11世紀から20世紀の1000年間は漢民族も(韓/朝鮮)半島民族も
北方の匈奴(騎馬民族.遊牧民族)の侵略に次ぐ侵略に振り回された時代
11世紀から12世紀、日本では貴族藤原氏の栄華が武士の台頭で没落
平清盛を中心とした平氏が、天皇家にまで血脈を残そうとした、それは対抗する
源氏によって阻止されたが、武家の地位は上がり国政を支配するまでになった
同じ頃、大陸では旧高句麗の辺りに誕生した契丹人の国「遼」が勢力を拡大して
周辺国を次々に侵略した。
中国では10国時代がようやく終わり、統一国家「宋」が誕生した
半島では「高麗」が足固めをしていた
遼は、攻め足の速さと訓練された軍で、宋に攻め込んだ
兵数では圧倒する宋だったが、戦争では遼に歯が立たず押しまくられ国の北半分を譲り
屈辱的な不平等条約を結ばされ遼の風下に置かれた、以後「南宋」となる
遼は高麗にも攻め込み、略奪と侵略を続けた、高麗は外交努力で難局をどうにか乗り切った
遼の栄華は短かった、、遼に支配されていた女真族が蜂起して「金」を建国
「南宋」の誘いで遼を挟み撃ちで攻撃し、ついに遼を滅ぼした
ところが南宋の裏切りに激怒して、今度は南宋対金の戦争となり、またしても南宋は追い込まれた
金の攻勢も短かった、モンゴル平原に誕生した「蒙古」が力をつけたからだ、蒙古は遼や金を
遙かに凌駕する軍隊をもち、その作戦行動も統一された強力な者もので一気に金と南宋を滅ぼした。
漢民族は支配されて蒙古に組み込まれた、蒙古の「モンゴル帝国」はとどまるところを知らず西進を続け
イスラム圏に進行、現在のイラン、イラク、トルコ、シリアまで勝ち進み、いくつものイスラム王国を占領
更にモスクワ付近にまで到達して、まさに中央アジア帝国と呼べる自由化前のソ連に劣らぬ巨大国家を
築いた。
当然、その進行は半島の高麗にも至る、全く歯が立たぬ高麗は、今のソウルの西、江華島に逃げ込んで
籠城した。 騎馬民族のモンゴルは海に弱く攻め込むことが出来なかったが、王家と軍がいない半島は
蒙古の勝手に蹂躙され、町は焼かれ、多くの国民が殺されたり奴隷として拉致されて行った。
やがて力尽きた高麗は降参して蒙古の属国になった。
次に蒙古は海の向こうの日本を征服しようと企んだ、そして高麗に軍船建造の苦役を命令した
数千隻というその船に僅かな蒙古の指揮官と、多くの高麗兵、宋兵を乗せて九州に上陸した
1274年である、この時日本は鎌倉時代、執権北条氏が国政を担っていた
日本は戦争のやり方も武器も蒙古軍に劣った、しかし台風のような自然現象で蒙古軍はあっけなく海に
全軍が消えてしまった、これ以後、日本は神国で神風に守られるというジンクスが出来たとか出来ないとか?
「神風」の語源になったらしい
1281年にもまた攻め寄せたが、これまた神風で全滅、二度と日本を攻めることはなかった。
蒙古の周辺国で占領されなかったのは日本、ベトナム、インドくらいだったらしい。
巨大な蒙古も圧倒的な漢民族の数の中に埋もれる、もともと蒙古人は少なく、しかし領土は広大
アジアに広がった蒙古は、いくつかの王国に別れ、やがて現地に吸収されて消滅していった
中国では漢民族の志士や一揆が、貴族化した弱い蒙古を追い払った
高麗王朝は、王子が蒙古に人質として行って蒙古の姫を娶るという同化政策がなされていた
蒙古従属以来、高麗王は代々、蒙古風の名を与えられていた
しかし蒙古の力が弱ると、高麗は蒙古従属を続けるか否かで内紛が起きた
そして中国では南部の漢民族による統一国家「明」が洪武帝によって誕生する
蒙古従属の高麗王は蒙古と共に、明を征伐する軍を差し向けた
その遠征軍の一方の指揮官こそ朝鮮王国を興す、「李ソンゲ」将軍だった
日本では足利幕府の全盛期で、足利義満が金閣寺造営など行った時代
一方、九州沖に本拠を持つ、日、朝、中の多国籍海賊集団「倭寇」が明国沿岸
高麗、朝鮮各地を略奪して荒らし回り、明や高麗、朝鮮を震え上がらせた。
続く