小雨の中で神事が始まる。
神妙な面持ちである。
やはりこれくらいの規模でこの石室があれば・・・船塚や九里双水のような大きいいのは「お山の大将俺一人」と言いながら遊ぶことができるからそれも良い。結局古墳であればいいのじゃないか。
向うは長崎道である。
この水仙は水神社近くの道端に咲いている。
この椿はある駐車場の後ろにあって樹高は3mあるだろうな周囲は藪になっていて狭苦しそうで少し可哀想だ。
このお宅では自然に任せてあるようだがもう少し手を入れてやっていただきたいといつも思うのである。
いらぬお世話だな。
近くを散歩するときに必ずと言って人の家の庭先を覗き伺うのである。それはあそこの家にはどの時季にどの花が咲き、あそこではこの花が咲くというふうに憶えているからである。道端にしてもそうである。ここにはこれが咲いていたからまた今年も咲くのだろうなと。そう考えながらいつも歩いている。
ところがある家にあった緋寒桜が伐採されて無くなっている。新しく家を建てそこを通路にしてしまったのである。他人の家の桜の木だからどうのこうのは言えないが実に惜しい。中津街道の名物が一つ無くなってしまった。
妻と歩くときも必ず桜を仰ぎ見て写真を撮ったものである。母を誘ってわざわざこの道を通ったものである。
椿は変わらず同じ場所で春を告げているようだし、彩のない冬にあって山茶花には負けるのだが彩色を放っている。