石室を刳り貫いてトンネルにしてしまった。これは許せない。
このように見てみると中流域に集中しているように見えるが。
門司区である企救半島のほとんどが海から立ち上がったような山塊が南西方向に延び、川も無くまた、平野も形成せず人が住む場所ではなかった。
また、紫川と遠賀川で挟まれる空間は帆柱山系が大半を占めており、北面には殆どと言っていいほど平野部がない。南面は遠賀川に延びるように少しの平野が形成されている。この地には野面古墳が残されているだけではあるが、古墳時代の生活があったことの証明が出来る。
所謂かの時代における国というものを形成するにはあまりにも貧弱である。ただ、北九州市域南東部に拡がる曽根平野に前方後円墳を見ることが出来るということから小国を形成していたといっても過言ではあるまい。
三江線粕淵駅手前 江の川がヘアピンのように急に曲がる。トラスト橋の色はその昔は赤色だったに違いないが今では自然に溶け込むような色にしているようだな。
江の川はここからまた日本海に注ぐのかと思えるくらいに反転し、中国山地の奥深く入り込み三次を通り抜け、広島市北方までまるで八岐大蛇のようにうねうねとはい回るのである。
三江線はこの江の川がなければ鉄路は延びなかったであろう。
我輩の40年前は邑智町小原であり、駅名は今でも同じだが粕淵である。この先、浜原が終点で当時は三江北線と言っていた。当然国鉄の時代である。
今では国鉄を知らない人間のほうが多くなったかもしれないが。それに気動車であろうが客車列車であろうが何が何でも電車と言ってしまう馬鹿が多い(テレビ局でもそうだからあながち馬鹿ではないのかな)のには情けなくなる。そうそう鉄道ファンとかいう奴らもディーゼル車に乗っているにもかかわらず電車というのには驚かされる。殆ど馬鹿だがな。おっと話が逸れてしまった。三江北線が三次と繫がったのは昭和50年8月31日で、我輩が通り抜けた僅か13日後であった。悲しいかな山陽と山陰を結ぶべく大動脈になれず、鉄路としての役目を果たすことができなかった。
そういえば妻はどうしているだろうか。石見川本発の列車は13時45分ごろだったと記憶しているが、まだあと二時間もあるぞ。さぞ時間を持て余しているのだろうな。