神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 136 南蛮人、唐人

2023年01月26日 17時25分52秒 | 貧乏太閤記
 秀吉の禁教令や伴天連追放令が霞んでいる
1543年薩摩の対岸種子島(たねがしま)に難破漂着したポルトガル船から、日本との関係が出来て、イエズス会の布教が九州から中国地方に広まった
その後、交易がはじまり日本貿易を独占する。
ただ堺の商人は、ルソンまで乗り出してスペインと交易をおこなっていた。
唐入りの前に秀吉は伴天連追放令と、キリスト教の禁止を明言した
この時、日本にはキリシタン大名がけっこういたのだ、高山右近、小西行長、大友宗麟、黒田官兵衛、京極高次、蒲生氏郷、毛利秀包、細川忠興の奥(明智光秀の娘,珠)大村、有馬、織田秀信、伊達政宗も家臣団をローマ法王に送り込んでいる、この他にもまだまだいる
なのに、秀吉の禁教令をまともに受けて大名をやめてキリシタンに固執したのは高山右近だけである
後の大名は秀吉に罰された様子が無い、小西や前田などは改易された高山右近を匿っているし、領地の天草にはキリシタンを支援して教会を建てたり、後には徳川幕府と一戦交えた天草四郎などが排出される)
他のキリシタン大名も古来の仏教寺院を破壊するなど、のめりこみが尋常ではない。 しかし・・・
 天下を取ってしまった秀吉にとって、もはや何を言っても、何を覆しても通るという意識があって、朝令暮改も気にならなくなったのではないか
それを「秀吉の気まぐれ」としてとらえた大名が適当に対処していたのだと思われる、高山のように真正面から取り上げずともやって行かれたのだろう
小西の肥後天草でのキリシタンの拡大は、秀吉の政策の正反対をいっているが
秀吉は重用している。

 3月、小西は大明国の講和使、沈らと講和条約の会談を秀吉に伝えて、講和条件を求めた
秀吉は朝鮮のことについて明と日本のすべきことで次の条件を示したという
(これは、あくまでも朝鮮の戦後処理だけで、明と日本の二国間条約は後日決める)
1.明の使節を名護屋によこすこと(これは、明が降伏した証)
2.明は朝鮮から撤退する
3.日本は漢城から撤退
4.捕虜の朝鮮王子を返す
5.朝鮮は新たに王子1名を人質によこし、大臣も人質として1名、来日させる
など
 沈は、この条約の内。1項を除いて遼東の明軍総帥、李如松に伝えると、李も納得して北京に伝えた。
「これで明皇帝の方はとりあえず片付いたが、明の使節はどうするのだ」
小西は沈に聞いた、するとこともなげに
「それは我々が準備して倭国に送りこむ」
「それでは明の皇帝の承認がないではないか」
「そんなものは今は必要ありませんよ小西殿、明の皇帝と太閤殿下の両方が満足すればそれでいいではないですか」
「それはそうだが」
「前にも言いましたが、明の皇帝が倭国に降参する必要はまったくありません、だがそれではまた戦争です、もう倭国の兵は戦えないでしょう、明だって朝鮮の為に自国の兵を死なせるのは嬉しくありませんよ。
明の皇帝は日本軍が撤退して、皇子を返してよこせば朝鮮から感謝される、倭の王は、明が降伏したと満足する、それで丸く収まる
これが本当か嘘かなど、互いに調べることはないでしょう、倭の王にしても朝鮮の使節が行くことで降伏したと思い、一年や二年はあらためて確認をすることはありますまい」
「ふむ、それではわが方からも明へ使者を出すとしよう、儂の重臣を送るからこちらも秘密が漏れる心配はない」
「ははは、小西殿と儂は馬が合いそうですな、これからも明と倭国の平和のために協力を頼みます」
「同じ国に生まれていたら良き友であったかもしれぬ、残念じゃ」
「この先、そうなるやもしれませぬぞ、よろしく頼みます」
「うむ、こちらこそ頼み申す」
出自も定かでない沈が、なぜ明国の代表的な外交官になれたのかは誰もわからない
日本で言えば、斎藤道三、伊勢新九郎(北条早雲)、滝川一益の類ではなかったのだろうか?

 4月半ば、日本軍は全て漢城を去り、尚州へと向かった
朝鮮軍に途中襲われぬよう、あるいは明軍の追撃が無いように二人の王子を人質として連行している。
そして、それを見届けると小西行長は「これより明の使節を伴って名護屋に向かいます」という手紙を秀吉に送った。
たちまち名護屋の大名や町人、兵たちに噂が広がり
「明から降伏の使者がやってくるそうじゃ、どの面下げてくるものやら、石でも投げてやればよい」などと不穏な雰囲気になって来た
その話を聞くと秀吉は近習に命じた
「もし明の使節に乱暴狼藉を働く者があれば、その者はもちろん、その主も極刑に処すと大名、商人、寺社、名主、町役人に触れを出せ」
秀吉が此度の明使に和平の期待をかけているかがわかる、どこで秀吉の心が変わり始めたのか、一気に唐入りできると思ったが目論見が狂ったのが原因なのか、朝鮮の風土、民心、気候、何より世界一安全な水を飲んでいる日本人にとって、朝鮮の水はからだに悪い、生水を飲むとたちまち下痢をした
これは昔の朝鮮に限らず、現代も日本人には外国の水は合わない
冬の寒さも日本の比ではない、北海道ならそれはわかるが、当時、日本人はまだ北海道に住んでいない
このように、屈強な日本の戦士が敵には負けないのに、朝鮮の自然に負けてしまった、これは秀吉にとって予想外だったと言えよう。

 5月の半ばに小西は2名の使節を連れて名護屋に到着した、秀吉はしばし仕事が溜まっており会えぬが「丁重にもてなすように」と奉行に伝えた
当分は徳川家康と前田利家が使者の面倒を見て、宿舎としてそれぞれの屋敷の一室を提供した。



晴れましたよ

2023年01月26日 10時24分10秒 | 散歩道
朝から良い天気

でも北越四県(福井、石川、富山、新潟)の予報は100パーセント雪、安心できませんね
午後から雪かな?
一昨日から今朝までの予報は60cmだったけど3cmしか降らなかった
はて?今日の予報は当たり?外れ?




