おー。今までに見たことのない大集団がこちらをめがけて飛んで来ている。
右に左にと振られながら。しかも隊列を乱している。上空は風が強いのであろう。
先頭が入れ替わり立ち代りしつつ健気な姿がとって見えるのである。
本当に私の頭上で方角を変え、二百五十メートルの山を越えようとしている。
その瞬間先頭が高度を上げたのであろう。まるで糸がついているかのように後方の集団が引きずられてゆくようにみるみるうちにより高くなった。
素晴しい光景だ。こんなにどきどきと興奮させられたのは久しぶりだ。
自然界に棲み、生きていくためとはいえ、このような過酷なことをなぜするのであろう。不思議である。がしかし、感動の場面でもあるに違いない。
新聞に由れば三月までは見ることが出来るとはあったが、ほとんど毎日このような行動が営まれていくのである。
本日も先般と殆ど同時刻に同様のコースを渡って行った。目の前を第一派が通過したのですぐさまカメラを用意して構えたが上手く捉えることが出来なかった。
写真右上に第一派、中段左に第二派、第三派、第四派が合流したようだ。
南方向から強い風が吹き付けたのか各派が乱れてしまった。そこで三派、四派が二派に合流したようだ。夕陽に向かいつつ、大きく弧を描きつつ北に方向を変え日本海側を目指しているようであった。
写真が上手く撮れずにがっかりしてしまったが、次派が来ないものかと目を凝らして待っていると大集団がやって来た。第六派である。南から吹き付けてくる風に流されながら近づいてくる。このぶんだと頭上を飛ぶ。思ったとおりである。どきどきした。
風にあおられ、編隊を崩してもなお前に前に進む。丁度私の頭上で方向を変えたのだ。
幻想的な光景を目の当たりにして不思議な感覚に包まれている。
これでは昔の人達は道を失ったであろう。どこをどう歩いたかわからぬまま狐にでもつままれた思いをしたかもしれん。狐は広い荒野で、しかも夜だからそうではないかもしれん。
早朝に発つ人々は面食らっただろう。このような状況が二時間も三時間も続くのだから。
さて、子供の回答はこうだ「一里は四キロなので二十キロが霧で覆われている」
と言ったのだ。母親はと見るとただにこにこしている。正そうともしないのだ。この母親も意味を知らなかったのであろう。なんともはやだ。
「五里霧中」は後漢の張楷というものが術を用いて、五里にわたる霧を起こしたと言う故事からきている。中国の一里は約五百メートル位だ。二、五キロになる。
記憶するというのは良いことだが、それを使いきることが出来なければ意味がないと言うことを判ってもらいたい。数学の公式を憶えてもそれを駆使することが出来なければ答えは出ない。
今日は立春である。外に立って見ると凄いほどに霧が立っている。
太陽は幻想の中に白く真円を見せて浮かんでいる。
二、三十メートル先が殆ど見えないのである。久しぶりだ。冬ならではの現象である。
こんなときいつも思い出すのは「五里霧中」と言う言葉である。
深い霧の中で道に迷って、方角がわからなくなる。転じて、迷って思案がつかないということなのだが、なにを今更とお思いの方もおられるだろう。
以前テレビチャンピオンと言う番組で親子漢字チャンピオン大会なるものがあった。子供は小学生だ。そのときに「五里霧中」を答えとする問題が出た。
一組の親子がすぐさま正解を出した。子供はにこにこしている。
そこで司会者が意味を知っているかを聞いたのだ。子供は鬼の首を取ったかのような顔ですぐさま答えた。テレビを見ていた私は「えーっ、漢字さえ憶えりゃいいのか」と思わず声が出てしまった。