下関駅に渡り、山陰本線に乗換、北上することにした。山陰本線は非電化でディーゼル列車が走る。本線とは言うものの殆どローカル線である。下関から小串まで、小串から長門市、長門市から益田までで、直通が走っていない。この煩わしさがローカル線特有である。それがまたこの上なく楽しい。時間待ちを利用して、少しの間でも散策ができるわけだ。
今回は小串で45分の待ち合わせが有ったので、小串の街並みを垣間見ることが出来た。
かつては漁村を形成していたであろうし、少しは宿場町の様子をも呈していたであろう。およそ南北に一筋の街道が延びている。これと言った特徴はないのだが、不思議と落ち着いた街並みで、潮風が吹き渡ってくる。
寂しいかな、山陰は横とのつながりが顕著でなく、山陽との縦の繋がりの方が顕著である。ここ小串は、馬関(下関)との繋がりが強かったであろうから、それより北方へ通じる道は今では明らかではないようだ。北方に行っても金にならず、かといって山陽に出るには一山も二山も越さねばならない。それなら下関におんぶされていたほうが得策であったに違いない。
と、考えながら歩いていたが、20分経過したので踵を返し、駅へと向かった。もう少し先へ進んでみたかったが次の機会にとっておこう。(写真:下関駅で)
今回は小串で45分の待ち合わせが有ったので、小串の街並みを垣間見ることが出来た。
かつては漁村を形成していたであろうし、少しは宿場町の様子をも呈していたであろう。およそ南北に一筋の街道が延びている。これと言った特徴はないのだが、不思議と落ち着いた街並みで、潮風が吹き渡ってくる。
寂しいかな、山陰は横とのつながりが顕著でなく、山陽との縦の繋がりの方が顕著である。ここ小串は、馬関(下関)との繋がりが強かったであろうから、それより北方へ通じる道は今では明らかではないようだ。北方に行っても金にならず、かといって山陽に出るには一山も二山も越さねばならない。それなら下関におんぶされていたほうが得策であったに違いない。
と、考えながら歩いていたが、20分経過したので踵を返し、駅へと向かった。もう少し先へ進んでみたかったが次の機会にとっておこう。(写真:下関駅で)
去年9月に訪れたとき、SLはまだ現役で活躍していた。少しずつ廃車にされていたようだ。写真を撮った後でD51が貨物を牽引する写真を撮った。(既にアップされているが)(写真:廃車)[1975 8 17 撮]
物好きなやつがいるものだと思っているのかもしれない。シャッターを切ったかどうかは知らないが、雨風を避ける立場ではなくなり、好被写体となりつつ益田市内へと進まされたのである。
何処をどう走ったか、既に記憶はなくなっているが、なんとか益田YHへたどりつき(目的地ではないが)ここで身体を休める事とした。この益田YHは古民家を利用したようだったか、という朧げな記憶しかない。ただ鮮明に頭の中に残っているのは「椎茸ジュース」なのである。冷蔵庫の中で5本が冷やされていた。無理にだか、自分で進んで飲んだのかも定かではないが、缶に入った売り物であった。
飲んでみた。椎茸そのものである。二度も三度も飲むものではない。一生に一度しか味わってなく、そこの冷蔵庫内だけにあり、島根県内では二度とお目に掛かることはなかったのである。恐らくお目に掛からないほうが良いと思った。
翌日は台風一過。朝から太陽が顔を出していた。私は益田YHを出て益田駅に行き、許可を得て構内にある廃車前の蒸気機関車と写真を撮った。その時はあの椎茸ジュースの味を忘れていたのだった。(写真:廃車前)
何処をどう走ったか、既に記憶はなくなっているが、なんとか益田YHへたどりつき(目的地ではないが)ここで身体を休める事とした。この益田YHは古民家を利用したようだったか、という朧げな記憶しかない。ただ鮮明に頭の中に残っているのは「椎茸ジュース」なのである。冷蔵庫の中で5本が冷やされていた。無理にだか、自分で進んで飲んだのかも定かではないが、缶に入った売り物であった。
飲んでみた。椎茸そのものである。二度も三度も飲むものではない。一生に一度しか味わってなく、そこの冷蔵庫内だけにあり、島根県内では二度とお目に掛かることはなかったのである。恐らくお目に掛からないほうが良いと思った。
翌日は台風一過。朝から太陽が顔を出していた。私は益田YHを出て益田駅に行き、許可を得て構内にある廃車前の蒸気機関車と写真を撮った。その時はあの椎茸ジュースの味を忘れていたのだった。(写真:廃車前)