空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 135 加藤清正 召喚謹慎命じられる

2023年01月25日 17時40分41秒 | 貧乏太閤記
  幸州山城は簡素な城塞であったが、狭く急峻で複雑な山道であったことと、所々薄暗い森、びっしりと密集した木々やつる草が邪魔をする
敵には鉄砲の装備、逃げ道がないため死に物狂いになって戦ったからであろう。

 その後、権慄らは幸州山城が孤立することを恐れて、後方のより堅固な城へ移った、幸州城は城の体をなしていないので日本軍にも利用価値は低く、結局放置された。 
しかし石田三成は報告に敗戦を隠し、敵の後退を利用して秀吉に報告した。
「この度、平壌より押し寄せた10万にも及ぶ大明国と朝鮮の軍を、小早川、宇喜多、立花勢が散々に打ち負かして、敵の大将は深手を負って遼東まで逃げたとのことです
このあと、漢城の西4里にある幸州城に朝鮮の者共が5000ほど集まってきたので、これを退治するため宇喜多殿を大将に我ら攻め入ったところ、敵はこれを恐れて後方に撤退しました。
ただ漢城は雪こそ少ないが、突き刺すような寒さであり病人、負傷者は難儀しております。 兵糧も底を尽きそうなありさまで、後方から届くような様子もありません、弾薬も少なく、また明軍が10万などで攻め寄せれば被害甚大が予想されますので追い打ちはせず、われらも漢城で次に備えております。
雪深い8000尺の谷あいを抜けて、威鏡道から戻った加藤、鍋島勢は負傷者よりも凍傷で指や手足を失った者の方が多く、五体満足でも飢餓状態の様相の者も多く、渡海時25000居た兵は15000ほどに減り、残った兵も申し上げた通りです。
この寒さは敵にも同じであり、さきの大敗北で冬の間は攻め寄せることはないかと思われます、諸将の間では慶尚道まで戦線を下げて、全州、尚州、安東を防御線にすれば兵糧の調達も、防御も容易になると考える意見が大勢を占め始めています。
某も現状を鑑みればもっともなことだと思います、どうかご思案いただきますよう、お願いいたします」

 2週間ほどかけて名護屋の秀吉の元に届いた手紙をみて秀吉は、直ちに指示を送り返した。
「そなたからの手紙で漢城の様子はわかった、釜山の奉行を通じて兵糧、弾薬は至急、そちらへ送ろう。
漢城の撤退は加藤清正隊のみ帰国させることにして、宇喜多、小早川、小西らはしばし漢城の防御を固く構築して増援部隊が行くまで守る様にせよ
こちらからは岐阜宰相織田秀信、伊達政宗ら1万を渡海させ釜山一帯にいくつも城を築かせることとする、追々さらに前田など東国大名を渡海させるので、それまで持ちこたえよ」

 秀吉からの返書を見て、石田三成は加藤清正へ帰国の命令を伝えた、すると加藤は
「とんでもないことだ、我らは太閤殿下の御為に最後の一兵まで戦うつもりで渡海してきたのだ、もったいなくも豊臣姓を賜り豊臣の名のもとに死ぬれば、これほどの名誉はない、
殿下の御情けはありがたいが、われら加藤勢は漢城守備を継続いたす、場合によっては平壌までも討ちだす所存である」
かたくなな態度に三成も困り果てた、そして小西にもこのことを話すと
「ははは、それは良い、良いではないか。 加藤が自ら墓穴を掘ったのじゃ
このこと、すぐに殿下に伝えよ、『加藤は殿下の命でも聞くことはできぬ、漢城からは動かぬ』『豊臣清正の名乗りで平壌に討ちいる』そのような覚悟でいるため、われらも困り果てている、と伝えよ
殿下は漢城を守り続けよと言われたが、この戦を続けていればわれら漢城の者共はことごとく飢え死にか凍傷か病で死んでしまうであろう、とても戦どころではない、殿下にはこの寒さはわからぬであろう、こんな実りの無い戦はとっととやめるべきだ
終戦交渉を急がねばならぬ、あの明使の沈からも内々で話が来ているのだ、加藤のような頑固者が居たらこの話ははじけ飛んでしまう
殿下も加藤を帰国させよと言う今が絶好の機会じゃ、何が何でも加藤を名護屋に追い払わねばならぬ」

 再び、三成から加藤の頑固さを訴えた手紙を受け取った秀吉は怒った
そして直接、加藤清正に召喚命令を送った。 さすがに直接命令では清正でも抗えず捕虜の朝鮮の二人の王子を伴って帰国した。
清正は熊本にて謹慎を申し渡されたが、その間、疲弊した熊本を立て直すために働いた、それでもやり場のない怒りと悲しみを持ち続けた

 (そうじゃ、わしには「かかさま」がおった)清正は大坂の政所ねねを思い出した、直ちに手紙を書いて家臣に届けさせた。
「このたび、殿下の御怒りにふれ、何が何やらわからぬうちに肥後に謹慎申し付けられ腐っております
殿下にどのような書状が三成から送られたかわかりませぬが、おそらく拙者を快く思わぬ小西とは一味ゆえ、そのあたりでありましょう
殿下に呆れられては、もはや頼るところがありませぬので、かかさまにお願い申し上げた次第です、どうかお取り成しをお願いします
子供の頃より一命は殿下に捧げてあるのに残念でたまりません、どうぞどうぞお願いいたします」

