おはようございます。アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
今日12月30日は、私の70回目の誕生日です。
「人生七十古来稀なり」と杜甫に言わしめた「古稀」となります。
ペルグリーノ博士をはじめ多くの方々に祝福を受けています。
(宇都宮開催のアドラー心理学ベーシック・コース にて)
ご参加の方々からは私の著作を張り詰めた上にシール状の寄せ書きをいただきました。
(名古屋開催のアドラー心理学ベーシック・コース の懇親会で)
胡蝶蘭やいろいろなプレゼントをいただきましたが、個人名などの詳細は省略します。
私は、誕生日には必ず「父母恩重経」のお経を唱えることにしています。
私を生んだ両親に心からの感謝を表明するためです。
51歳の時に「父母恩重経」をもとに両親のことを書いた記事がありますので、アーカイブ(記録文書)として掲載いたします。
過去の巻頭言から(10):母(1)(1999年3月号)
諸人よ 思い知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日
今は亡き薬師寺管主、高田好胤師の著書『母-父母恩重経を語る』(角川文庫)に引用された詠み人知らずの歌です。
意訳すれば「みんなみんな、よく知っておいてほしい。あなたが自分にとって誕生した日は、お母さんにとっては、(あなたを産むために)とてもとても苦しかった日なのですよ」ということでしょうか。
私の母がこの世を去って5年半、今年の9月には7回忌が行われるはずですが、年毎に「諸人よ」の歌が心に染みてくるようになりました。
これも年のせいなのでしょうか。
私が幼かった頃から周囲の人たちから何度も何度も聞かされていた言葉があります。
「俊憲、おまえがお母さんのおなかに宿ったとき、お母さんはお医者さんに言われていたんだよ。『この子を産むのは無理です。命は保証できません』って。それでもお母さんは言ったんだよ。『私はどうなってもいいからこの子を産みたい』って」
東京から栃木県に疎開した年に2歳上の兄が終戦の前日の8月14日に生まれ、兄が2歳4カ月の昭和22年、まだ終戦後の食糧事情の悪いとき、5人目の子を産むためにはかなりの覚悟がいったと思われます。
そのせいかどうか、母は体の弱い人でした。
私の小さい頃の母の思い出は、入院したり、床に横たわっている姿が多いようです。
いくつかの思い出を次回に譲るとして、今年の1月15日、私の子どものタクロウが9歳の誕生日に、私と彼とで近所に誕生ケーキを買いに行ったとき、タクロウは「お母さんに花を買っていこう」と言い出し、二人で買い求めました。
家に帰るやいなや孝憲は、ケーキをさしおいて花束を彼の母親にプレゼントとしました、ひとつの言葉を添えて。
「お母さん、ボクを産んでくれてありがとう」
私は、母の生前一言も母に向かってこの言葉が言えませんでしたが、孝憲は平気で言える子に育ちました。
私は、今、せめて年に一回でも私の誕生日には仏壇に向かって父母恩重経を唱えながら「ボクを産んでくれてありがとう」と言い、詠み人知らずの歌を思い起こそうと思っています。
諸人よ 思い知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日
<お目休めコーナー>12月の花(30)
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