中沢新一 昭和63年 中公文庫版
チベット仏教つながり。
きのうチベット仏教の入門書を見てて、あー、あれを探さなきゃって思って、この文庫本を本棚から出してきた。
これを読んだのは、「虹の階梯」より前だったと思う。
第三章の「高原のスピノチスト」にある「レクチュア」は、東京のチベット文化研究会において1982年と1983年に行われた仏教レクチュアの記録ということですが。
ここに書いてあるチベット仏教の修行のさまに、私は魅せられました。(ほんとヘンなものに興味あるんだな、俺)
たとえば「セム・ティ」と呼ばれる禅の公案に似た問答形式の口頭伝授。
「人間の活動は身体と言葉と意識の三つでできているが、この三つのなかで一番もとをなすものはなにか」
考えに考えた末、「どれが元でもなく、三つが互いに産み出し循環している」と答えると、「それは間違ってる、三つが循環に陥るのは、まだお前の思考のレヴェルがある壁を突き抜けていない証拠だ」なんて言われて、もう一日たっぷり悩むことになる。
答えは、「意識がすべてのもと」なんだそうだけど。
そうやって、心の本性をめぐる質問について考えさせられるんだけど、ふつうの人より長く時間がかかったことについて、「それはお前がすこし勉強のしすぎで、くだらない知識を身につけすぎ、まるで素直じゃなくなっているからだ」と師から看破されちゃいます。
あー、くだらない勉強しすぎちゃ、真理に近づけないなー、と若い私が思ったのは、言うまでもありません
ポワの修行についても書かれていて。(ポワって用語については、あの教団の事件以来、なんか知らない人に誤解されてるみたいだけど)
修行のしかたについては「虹の階梯」にあるんだけど、意識を移し変えるっていうか、一種の幽体分離のテクニック。なんでも、頭にある心を解放する門を開くらしいんだが、この本には、次のような美しい光景が書かれています。
>胸のチャクラに観想したフリーという真言の文字を頭上に観想したアミターバ(無量光)の胸めがけて、何個も何個も飛び出させていく訓練が行なわれます。頭頂部の肉はもりあがり、そこからじくじくした液体がにじみ出します。頭頂部に「マハームドラーの扉」という穴がうがたれた証拠です。そのとき、チベット人の修行者は頭頂部の穴から草の茎を数センチも突込んで見せます。北インドのツォ・ペマという所に滞在していたとき、私の知合いのチベット人修行者がちょうどポワの修行をやっていて、それが成功したということがわかった日、頭に草の茎を突込んだまま、ほこらしくツォ・ペマじゅうを歩き回って見せていました。
これを読んで、あー、俺も胸から光の滴を頭頂に向けて飛び出させ穴あけてみたい、と若い私が思ったのは、無理からぬことと言えましょう。(いまもちょっとは思ってる)
そのほかにも、死にゆく人の耳元で、このあと自分はどうなっていくのか、恐れることはないんだと諭していく、『バルド・トゥドル』という本を読み聴かせるという臨終作法についても、この本で最初に知ったのかもしれません。
「体が重くなってきたのは、体を作っていた土のエレメントが元の元素へ戻ろうとしているからだ。喉や鼻が乾いてきたのは、体をつくっていた熱のエレメントが火のエレメントに戻ろうとしているからだ」とか、「これからお前は旅をしていく。まず右の方から月の光のような真っ白い道が下りてくる。続いて左の方から真っ赤な太陽のような光の道が下りてくる」とか、死者の意識がどうなるか、自分が四九日後に再生していくまでの過程を聴かせます。うーん、『チベットの死者の書』というものがあるのを知ったのは、これを読んだときでしたね、たぶん。
チベット密教の話以外にも、本書には、当時の私に刺激的だった、知に関する様々な情報が詰まってました。
弘法大師伝説として、日本のあちこちで泉を掘り出した空海は、流体土木に関する技術知を実践しようとした、とか。雪片曲線とか、フラクタル幾何学とは何か、とか。
なかでも、やっぱりチベットに話戻っちゃうんだけど、マンダラっていうのは、静的な絵ぢゃなくて、無数の渦巻でできている、流体の運動をはらんでいる、実際に、マンダラの「下絵」には、スケールの異なる無数の渦がふくまれた曲線が隠されている、って話は、とても魅力的。実際には止まってるものぢゃなくて、動きのあるものであると、しかも立体的構造をしている、ってのは、以降マンダラを眺めるとき、とても意識するようになった。
ほかでは、ジョン・ケージの茸の研究とか、もしかすると南方熊楠の名前を知ったのも、この本が初めてかもしれない。いっぽうで、ゲーム「ゼビウス」が切り開いた可能性とは何か、なんてことを軽やかに論じたりする。
また、私の好きな逸話、>海の中には大きな目玉を持ったヤリイカの群が、膨大な数で回遊している。ヤリイカの目玉には毎秒数千ビットの情報がはいってくる。しかしヤリイカにはその情報を処理するだけの脳がない。ではヤリイカは何のために大きな目玉を開いて回遊しつづけているのか。ヤリイカをとおして地球が「見る」ためである。 ってのも、この本のなかにある。ちなみに、これは細野晴臣の音楽について語っている『観光音楽』のなかの一節。