 「ほほほ、虎は20万石の大大名になっても相変わらず童のままじゃ」政所ねねは、清正を愛しく思い手紙を書くと、御付き侍を呼んで名護屋に手紙を届けるよう命じた。 あて先は徳川家康と前田利家であった
半月ほどたって、熊本の清正のもとに、秀吉から「赦免状」が届いた
清正は再び勇んで名護屋へと発った、ねねからの手紙で赦免の為に徳川家康と前田利家が動いてくれたことを知って、到着と同時に、秀吉、前田、徳川を訪問したのは言うまでもない。

 秀吉が奥州の九戸政実(くのへまさざね)の反乱を圧倒的な兵力で鎮圧して
完全な日本統一を成し遂げたのは天正19年(1591年)で、僅か2年前だ
その翌年には、もう唐入りを宣言して朝鮮に15万の軍を送った
それまでは唐入りや朝鮮征伐などは口にしていなかったのだ、それより秀吉の関心事はスペイン、ポルトガル、俗にいう伴天連との交易、イエズス会などのキリスト教布教の自由と禁止であった
特に九州でバテレンが宣教師や海賊らとグルになって、日本人の国外売買を行っていることを知ったことで、キリスト教の禁止とバテレン追放を命じた。
だが、それと唐入りは関連性がないはずだった
ただこの時のバテレンとはポルトガルを指す、スペインはまだ秀吉の元を訪れずフィリピン(ルソン)に留まっている。



大雪情報と現在の様子 窓が凍り付いて開かない

2023年01月25日 09時00分34秒 | 季節と自然/花
昨日の昼の天気予報では、当地の昨夜から本日朝までの降雪量は15cm
今日の夕方までに新たに45cmとのことであった。
結果はどうか、昨日朝は晴天だったが、昼前には冬景色に変わって強風と、一日中、雪が舞っていた・・・ここが大事! 舞っていたのである、降ったのではない。
今は風が強く、冬のどんより曇が覆っているが、全体的に明るく一部晴れ間が見える

我が町は海岸から2000m以上の山脈まで幅広い、私が住む海岸部は冬は風が強く、昨日もそうだった
風が強いとありがたい、もちろん火事になったときのリスクは強いが。
なぜありがたいかと言うと、ここに降る雪は、風が山間部まで持って行ってくれるからだ、山間部にはスキー場があるから一石二鳥なのだ、適材適所?。
結局、我が家の近所の降雪量は朝で3cmほどであった。
今も風が「ゴーゴー」と唸り、窓や屋根を叩き、木々を揺らしている。
たぶん45cmなんて降雪はないだろう。

今朝の我が家の周り

玄関先は氷点下4度で凍っていた


ちょろちょろ出していた水道はセーフだが、止めていた温水栓は凍って出ない
息子は6時に家の前の道路を除雪機で一押ししたが、それほどの雪は無かったみたい。

私はよりによって、今日「ヘアカット」を予約してある
国道はたぶん通れる状況ではないから(凍って)秘密の裏街道を抜けていこうと思っている。

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 134 泥沼の戦場

2023年01月24日 17時15分31秒 | 貧乏太閤記
 現代の北朝鮮、韓国の緩衝地帯38度線「板門店(はんもんてん=パンムンジョン)に行くと北朝鮮最初の町、開城(かいじょう=ケソン)が見える
常に取ったり取られたりの、まさに最前線の町なのだ。

 小西行長と石田三成は、加藤清正が命令を無視している気がして面白くない
命令が届いたのか、届かないのか「漢城に集結するように」という命令に従う気配が全くない、それより清正は常にどこかで戦をしているらしい
秀吉の命令は「個別の戦は停止して、漢城、黄海道、江原道のラインを死守せよ」というものであった。
明記はせぬが、加藤清正と鍋島直茂が占領した威鏡道は、「守る必要はないが」と言う風に小西と石田は解釈している
 実は石田の命令書は清正に着いていた、だが清正には清正の事情がある
「今さら何を言っているのだ、我らが他の連中の倍も歩いて勝ち取った威鏡道を手放せとは、ふざけているのではないか。
先月には『明まで攻め寄せよという』命令が届いたばかりではないか、三成は我らを愚弄しているのではあるまいか、此度の書状は三成の独断であろう、親友の小西の面目を保つために我らまで動員しようという考えなのだ、この件は殿下の返事が来るまで聞かずともよい」
こんな風に小西と加藤のいさかいはエスカレートするばかりで、軍監使の黒田官兵衛などは、どちらも言うことを聞かないので腹を立て職を辞して、名護屋に帰ってしまったほどだった。

「殿下、都の大野殿から書状が参りました」小姓が秀吉に伝えた
「殿下、お喜びください。 淀様のお体不調につき医師に診てもらったところ、ご懐妊とのことでありました、まずはお知らせいたします」
 秀吉は舞い上がった、「まさか、まさか、まさかまた子ができるとは、虎の胆が効いたのか」そして朝鮮の戦による憂鬱は一気に吹き飛んだ

