おはようございます。アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
昨日(12月9日)は、月曜日以降の激務に備えてリハビリに励んだ1日でした。
やはり5日間の入院疲れがあります。
ブックオフに古本を売りに行ったり、家族3人で新井薬師前駅近くの居酒屋にランチに出かけたりをして、午後は2時間ほど昼寝をしました。
お昼に家族で出かけた折は、透き通る青空の下で初冬の情緒を味わうことができました。
(タクロウ撮影)
(カミさん撮影)
さて、今日から飛び飛びの3回で16年近く前の巻頭言から「人を育てる」をテーマに紹介します。
過去の巻頭言から(6):人を育てる(1)ー21世紀の教育ビジョン(2002年1月号)
2002年1~3月のニュースレターのテーマは「人を育てる」としたく存じます。
私自身は、先鞭を切る意味で『学校経営』(2001年6月号、第一法規出版)に投稿した内容にほんの一部を手直しして、21世紀の教育ビジョンを問うことにしたいと思います。
普段の「です、ます調」でなく、「である調」の部分は、手直しせずにおきますので、ご容赦下さい。
21世紀の教育ビジョン
20世紀的な教育と21世紀的な教育とでは、「きょういく」と読ませる意味内容が次表のように大きく移行しつつあることを念頭に置いておきたい。
20世紀の教育 21世紀の教育
恐育、矯育、競育 響育、共育、協育
これは私の受け止め方に過ぎないが、従来、学校教育の中に次のような信念があったように思えてならなかった。
その第一は、子どもたちは放っておくと悪いことをするので、徹底した管理が必要である。
第二は、具合の悪いところを見つけ、正すことが教育者の役割である。
第三は、社会が競争的であるから、子どもたちを早い時期から競争に慣らしておかねばならない。
私は、21世紀になって上記のような20世紀型の教育の信念を脱却して、新しいビジョンに移行しなければならないと、常々考えている。
まず、21世紀的な教育ビジョンを提案するにあたって、第一の信念の「恐育」についての移行から始めよう。
第一の信念は、性悪説に起源を発している。
子どもたちは放っておくと悪いことをするので、徹底した管理や統制が必要で、恐怖やそれに基づく罰が悪い行動が出ないように歯止めになる、と考えるのである。
恐怖によるモチベーションである。
心理学的な立場からすると、人は恐怖に出合ったとき、二つの典型的な反応をする。
「ファイト・オア・フライト」とよく言われるが、「戦うか逃げるか」である。
「戦う」ならまだよさそうだと思われるだろうが、確かに短期的には成果が上がる場合があるが、反面、プレッシャーに負けて土壇場で本領を発揮できないことがあるし、長期的にはストレスフルになり、完全に意欲をそがれてしまうこともある。
「逃げる」場合には、身の安全を第一に考えてしまうため、協力的になれそうもないし、集団に所属していたとしても実際は面従腹背になることが多い。
恐怖に基づく罰を考えてみると、①望ましくない行動をやめさせることができても、好ましい行動を動機づけることができない。②望ましくない行動と罰との間の一貫性がないため学習のチャンスにならない、③子どもを消極的・依存的にしてしまう、④罰を与える教師と罰を与えない教師とに対して顔色を見ながら器用に適応する子どもが育つ、などの弊害をぬぐい去れない。
こう書くと逆の見方をする人がいる「それでは、罰をやめて賞を与える教育をすればいいのか?」と。
ノー! 賞を与える教育は、第三の「競育」の一種で、子どもたちを競争に向けて動機づける方法でしかなく、罰と似たり寄ったりの副作用をもたらす。
21世紀の教育ビジョンは、賞罰を超えて目標なり意義、使命といったものに向けて本人が内発的に自らを動機づけるものでなければならない。
全体の中での位置づけが明確で、本人が目標をハッキリと認識し、自分の果たすべき役割について自分が納得したとき、人は意欲的・創造的になる。
第二の、具合の悪いところを見つけ、正すことが教育者の役割である、という「矯育」の信念からの移行を試みよう。
広い意味での指導者は教えるのが好きである。
さらには、できる人、得意な人が、できない人、不得意な人を見る視点に立つ。
すると、どうしてもできない部分、不得意な部分が気になって気になって仕方がない。
つい過剰に教えようとする。
矯正しようとする。
個性を無視してしまいがちになる。
