おはようございます。アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
昨日(12月30日)の私の70歳(古稀)の誕生日に際しましては、メール、フェイスブックのメッセンジャー・コメントなどで数多くのご祝辞を賜り感謝の気持ちで一杯です。
本来ならば、お一人おひとりにお返ししなければならないのですが、お気持ちをしっかりと胸に刻むかたちで失礼をさせていただきます。
皆様、本当にありがとうございました。
昨日の晩は、タクロウ(息子のニックネームです)が私とカミさんだけでなく義母も交えて、 雨後晴 青山店 を予約して古稀の祝いの宴を設けてくれました。
和食のコースに銘酒も入り、会話が弾みました。
料理がおいしいだけでなく器もきれい。
特に大阪のお酒「秋鹿」は、独特の徳利とおちょこが使われ味も絶妙でした。
宴の終盤になると、目録、手紙それぞれ2通が渡されました。
目録のその1は、カミさんと2人によるコートのプレゼント、そしてその2は、2泊3日の家族旅行の申し出でした。
手紙は、家に帰ってから読みように言われ、それぞれ信頼と感謝のメッセージに満ちていて、私の涙腺は、もろくも崩壊してしまいました。
家族に恵まれていることをとてもありがたく感じました。
そのルーツは私が生まれ育った家庭にあるのでしょう。
さて、昨日に続いて過去の巻頭言から母をテーマに。
過去の巻頭言から(11):母(2)(1999年4月号)
今は亡き母の姿を思い出そうとすると、病床の姿、エプロン姿とともに正座したりかがんでいる姿がなぜか思い出されます。
正座している姿の第一の思い出は、私の小学校4年生のころでしょうか、S先生という暴力教師が担任で、私は生意気なためかさんざん殴られ、学校に行くのがつくづく嫌になってしまって、当時PTAの副会長だった母に向かって「もう学校なんか行くのやだよー。副会長なんか辞めろ!」と泣き叫びながら、通信簿をビリビリ破いている思い出でした。
正座姿の第二の思い出は、私の中学3年生のころ、当時野球部に所属していて、センターで4番打者、何度も首位打者に輝いていた私が突然「野球部を辞める」と言ったときの思い出です。
二つの正座姿の際に母が具体的になんと言っていたか残念ながら覚えていませんが、必死になって止めようとすることはなかったように思い出されます。
特に2番目の思い出に関しては、「お前が判断したことだから、お前が好きなようにすればいいんだよ」というように言われたようです。
母は一度も私に「勉強しなさい」と言ったことがありませんでした。
高校を受験するときも、大学の時もどこを受験するのか詮索することがありませんでした。
就職の時もそうでした。
そういう点では、徹底した放任主義の教育だったようですが、基盤に信頼感があることを知っていました。
母がかがんでいる姿は、私が34歳の時、当時の妻と別居して、二人の子どもを抱えながらクレーマー・クレーマー(父子家庭)状態だったころ、母は時々栃木県から草加市の家に出向いてくれました。
ある日曜日の午前中、子どもたちも連れて近所にもち草を取りに行ったことがありました。
二人の子どもたちが勝手に遊んでいるとき、母は言いました。
「お前が子どものころ、よくこうしてもち草を取りに行ったね」
私は答えました。
「そうだね。それに山に行ってワラビやゼンマイを沢山採ったこともあったね」
言葉がとぎれてしばらくして、母はもち草とりに集中している素振りで私に背中を向けて、ふっと言いました。
「辛抱するんだよ」
私は言葉を失って、日に照らされてまぶしかった草花が、私には凸レンズで見るように映りました。
母は、私の話を受け止めるときは正座し、私に伝えるときは背中を向けて伝える明治45年3月生まれの人でした。
私は、そこに言葉があってもなくても、母が背中を向けて発したメッセージを忘れることができません。
<お目休めコーナー>12月の花(31)
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