 宇喜多秀家は若いながらも総大将として漢城に居たが、石田三成が来てからは立場が微妙になっている、三成にしても奉行としてきたものの、奉行が安定して指導を行える道など一つもない
戦況を垣間見るに結局、先遣隊の一武将として戦に加わるしかなかった、戦死、病死、病気で兵が不足している、
彼らの後から来た代官たちに、それぞれの道都を管理を任せることになったが、わずか300足らずの兵では地元の朝鮮人が従いもしない、むしろ義兵などに呼応して反乱を起こす危険の方が多い
現地軍を監視、管理の目的で来た三成ら6人の奉行は、軍としては僅か1000から2000しか持たないから、万の兵を動かす宇喜多や小早川に従うしかなかった。
 漢城に集結した諸将は、三成を交えて次の作戦のための会議を開いた
「鍋島殿からの連絡では威鏡道の状況は日増しに悪化しており、特に中央部の拠点、吉州(きっしゅう=キルジュ)では加藤勢の代官1500ほど敵に包囲されたとのことである、すでに兵糧も尽きかけて動ける兵も少なく、さすがの
加藤殿も守兵に降参するよう働きかけているそうじゃ」
「それならば我らの内から救援に行くか加藤殿に漢城に撤退してもらうかしかあるまい、このままでは鍋島殿も包囲されるやもしれぬ」
事実、威鏡道では今までの平和が一転して、各地の義兵運動に触発された威鏡道の両班武人も息を吹き返し、加藤清正に従って威鏡道奥地を支配していた、鞠兄弟を征伐してその地を取り返し、朝鮮の鎮台を復活させて日本軍の駐屯地を攻撃するようになった
最大の吉州で1500、それ以外の駐屯地はそれぞれ500程度の守備隊しかおらず、苦戦を強いられていた
「だが殿下は漢城に集結して守れと申された、威鏡道は遠い上に道中は豪雪でここからは行くことさえままならぬであろう、それに救援に兵を割けばますます不利になる、どうせ出撃するなら、敵が遼東に引き籠っている間に、西の幸州山城を攻略すべきではあるまいか、空き城と油断していたが今は数千が籠城しているらしい、今後敵の拠点になる恐れもある」宇喜多秀家の意見にあらかたの将が賛同した、こうして2月には幸州山城攻めが開始された。

加藤隊の話に戻る
一番南の安辺(あんへん=アンピョン)に加藤清正の本隊が5000ほどで駐屯し、そこから北東の威興(いきょう=ハンフン)までの間に鍋島隊が駐屯している、まるでバスの停留所のようになっている。
小人数部隊が点在しているので、どこも2000ほどの敵に攻められても守るしかないのだ、守れば食料は減り、兵は減っていく、もはや飢えとの戦いであった
昭和の戦争の南方(ガダルカナルなど)で取り残されて飢餓に苦しんだ日本守備隊と同じことを、彼らは350年も前に体験しているのだ。
飢えているのは加藤本隊も同様であった、明使が降参するよう説得に来た、だが際どい所で今回の碧蹄館での明.朝連合軍の大敗が伝えられると、明兵は一気に威鏡道から撤退した
加藤隊は雪深い山脈を越えられず、日本海沿いに江原道へ下り、遠回りして、ようやく漢城に入った。
こうして加藤、鍋島隊も撤退してきたが23000で渡海したのが、漢城に着いたのは併せても1万3000足らずに減っていた。

 幸州山城(ヘンジュサンソン)は二つの川が合流している断崖の上に、朝鮮軍が急遽作った俄か城で逃げ道がない、しかも籠る兵は僅か3000ほどで日本軍の3万の前に風前の灯であった。
日本軍は宇喜多秀家の1万を主力に、小西、黒田、さらに石田ら奉行衆など3万の大軍であった、しかし125mという急峻な峰に砦を二重三重に張り巡らしている
攻めあがる道は狭い上に凹凸や木の根がむき出しで、曲がりくねる急坂だ、大軍だからと言って一気に攻め込むことはできず、倒れても倒れても屍を超えて数で押し破るしかない。 城と言うより山そのものだった。
この城塞を護る大将は45歳の老巧な権慄(クヲン.ユル)である、この大将、先の錦山の戦でも小早川隆景の軍を撃退した実績を持つ
ここに進出してきたのも権慄の提案で、北から攻め寄せた明軍に呼応したのだったが、明軍はすでに大敗して遼東まで逃げ帰ったので、置き去りになった感じであった。
だが権慄は小早川との戦いで、武器の劣勢が身に染みていたので、日本軍から奪った鉄砲や、それを見て作った模造銃まで戦闘に使った
高い崖上から鉄砲、短弓、焼石などでの攻撃は効果絶大だった、城門を打ち破りながら登ってくる日本軍だが、本丸はまだ遠く重なる屍は、明治時代に起きる日露戦争の203高地戦の様相であった
宇喜多秀家ら大将たちも前線で兵を叱咤激励していたが、流れ矢に当たって傷つく者が相次いで後方に下がった。
何次もの攻撃を仕掛け、少しずつ前進したが既に1000を超える死傷者を出した日本軍であった
崖の下を流れている漢江は大河で、海からも上ってこられる、海からも近い
それを利用して朝鮮京畿道の水軍が、船団を組んで後詰を送って来た
狭い谷あいに集中している日本の大軍は自由に動けず、たとえ敵が300,500であっても後方から上陸されれば挟撃の形になる、これは昔、信長が朝倉攻めをしたとき浅井長政の裏切りで挟撃されそうになった金ケ崎の戦に似ている、あるいは船から砲撃される恐れもあり、ついに攻略をあきらめて漢城に引き上げた。 朝鮮軍も数百の死傷者をだす激戦であったが守り切った




