に出張った」と知らせて来た
信玄は屋根原に栗原左衛門尉、多田淡路守を押さえに置いて。急ぎ川中島に戻った。

川中島では互いに足軽を出しての戦があったが、いずれも隙のない名将であれば敵の虚を伺えども、少しの油断なく、むなしく日が過ぎゆくのみ
信玄は謙信を討つこと叶わぬと思い陣を引けば、謙信も詮方なく越後へと引き上げる
八月、信玄は再び屋根原に戻って、木曽攻の手配りをする。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