かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

ビートルズ:10のエレメンツ(1) プレスリーへのあこがれはやめて『4人はアイドル』

2024年04月19日 | The Beatles
今日は、いい天気だったが、忙しくて、味わう暇なし。



夜は、生まれて初めての、リアル朝カル。
Zoomでは、何度か受講したが。
リアル会場は、住友三角ビル。
1970年代後半に、上京した頃、初めての高層ビル群で、しみじみ見上げていたことを思い出す。
まだ、現役で頑張っている。



1日に、こんなに多くの講座が開講されている。
日本人の、勉強熱心なこと。
受講したのは、ビートルズ:10のエレメンツと題した10回シリーズの講座の第1回。
初回の今日のテーマは、1962年~1964年。



これは、資料だが、ビートルズと、解散後の,ディスコグラフィー。
もちろん解散後の作品が、圧倒的に多い。

講師は、藤本さんと鈴木惣一朗さんだが、藤本さんのトークが、7割ぐらい。
鈴木さんは、音楽プロデューサーの視点からのコメントが多い。
お二人とも、ビートルズにはまって50数年。
私も、期間では負けないが、濃さが圧倒的に違う。

藤本さんが、ビートルズにはまったのは、1973年で、長兄が持っていたShe Loves Youの赤シングルを聴き込んだのがきっかけとのこと。
それから、アルバムを発売順に2ヶ月ごとに買って、聴き込んだという。
かなりの正統派?学者肌?
鈴木さんは、ほぼ私と同世代で、聞き始めがLet It Be。
B面のYou Know My Nameも聴き込んだという変わり種。
その時の、ビートルズの終末感が、それを蘇らせようという音楽への想いに繋がって、今があるという。
Let It Beの後、順不動で、好きなものから、聞いて行ったという。
ただ、そんなにたくさん買えないので、My Bonnieを初期に買ったのは、失敗だったとのこと。
まだ、バックバンドで、演奏も発展途上だった。
音にも切れがない。

藤本さんと鈴木さんの関わりは、鈴木さんのApple Foe Eye、ロック検定、McCartney Music などで、会うと、ビートルズ談義が止まらないという。

まさか、その時、50年後もビートルズの人気が続くとは思っていなかっただろうが、今年も、オリジナルLet It Be の配信、Mind Games のスペシャル版、ポールの写真展、そしてもしかするとRubber Soulnoスペシャル版などが続きそう?
去年のNow And Then については、二人とも絶賛。
4人もそんなに人気が続くとは思っておらず、ジョンとポールは、作曲家、リンゴは、理容師にでもなると語っていた。

内容的には、ビートルズ史を二人の知見を軸に追うもので、既知の情報もあるが、新情報や、独自の考えの披露もある。
例えば、ビートルズが初期に出演したピート・ベストの親の店であったカスバクラブは、親もモナ・ベストが競馬で大穴を当て、そのお金で、オープンしたそうだ。
そこで、ジョージがクォリーメンと初めて共演することになるが、他のバンドで出演予定だったのが、他のメンバーの不祥事で、キャンセルになり、クォリーメンの演奏に参加することになったという。
デッカのオーディションを落ちたのが、ジョージマーチンとの出会いが生まれたのも、偶然の幸運で、この出会いがなければ、数年で、ビートルズは普通のバンドで終わっていたかもしれない。

初期は、ジョンのバンドだったが、次第に4人のバンドになり、ブライアンエプスタインが亡くなってからは、ポールのバンドのようになった。
ただ、その時ポールがリーダーシップを発揮しなければ、ビートルズは、1966年で終わっていたかもしれない。

Love Me Do は、デビュー曲としては、地味だが、ジョージマーチンが進めた曲ではなく、自作曲を持って来たことが大きく、その後の4人の方向感を定めることになった。
昨年出た青盤のLove Me Doのドラムは、リンゴのドラムにすり替えられているが、セッションドラマーのドラムに変えるほど酷くない。
むしろ、スィング感があり、それも、その後のリンゴのドラミングに繋がっていく。

She Loves You は、初期の傑作だが、最後に6thコードを入れて終わる。
これには、ジョージマーチンは、古臭いからということで、反対したが、結局4人の意見が通って、残された。
ビートルズは、ジャズに多用されるこのコードを知らず、単純にカッコいいと思って6thを入れた。
それを、認めたジョージマーチンと4人のほどよい緊張関係により、多くの名曲が生まれた。

ボブディランの影響も大きい。
特にジョンの詩は、高度になり、ディランを凌駕するレベルに急上昇。
ポールは、キャッチ―なメロディを生み続け、二人で、ビートずるの楽曲のレベルを急速に上げていく。

A Hard Day's Nightのギターソロは、テープ回転を遅らせ録音し、早回しすることにより、可能となったが、その時のジョージの気持ちはいかほどか。
もっと簡単なりフになぜしなかったのか。
ただ、当時の最先端の技術が使用され始めた最初のケースとなった。
それを拒否したら、ポールが代わりに弾いていた?

For Saleは、人気いまいちながら、そのレベルの向上は著しい。
No Replyについては、楽曲の著作権を管理していたDick Jamesが絶賛したという。
その返歌ではないが、ポールのI’ll Follow The Sun の詩もすばらしい。
戯曲的というか、寓話的というか。

1964年がアイドルとしての頂点だったと言える。

次回は、中期がテーマ。
面白かった。
コメント
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