警戒! 10年に一度の大雪

2023年01月24日 08時38分16秒 | 季節と自然/花
最近よく聞く「**年に一度の」 今回は10年だそうです
先週までは「数十年に一度の」と、「いったいどうなる」と心配しましたが
先週は1ミリも雪は降らず、おかげで毎日、皮シューでお散歩してます。
今日も陽が差して、今のところは晴れですが、突然180度、天気が変わるらしい
わが地域の予想は今日が15cm、明日が45cmだそうだ、合計60cm
近年では確かに大雪だ(子供の頃なら「ちょろい」積雪量だが)
まあ、そんな経験は過去に何度もしてますから、雪国は「降り出したらとまらない」それが怖いのです。
雪は降るのが当たり前であきらめますが、とにかく除雪が嫌だ
あんなことに1時間2時間の重労働をさせられるのが嫌だ
しないで放っておくと近所から「お宅の前だけ雪があって困ります」と来るから
近所づきあいも支障が出る。  ほんとうに雪国の田舎は嫌だね。
晴れていれば、こんな風に散歩出来て気持ち良い
「南天の坂道」(スマホ)





丘の上から海を見る まったく春の景色ですね
「大寒」の雪国とは思えない


今朝の空(北東方向)

9時15分 風が音を立てて吹き出し、唸っている
急に暗くなってきた、いよいよ始まるか?
12時 横なぶりの雪が降って来た 夜から明日にかけてひどくなるらしい


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 133  平壌、漢城 明軍との戦い

2023年01月23日 17時19分44秒 | 貧乏太閤記
 正妻の政所ねねは天下人となった秀吉に何も言わなくなった、怒っているわけでも嫉妬しているわけでもない、だが心のどこかが覚めている
ねねは、淀や京極と生きてきた道が違いすぎている、所詮は庶民階級の暮らしに慣れていて高家の者との交際は不得手である
秀吉がそれをわかっていて、朝廷などの儀式に出向くたびに、ねねではなく京極殿を連れていくことも知っている、だが嫉妬心も、自分に対する卑下の心もおこらない、むしろその方がありがたいと思うのだ
だから大名にしても苦労を共にしてきた前田利家、自分が育てた加藤、福島、黒田、宇喜多、木下秀俊(後の小早川秀秋)と今も親しみ
石田三成など近江長浜以後の家臣は遠ざけている、そんな生きざまは徳川家康と似たところがあり、近年、家康は江戸、大坂を往復するたびに政所ねねのもとにご機嫌伺いするのが慣例化している。
なぜか、ねねは秀吉のきらびやかな生きざまより、質素で堅実な家康に昔の秀吉を見るのであった。

 大概の側室は秀吉の権力と財力に満足して従っている、淀殿も京極殿も過去の単なる武将の秀吉ならばここまで従順には従わなかっただろう
だが二人は他の側室とは違い、この世の上位の権力者の家に生まれ育った女だ、少なくとも贅沢や金銭に目がくらんで従ってはいない、淀が言ったように強い者に守られたいという気持ちがあって、秀吉にはそれがある。
並みの男では自分の値打ちも下がるというプライドもある、他の女たちをかしずかせる地位を手に入れることが出来る。
秀吉にしても日本中の男の誰もが手に入れられぬ、この世で最高の女から頼られている満足感が、秀吉の脳を痺れさせている
その女を自由にできる「男冥利に尽きる」満足である。
京極竜子といると、秀吉の萎みかけた夢が再び膨らんでいく、明日の活力が湧き出してくる、世間並みの老人意識がエネルギッシュな青年に蘇る
こんな日々が名護屋で続いている。
そして9月には石田三成から明との50日間の停戦の知らせが入ったのだった
それから10月には秀勝の死、淀の上洛と続き、朝鮮では相変わらず朝鮮国民の抵抗戦が続いていて気は休まらないまま、12月に天正から文禄元年に年号が変わり、一か月で文禄2年が明けた。

 50日の明との停戦期間が終わった12月には、早くも遼東あたりに明の軍勢が集結しているとの連絡が入った。
同時に加藤清正から「兵糧が届かず、現地調達で凌いでいるがこれからの冬を越せるかはなはだ疑問である、先日は攻め込んできた朝鮮軍を撃退したが、負傷者に加え、病人も増えてきた、威鏡道の奥部は我らに同調した朝鮮同胞に任せたが、中部あたりの小城に割拠する家臣たちは飢えに苦しんでいる
なんとかしてもらいたい。 小西行長、石田三成の我らに対する差別は我慢の限界を越えそうである」と言ってきた。
秀吉は直ちに返書を書いて送らせた、これが加藤に届くには1か月近くかかるだろう
「威鏡道平定、あっぱれである、なれど今後は戦線は平壌、漢城に集中するようであるから、そなたが小西らとそりが合わぬのであれば鍋島を名代として、小西らと相談して遼東の明軍に対処するようにして、そなたも早急に漢城に入り敵に備えよ」そう伝えた。
 