チベット仏教つながり。
きのうチベット仏教の入門書を見てて、あー、あれを探さなきゃって思って、この文庫本を本棚から出してきた。
これを読んだのは、「虹の階梯」より前だったと思う。
第三章の「高原のスピノチスト」にある「レクチュア」は、東京のチベット文化研究会において1982年と1983年に行われた仏教レクチュアの記録ということですが。
ここに書いてあるチベット仏教の修行のさまに、私は魅せられました。(ほんとヘンなものに興味あるんだな、俺)
たとえば「セム・ティ」と呼ばれる禅の公案に似た問答形式の口頭伝授。
「人間の活動は身体と言葉と意識の三つでできているが、この三つのなかで一番もとをなすものはなにか」
考えに考えた末、「どれが元でもなく、三つが互いに産み出し循環している」と答えると、「それは間違ってる、三つが循環に陥るのは、まだお前の思考のレヴェルがある壁を突き抜けていない証拠だ」なんて言われて、もう一日たっぷり悩むことになる。
答えは、「意識がすべてのもと」なんだそうだけど。
そうやって、心の本性をめぐる質問について考えさせられるんだけど、ふつうの人より長く時間がかかったことについて、「それはお前がすこし勉強のしすぎで、くだらない知識を身につけすぎ、まるで素直じゃなくなっているからだ」と師から看破されちゃいます。
あー、くだらない勉強しすぎちゃ、真理に近づけないなー、と若い私が思ったのは、言うまでもありません
ポワの修行についても書かれていて。(ポワって用語については、あの教団の事件以来、なんか知らない人に誤解されてるみたいだけど)
修行のしかたについては「虹の階梯」にあるんだけど、意識を移し変えるっていうか、一種の幽体分離のテクニック。なんでも、頭にある心を解放する門を開くらしいんだが、この本には、次のような美しい光景が書かれています。
>胸のチャクラに観想したフリーという真言の文字を頭上に観想したアミターバ(無量光)の胸めがけて、何個も何個も飛び出させていく訓練が行なわれます。頭頂部の肉はもりあがり、そこからじくじくした液体がにじみ出します。頭頂部に「マハームドラーの扉」という穴がうがたれた証拠です。そのとき、チベット人の修行者は頭頂部の穴から草の茎を数センチも突込んで見せます。北インドのツォ・ペマという所に滞在していたとき、私の知合いのチベット人修行者がちょうどポワの修行をやっていて、それが成功したということがわかった日、頭に草の茎を突込んだまま、ほこらしくツォ・ペマじゅうを歩き回って見せていました。
これを読んで、あー、俺も胸から光の滴を頭頂に向けて飛び出させ穴あけてみたい、と若い私が思ったのは、無理からぬことと言えましょう。(いまもちょっとは思ってる)
そのほかにも、死にゆく人の耳元で、このあと自分はどうなっていくのか、恐れることはないんだと諭していく、『バルド・トゥドル』という本を読み聴かせるという臨終作法についても、この本で最初に知ったのかもしれません。
「体が重くなってきたのは、体を作っていた土のエレメントが元の元素へ戻ろうとしているからだ。喉や鼻が乾いてきたのは、体をつくっていた熱のエレメントが火のエレメントに戻ろうとしているからだ」とか、「これからお前は旅をしていく。まず右の方から月の光のような真っ白い道が下りてくる。続いて左の方から真っ赤な太陽のような光の道が下りてくる」とか、死者の意識がどうなるか、自分が四九日後に再生していくまでの過程を聴かせます。うーん、『チベットの死者の書』というものがあるのを知ったのは、これを読んだときでしたね、たぶん。
チベット密教の話以外にも、本書には、当時の私に刺激的だった、知に関する様々な情報が詰まってました。
弘法大師伝説として、日本のあちこちで泉を掘り出した空海は、流体土木に関する技術知を実践しようとした、とか。雪片曲線とか、フラクタル幾何学とは何か、とか。
なかでも、やっぱりチベットに話戻っちゃうんだけど、マンダラっていうのは、静的な絵ぢゃなくて、無数の渦巻でできている、流体の運動をはらんでいる、実際に、マンダラの「下絵」には、スケールの異なる無数の渦がふくまれた曲線が隠されている、って話は、とても魅力的。実際には止まってるものぢゃなくて、動きのあるものであると、しかも立体的構造をしている、ってのは、以降マンダラを眺めるとき、とても意識するようになった。
ほかでは、ジョン・ケージの茸の研究とか、もしかすると南方熊楠の名前を知ったのも、この本が初めてかもしれない。いっぽうで、ゲーム「ゼビウス」が切り開いた可能性とは何か、なんてことを軽やかに論じたりする。
また、私の好きな逸話、>海の中には大きな目玉を持ったヤリイカの群が、膨大な数で回遊している。ヤリイカの目玉には毎秒数千ビットの情報がはいってくる。しかしヤリイカにはその情報を処理するだけの脳がない。ではヤリイカは何のために大きな目玉を開いて回遊しつづけているのか。ヤリイカをとおして地球が「見る」ためである。 ってのも、この本のなかにある。ちなみに、これは細野晴臣の音楽について語っている『観光音楽』のなかの一節。