「相手の目で見、相手の耳で聞き、相手の心で感じる」という共感の視点がどうしても欠落してしまい、自分の立場から、高い視点から判断しがちになる。
立場を逆にして、指導される立場で受け止めよう。
彼らに十分な心の備えがあればまだしも、そうでない時は混乱するし、また、欠点や弱みを指摘されればされるほど、その部分が気になって仕方がなくなる。
萎縮するのだ。
その結果、本来持っていたはずの強みさえ十分に機能しなくなるのである。
いわゆる「ダメ出し」こそが教育の根本だと思っている人がいるとしたら、どうか今日限りその考えを放棄して欲しい。
人は、具合の悪い部分を指摘されればされるほど、その部分の出現頻度は高まるのである。
これは「強化」と言われる心理学上の法則である。
対案としては、これまた発想転換である。「ダメ出し」に代わる「ヨイ出し」、「悪いとこ探し」に代わる「良いとこ探し」をするのである。
こう言うと、一部の人から必ず反論が出る。
「『ヨイ出し』『良いとこ探し』をしようとしても良いところがちっとも見つかりません」と。
ウソである。
良いところがない人は一人もいないし、行動にしてもよいとこだらけのはずだ。
ただ当たり前に思っていることが多いし、良い行動にしても目立たないものだ。
学校に来るのも良いこと、静かに椅子に座っているのも良いこと、授業をおとなしく聴いているのも、みんな良いことだ。
これからは意識的に努力して「ヨイ出し」「良いとこ探し」をしよう。
そして「ダメ出し」「悪いとこ探し」は必要最小限にすること。
こうしたことを続けているうちに学校の雰囲気が結合的になり、「共育」の風土が生まれてくる。
最後に、社会が競争的であるから、子どもたちを早い時期から競争に慣らしておかねばならない、という「競育」の信念からの移行を試みよう。
誤解のないように私の立場をまず明らかにしておきたい。
私は、競争を頭から否定するのではない。
科学技術や経営などのさまざまな分野は、競争により限りない進歩を遂げている。
問題は、競争が人間関係にもたらされる場合である。
競争を刺激すればするほど、集団は協力的でなくなる。
自分の成果がまず第一優先順位で、他者は自分の立場を危うくする存在だ、という判断が働く。
競争によって一部の卓越した存在を生み出すことができるかもしれないが、沢山の敗者を生み出す。
バラツキが大きくなるのである、
競争について語り出すとキリがないので、「競争が本当に幸福をもたらしているのか?」「競争は人間に生得的なものか?」などに興味をお持ちの方には、アメリカのジャーナリストのアルフィ・コーンという人の書いた『競争社会をこえて ー ノー・コンテストの時代』(法政大学出版局)の一読をお勧めしたい。
もう一つ私の立場を明確にしておきたい。
運動会で駆けっこをする際に、遅い人は遅い人たちのグループで、早い人は早い人たちのグループにしたり、一部の人をショートカットしたり、「みんなで手をつないでゴールインしよう」というような学校があるが、こういったことを奨励しているわけではない。
特定のことだけ(勉強なら勉強だけ、運動なら運動だけ)に価値を与え、その価値を満たしたものだけが勝者になるメカニズムに異論があるのである。
多元的な価値を認め、生徒一人ひとりの得意分野が認められ、それぞれに居場所があり、得意な人が得意でない人に教えるような、相互啓発的な風土が望ましいのである。
アメリカのアドラー心理学の文献を読むと、次のような場面によく出くわすことがある。
・誰かがよい成績を取っていると教師は、「○○君は誰かその科目で困っている人のためにできることがないかな?」と他者への貢献を働きかける。
・クラス会議の際は、この一週間の迷惑をかけられたこと、困ったことよりも、この一週間のうちに誰かから助けられて良かったこと、目立たないけれども建設的な誰かの行動を発表することを教師が勧める。
・問題が起きた場合には、問題を可能性、チャレンジ目標と見なし、短期的に除去するのではなく、クラスの長期的な解決目標とし、みんなの協力のもとに克服しようとする雰囲気を作る。
このような教師の姿勢によって子どもたちは競争することよりも協力することの喜びを味わい、「競育」から「協育」へと移行する。
◆2018年のペルグリーノ博士を迎えてのワークショップは幕明けに「教育に生かすアドラー心理学」のタイトルで7月28日(土)、29日(日)に開催する予定です。
今から手帳にご記入のほど。
<お目休めコーナー>12月の花(9)
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