 1月早々、雪の降る中を、明と朝鮮の連合軍は5万の大軍で平壌城を囲んだ
激しい攻防が始まり15000足らずの小西軍はじわじわと城の要所を奪われ、堅固に補強した本丸に籠って鉄砲を撃ちかけると、明軍は城外に撤退した。
城方の死傷者は多く、このままでは3日は持つまいと判断して翌日の深夜に撤退を開始した、気づいた明、朝鮮軍、さらに平安道の義兵も追いかけてきた
殿軍は多くの損害を出しながらも、なんとか大同江を渡り開城まで撤退した
点呼すると15000あった兵が1万ほどにまで減っていた、その後もパラパラと敗残の兵がたどり着き12000ほどになった。
開城で小早川、黒田の軍団と再会して、ようやく一息つくことが出来たが、ここもいずれ危うくなるだろうと漢城まで撤退することにした。
李如松将軍が率いる明軍は平壌を落し、開城も奪い返した勢いのままに、漢城も占領しようと6万に膨れ上がった軍を率いて、漢城から15kmほど手前の碧蹄館に侵攻して、ここに陣を張った
しかし漢城に集結した日本軍も6万近くに膨れ上がり互角の兵力となった
九州の猛将立花宗茂が5000を率いて先陣を切り、敵の第一陣に真正面から突撃した、敵の先陣の多くは侵略大国の常とう手段で外人部隊を配置している
それは明が属国にした国から連れてきた兵で、戦意は著しく低い
元寇の時、日本に攻め寄せた元軍の水兵の大部分が、元が占領した高麗兵だったことでもわかる。
そのため戦意が高い立花隊はたちまち敵の先手を打ち破って、二陣、三陣と突き進んだ、桶狭間に突入した織田信長の戦法そのものであった
しかし明兵は鉄砲を装備している、本陣に近づくにつれ立花隊の損失は増えていく、ついに撤退を始めた
敵はどっと立花隊を追いかけたが、そこに第二陣の小早川本隊2万現れて追いすがる敵兵を攻撃した
先頭を走って来た朝鮮軍が真っ先に餌食になった、鉄砲の一斉射撃のあと、小早川隊の突撃が開始された、それは今までの敗北のうっぷん晴らしのように激しい攻撃であった。
小早川隊は深追いせず、軍を戻して陣を整えた。
緒戦に後手に回ったので、李将軍は挽回しようと総攻撃を行うことにした
そして2万を割いて、けが人多数の小西が守る手薄であろう漢城を急襲させる作戦を取った、しかし、放っておいた間者がそれを発見してすぐに総大将の宇喜多秀家に伝えた
「敵の侵攻路をすぐに推定して伏兵を配置するぞ、12000をもって隊を3つに分けて包囲できる布陣にせよ、小早川隊には敵に悟られぬよう、正面攻撃をしていただく、全軍で突入して血路をこじ開けていただけば左右に展開して後方に回っていただく、それを見て我ら本隊は13000で敵の本陣に突撃いたす
敵が逃げ出したら小早川隊は包み込むように退路から鉄砲で攻撃するように
地形を利用して、常に有利な位置を占めて攻撃せよ」
 2万の漢城攻撃隊は、まんまと宇喜多の作戦にはまった、高台から待ち伏せしていた宇喜多隊によって手痛い敗北を喫した
同じころ、小早川隊が突撃を開始、予定通りに左右から後方に回ると、宇喜多隊が間髪入れずに突撃を始めた
まるで錐が穴を開けていくようなすさまじい突撃であった、さすがの李如松将軍も支えきれず後退した
そこに迂回した小早川軍が突撃してきた、鉄砲も放たれた、李将軍の馬が撃たれて将軍は落馬した、これを見逃さず小早川秀包の部隊1500が首を求めて攻め寄せた、しかし敵も将軍を討たせまいと必死に守る
そこに鉄砲が撃ち込まれて、明の兵は次々と討たれた。それでも人数に任せて押し返す、死闘だ、だが本陣に攻め込まれた明軍が崩れ始めた
そしてようやく新たな馬を得た李将軍は部下に守られて開城への撤退を始めた
日本軍は追わず、ここで勝どきを上げた
日本軍の死傷者は2500ほど、明、朝鮮の死傷者は1万近い大勝利であった。
明軍は開城も捨てて、平壌まで撤退した、日本軍も開城の再占領をしなかった
明軍の李将軍は大敗した上に自らも負傷して戦意を失い、遼東城まで退避した。
日本軍も勝ったとはいえ傷は深い、この先今回以上の敵勢が攻め寄せることを想定すれば、進出より守りを固めることの方に重点を置かざるを得ないので、開城は緩衝地帯のようになった。



全国男子駅伝 大相撲初場所

2023年01月23日 10時08分02秒 | マラソン/駅伝
天皇盃 全国男子駅伝は長野県が前回大会(2020)に続き連覇、全国トップ9回目の優勝を果たした
4区中学生、5区高校生が区間新の区間賞でトップに浮上して逃げ切った
アンカーは数十年ぶりに箱根駅伝に出場した立教大陸上部監督の上野雄一郎選手、上位3チームの中では他のアンカーより持ちタイムが1分以上遅いし、年齢も30代後半
50秒ほどの差でタスキをもらって13kmを走った、「大丈夫かな」と心配したが、さすがはベテラン30秒差ほどで余裕で逃げ切った
上野選手は自信あんかーで優勝テープを切るのは4回目だから、これも最多だろう、そして優勝記録も新記録だった。
「yottin3県」では駅伝王国長野県は堂々の連覇の優勝、
新潟県は1区41位と出遅れたが、徐々に32位まで押し上げてきてアンカーに
アンカーは箱根駅伝5区山登りで監督から「山の妖精」と呼ばれて活躍した城西大の山本唯翔が区間4位の走りで9人抜き、目標の20位台23位に押し上げた
富山県は39位だった。


大相撲は朝乃山が14勝1敗で十両優勝を果たした、大オマケで来場所は再入幕があるのかどうかが気になる。
圧倒的な強さの役力士が欲しい角界だから、特例があっても不思議はない
たしかに規律違反だったが、1年間の出場停止と言う思い罰を済ませての十両優勝だから、特例があってもいいだろうと思う。
なんせ一番も取らずに、ナンバー2の大関から無給の三段目まで落とされたのだから。 再入幕したら14勝以上で優勝して一気に小結まで上がるよう頑張ってもらいたい。
幕尻優勝は近年2回あったから不可能ではあるまい。
さてこの後、最期の一番で貴景勝か琴勝峰が12勝3敗で優勝する
レベルが低いからあまり関心はない、どちらが優勝しても良いが、貴景勝が優勝すれば、来場所の成績次第で横綱昇進という話が出るんだろうな。
でも貴景勝も何だかわからない故障が起きることがあるから、万全の横綱とはならないだろう、照ノ富士のように時期に休場となる恐れもある。
横綱も大関もいない場所になることもないとは言えない、そうなれば珍事!
粗悪品の乱造も困るし、早く万全な大関、横綱が欲しいだろう。
横綱土俵入りが無いから、最期の弓取り式が盛り上がっている。