戸田小浜の海岸線を写真に収めるつもりで立ち寄ることに決めたのだが、この日は強い台風に見舞われ、本来なら走る状況ではなかったのである。
しかし、その様なことは言っておられぬ。状況がどうであれ走って行かねばならぬ。横殴りの風雨に晒されながらも右に左にふらふらとしながらでも前進しなければならなかったのである。
なぜなら雨風を避ける場所が何処にも見当たらないのである。一年前の益田の風景が目に入ってきたときは何としても行かねばならなかったのである。辿り着けば何とかなるだろうという思いで必死に漕いでいた。すると右前方に避難場所にはもってこいのビルが目に飛び込んできた。これ幸いと更に足に力を入れて漕いだ。
ところがである。そのビルの屋上に人がいるではないか。目を凝らしてみると望遠レンズを取り付け、この台風で荒れる日本海を撮っているのであった。
この人物は物好きなだけである。我輩はやむにやまれず、避けるに避けられず走らざるを得ないのである。立場が全く異なる二人が同一の境遇にいるのである。
この立場の異なる二人は偶然にも意思が通じたのか屋上から我輩を見ている。しかもそのカメラをこちらに向けたのである。
しかし、その様なことは言っておられぬ。状況がどうであれ走って行かねばならぬ。横殴りの風雨に晒されながらも右に左にふらふらとしながらでも前進しなければならなかったのである。
なぜなら雨風を避ける場所が何処にも見当たらないのである。一年前の益田の風景が目に入ってきたときは何としても行かねばならなかったのである。辿り着けば何とかなるだろうという思いで必死に漕いでいた。すると右前方に避難場所にはもってこいのビルが目に飛び込んできた。これ幸いと更に足に力を入れて漕いだ。
ところがである。そのビルの屋上に人がいるではないか。目を凝らしてみると望遠レンズを取り付け、この台風で荒れる日本海を撮っているのであった。
この人物は物好きなだけである。我輩はやむにやまれず、避けるに避けられず走らざるを得ないのである。立場が全く異なる二人が同一の境遇にいるのである。
この立場の異なる二人は偶然にも意思が通じたのか屋上から我輩を見ている。しかもそのカメラをこちらに向けたのである。
学生時代の私は、街道、街並み等には興味がなく、ただ何処かに行くということにしか興味がなかったのである。為に益田がどのような街だったのか全く記憶がない。ただ、夕食を摂るのに入った赤提灯が夕闇の中で灯台の光のように感じたのを憶えている。その名も大衆食堂「はら鼓」という店であった。
その夜は橋の下で寝袋に入って深い眠りに落ちていったことまでを憶えている。
翌日は最短距離で駅に行くために線路内を歩き、後方から来た下り特急列車にこっぴどく警笛を鳴らされ、線路内からそうそうに退散させられたのであった。この当時の記憶は残念ながらこれだけである。またその翌年福井県までの自転車の旅でも訪れたこともある。(写真:当時のマッチ箱 局番がまだ一桁である)
その夜は橋の下で寝袋に入って深い眠りに落ちていったことまでを憶えている。
翌日は最短距離で駅に行くために線路内を歩き、後方から来た下り特急列車にこっぴどく警笛を鳴らされ、線路内からそうそうに退散させられたのであった。この当時の記憶は残念ながらこれだけである。またその翌年福井県までの自転車の旅でも訪れたこともある。(写真:当時のマッチ箱 局番がまだ一桁である)
暖冬により気象庁の開花予想も早くなった。と思って入る矢先、寒の戻りとなり世の中が全てちじこまったようである。桜も用意をしていたのであろうが、もう一度外套を着てしまったようである。ところがである。この寒さの中、予想の外れる中で、やはり春はそこまで来ているのである。
ここは伯母の家の庭である。枝垂桜があるが、枝先に何輪かの花をつけているのである。この寒さの中では咲いているとは思ってもいないので気にも留めなかったのだが、ふと上を見上げると、「おっ、咲いているぞ」
もう二週間もすれば満開であろう。近所の方々の目を楽しませているのだそうで、毎年待ちわびているとのことだ。このような名も知れぬ所にあっても、桜は日本人の心にいつもあるものだ。
ここは伯母の家の庭である。枝垂桜があるが、枝先に何輪かの花をつけているのである。この寒さの中では咲いているとは思ってもいないので気にも留めなかったのだが、ふと上を見上げると、「おっ、咲いているぞ」
もう二週間もすれば満開であろう。近所の方々の目を楽しませているのだそうで、毎年待ちわびているとのことだ。このような名も知れぬ所にあっても、桜は日本人の心にいつもあるものだ。