以上で締めくくろうと思ったが、優勝インタビューを聞いて少し気持ちが変わった。 貴景勝が土俵上のイメージと違って能弁だったので驚いた。
「結婚後初めての優勝で嬉しかった」と言った。 結婚してたのか。
その後も意外とアットホームな発言があってびっくり。
しかもしっかりした言動で、真面目さが伝わった。
通算優勝3回、最近の5場所くらいはずっと2桁を続けているが、
横綱になるには連続3場所36勝、今は35勝か? 横綱、大関のライバルが不在の中での成績、10敗まだ取りこぼしが多すぎる。
このライバル不在の状況の中では39勝しなければ胸を張って横綱昇進とは言えない
協会は来場所13勝すれば準優勝でも昇進させるだろう、だけどそれでは甘すぎる、関脇、小結を一蹴する強さを発揮して、せめて日馬富士くらいの強さが欲しい。あとはケガするなと言いたい、豊昇龍も来場所には万全にして、無理な投げをしなくても勝てる強さを身に着けてほしい。
若元春、若隆景の兄弟関脇が実現しそう、若元春の方が兄で後発だが、表情を見るとこっちの方が横綱の風格が見える、頑張れば横綱になれると思う。
若隆景は名大関までかな、二人が競い合えば兄弟横綱もあるかも
でも若乃花、貴乃花の兄弟横綱のような上げ方をすれば無理が露呈して「おにいちゃん」みたいな横綱になるかもしれない。
実力どうりの昇進を望む。




空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 132 秀吉の孤独

2023年01月22日 18時14分09秒 | 貧乏太閤記
 9月に入って朝鮮北部(主に現北朝鮮)は落ち着いた、しかし日本軍にとって手薄な南部は問題である釜山に戻った石田三成に秀吉から命令が来た
「停戦の今のうちに晋州城を攻め落として羅州を占領せよ」と言う
無傷の九番隊(秀勝.細川隊)、七番隊(毛利輝元)に役目が回ってきた
細川忠興を総大将にして2万5000の大軍で攻め寄せた、守るのは朝鮮軍将、金時政率いる5000だ、この戦は錦山城戦と全く同じ流れであった、「義兵長」郭再祐が2000の義兵を率いて後方かく乱を行って、城兵を助けた
義兵到来に備えていた攻城軍の毛利隊の一部が攻撃に行くと、横合いから政府軍の後詰が攻撃を仕掛けたので、毛利隊は乱れた
その間にまたしても兵糧が襲われたのである、これに勢いを得た籠城軍は大将金時政自ら打って出た、不意を突かれた細川軍は被害を出した
勝利した朝鮮軍は意気揚々として城に戻ったが、その時、銃弾が一発、金時政の太ももに命中した。
兵糧を焼かれた細川軍は結局撤退した、錦山城攻めに続き、またしても城攻めに失敗したので秀吉は怒り狂った
明との戦は休戦したが、結局戦そのものは継続していた、秀吉は母の遺言であれ、帝の命令であれ、もはや自分自身を止めることが出来なくなっていた。

 しかしである、「因果応報」、母と上皇への誓いをも破って戦をやめると決めながらますます、のめりこんでいく秀吉に神は罰を与えたのだろうか
「殿下、朝鮮の石田様からです」その手紙を読んだ秀吉の手が震えた
「しまった! またやってしもうた」
養子の豊臣(小吉)秀勝が巨済島で病死したという便りであった
小吉秀勝、秀吉の姉の子で関白秀次の弟だ、秀吉の子や養子では三人目の秀勝である。 最初は「ふじ」との実子、二人目は信長公からいただいた小吉秀勝、そして小吉秀勝、いずれも若いうちに亡くなった
他にも淀との間に出来た実子の鶴松も3歳で死んだ、子供運に恵まれないのは秀吉の生まれた星のせいなのだろうか
わずか3か月の間に、母と養子を亡くした秀吉の心中はいかがであったか

 しかし最初に決まっていた婚約を秀吉の圧力で破棄され、新たに秀吉から与えられた夫、秀勝を失った「江」(淀の妹)の気持ちは秀吉の比ではなかった
京で夫の訃報を聞いた「江」はふさぎ込んで寝込んでしまったという
名護屋に居て、秀勝の死を聞いた淀は秀吉に
「江の気持ちを思うと、ここでゆっくりとはしておれません、私が都に戻って江に付き添ってやりたいので、どうか都へ戻ることをお許しください」と言った
秀吉も姉妹の情として当然であると、これを許し「儂も行きたいところであるが、母の葬儀で往復したばかりじゃ、朝鮮も今が正念場だから日を改めて追うことにしよう、そなたと共に警護を兼ねて秀保(秀勝の弟)と大野治長に送らせる、秀勝の遺灰も持たせるから、京で秀次と相談して仮葬儀を執り行うよう申し付けておこう」
こうして淀は名護屋を後にした。
これで秀吉の後を継ぐ候補としては、関白秀次が99%決まったに等しい
秀吉は加藤清正が送ってくれた虎の生き胆などを食べて、励んでいるが、鶴松以後、淀も京極も妊娠の気配がないのであきらめの方が強くなっている。
「わしも老いたか、もはや自分の子に天下を受け継がせることはできないのか、天下を得て何んでも思い通りと思ったが、そうではなかった」
秀吉の落胆は戦況にも影響する、休戦中とはいえ朝鮮の動きは油断できない
だが相次ぐ不幸に秀吉の気持ちは沈んでいる
「明は停戦を受け入れたのに、なぜ朝鮮は受け入れぬのだ」いら立ちが募る
「そうだ秀勝が死んだからには美濃岐阜城が空く、誰ぞを入れねばならぬ、治長(大野)か三成(石田)がよいか?・・・今は簡単には決められぬか」
いろいろな問題が出てくる、三成もいない、大野治長も淀に付けて京にやった
身近な相談相手がいない
「前田利家も老いたし、徳川では腹を割った話が出来ぬ、こんなとき小六殿(蜂須賀正勝)か官兵衛がおれば気もまぎれるが」
黒田官兵衛は息子の黒田長政と共に朝鮮に渡っていたが、小西行長と加藤清正が水と油で双方から苦情を持ち込まれ、自分の思い通りの戦にならぬことに嫌気がさして、秀吉に訴えて帰国して豊前に籠っている。
蜂須賀小六こと蜂須賀正勝は秀吉の青年期からの長い付き合いで、出世の足掛かりになった男であった、一時は秀吉こと藤吉郎の雇い主でもあったのだ
心を許せる数少ない男であったが、6年前に60歳で亡くなり、今は朝鮮に渡っている息子の、蜂須賀家政が家督を継いでいる。
「ううむ たまらぬ、この寂しさは何なのだ」誰にも話せぬ胸の内に苦しむ秀吉を、誰が想像できようか
この寂しさの大半は、母と鶴松と秀長を相次いで失ったところからきているのだと思った
「こんな時は竜子に限る」秀吉は京極殿の屋敷へと向かった、唯一心が休まる場所だった、竜子は利口だ、いつでも秀吉の今の気持ちを理解して、それに合わせて対応できる女性であった。
「儂はこの頃、夢ばかり見ているのじゃ」
「どのような夢ですか」
「秀長が、儂にあれこれ注文ばかり付けて、うるさくてかなわぬ夢なのだ」
「それはまた」
「だがのう、そのうるさい注文を聞いているとなぜかやる気がわいてくる、心地良いのじゃ」
「秀長さまはいつも殿下を慕っておられましたから、夢に出てこられるのでしょう」
「誰ぞかが申して居った、夢に出てくるのではなく、自分の魂が会いたい相手の魂に会いに行くのじゃと」
「そうなのですか、それで私はいつも殿下の夢を見るのですね」
「そうか、儂の夢を見るか」「はい」
「そうか そうか 愛い奴じゃ竜子は」ようやく秀吉の憂鬱は消え去ったようである
愛する者たちが次々と去っていき、50代の秀吉の孤立感は増すばかりだ
まだ中級武士であった頃は野武士から旅の僧、行商人、旅芸人、得体のしれぬ者まで、いつも秀吉の屋敷に集まって来たものだ、風通しが良かった
それで諸国の情報を織田家中の誰より早く仕入れて活用し、信長に重宝されて出世したのだった。
今では、大名さえ秀吉の権威を恐れて気安く話そうとはしない、それが出来たのは秀長と大政所と、ねね、それと利休、小六くらいであった
前田利家でさえ家臣となった今、諫言は一切言わなくなった。
だが母と弟秀長、小六は死に、利休は自らの手で殺してしまった
今、こうなってみると京極殿、淀殿の二人だけが心を癒せる場所となった




ドラマの夢見そう

2023年01月22日 08時38分07秒 | 映画/ドラマ/アニメ
今年の新たな挑戦は「テレビドラマをバンバン見るぞ!」
ということで、新番組が始まる1月からスタート、早くも初回見逃しがいくつかあるが、まあそれは2回目からでもいいや(見逃し配信もあるが、それを見るほど余裕なし)
ちょっと整理しないと、タイトルと中身が一致しないほどたくさんにな
                   太字 好きな俳優
1,△女神の教室 弁護士養成所の物語 
  北川景子  山田裕貴  及川光博
2、◎罠の戦争 大臣秘書の大臣と政界への復讐劇
  井川遥 草彅剛 本田博太郎 片平なぎさ 高橋克典 
3,◎夕暮れに手をつなぐ 婚約者に振られた田舎娘の新たな恋
  広瀬すず 永瀬 簾
4,△星降る夜に ろうあの青年と年上の女性の恋
  吉高由里子 北村匠海 千葉雄大
5,△リバーサルオーケストラ 2流楽団の団員
  門脇麦  田中圭
6,〇スタンドUPスタート 社会の落ちこぼれ社員を再生成功させる男 
  山下美月 竜星涼 小泉孝太郎
7,✕忍者に結婚は難しい  現代版、甲賀と伊賀忍者の争いなのに夫婦とは
  菜々緒 鈴木伸之
8,◎100万回言えばよかった 幽霊になった男と幽霊が見える刑事
  井上真央 佐藤健 松山ケンイチ シムウンギョン
9,〇リエゾン 発達障碍児とその親を助ける施設の物語
  松本穂香 山崎育三郎 栗山千秋
10,◎大病院占拠 謎の鬼面集団が大病院占拠でネット配信
  比嘉愛未  櫻井翔  ソニン 渡部篤郎
11,〇どうする家康 情けない家康が毎回どうする? 大河ドラマ
  有村架純 松本潤 岡田准一 山田裕貴 松嶋菜々子
12,△ハマる男に蹴りたい女 リストラ男が下宿屋管理人に 下宿の女たち
  関水渚 大地真央 藤ケ谷太輔
13,◎getready  大学病院と闇医者チーム、追う警察
  松下奈緒 妻夫木聡 藤原竜也 

ドラマを急に見だした理由
1,ヒマである
2,今人気の俳優を覚えたい(話のタネ)
3,連続で続ける何かが欲しい
4,美人女優は目の保養