乳幼児教育を考えるあたり、その先達であられる広島大学名誉教授 森 楙(もり しげる)先生の中国新聞掲載の論説を共有します。
広島大学は、私の母校でもあります。大先輩の論説です。
同じ乳幼児なのだから、保育園、幼稚園、こども園、省庁の壁に分けられることなく、育ちの時間が充実する環境を整えていきましょう。
昭和39年(1964年)の論説であり、すでに、克服されている点もあろうかと思います。
ただ、58年前であっても、課題でありつづけることがらも存在します。
広島大学は、私の母校でもあります。大先輩の論説です。
同じ乳幼児なのだから、保育園、幼稚園、こども園、省庁の壁に分けられることなく、育ちの時間が充実する環境を整えていきましょう。
昭和39年(1964年)の論説であり、すでに、克服されている点もあろうかと思います。
ただ、58年前であっても、課題でありつづけることがらも存在します。
*******昭和39年(1964年)中国新聞*******************
『乳児の領分 集団保育の中で』
① こんにちはボク赤ちゃんです
そうぞうしい人間の世界にやってきてから、ボクはまだ三ヶ月しかなりません。だけどお母ちゃんは働かないと食べていけないといって、毎日働きにいきます。ですからボクは朝は八時ごろから、夕方の五時すぎまで、乳児保育所の一つであるここにごやっかいになることになりました。
家の中で一日中、育児に専念していらっしゃる隣の奥さんは「かわいそうに、あんな所へ入れられて」と、ボクに同情してくださいます。だけどボクにはこんな同情はかえって迷惑です。女性が働くのは少しもおかしくないし働くのは当然の権利でもあるからです。婦人の人権がほんとうにみとめられるためにも女性は職業人として社会へもっと進出しなければならないと思うからです。
おかあちゃんと離れて、ひとりでここへやってきても、へっちゃらです。 ちっともさびしくありません。 満三歳までの小さなお友だちがたくさんいるからです。おかあちゃんたちはみんな家庭の生活を守るために働いているのです。みんな働くおかあちゃんたちを誇りにしているので、朝と夜しかおかあちゃんにだっこしてもらえなくても平気です。ヨーロッパの子どもたちは、おかあちゃんが働きに出ていなくても親との接触時間はボクらより少ないぐらいだそうですから、親の愛情がうすいなんて、考えたこともありません。
それにボクたちにはお友たちのほかに保母さんがいます。教育的なあたたかい愛情でボクたちをつつんでくれます。広い視野にたった専門教育を受けた先生たちなので、自分の子どものことしか考えない、そこらあたりの心理学ママよりは、よっぽど信頼がおけます。
ボクたちをあわれんだり、軽べつされるおかあちゃんたち、「育児は母親の天職、働く母親は家庭に帰れ」とおっしゃるおとうさんたち、まぁボクたちのたくましい成長ぶりをみてください。明るくて健康なボクたちの集団生活をみたら、家庭教育至上主義が幻想にすぎないことが、おわかりになることと思います。静かなメロディーが流れてきました。おねんねの時間が来たようです… 。
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乳児の領分 集団保育の中で④
なんでも食べる 給食は楽しからずや
おかあちゃんがききます。「学校でいちばん楽しい時間は?」「きまってるじゃない、給食の時間よ」学校のおにいちゃんの答えです。ボクもまったく同感です。
調理室のほうから、かすかにいいにおいがしてくると、からだがゾクゾクッとします。食事のあいだじゅう、三十分から五十分ほど、机にむかってがまんして腰かけることも、あまり苦痛ではありません。食事中トイレにたたぬよう必ずやらされる食前の排せつも、手や顔をふいてもらうことも、このときだけはいやがらずやります。手を合わせてイタダキマスと、コトバにならぬ声をだしてこっくりすると、万事 OK です。
ゆったりとおちついたバックグラウンド・ミュージックの流れる中で、隣の子に笑われないようにきらいなものでもがんばって食べます。きらいなものを初めて食べたときの先生のうれしそうなえがおは、一生忘れないことでしょう。
しかしボクたちにも要求したいことがあります。殺風景なアルマイトのサラの代わりに、割れない瀬戸物ふうの食器で食べれたら、それにはアトムやポパイの絵がついていたら、もっと楽しくなると思うのです。それに花や動物のかわいいアップリケのついたエプロンを胸にかけてもらえたら。おとなの感覚でなく、ボクらの感覚にあった味つけや切り方や盛りつけにも努力してもらえたらどんなにいいでしょうと...。
学校給食には栄養不足が心配されていますが、ボクらの は大じょうぶでしょうか。三歳未満児の給食費一日四十三円七十銭の予算単価で、ポクらのからだはすこやかに育つのか、物価高の現在、ちょっとばかり不安になります。
(森 しげる)
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乳児の領分 集団保育の中で⑤
ひとりで遊び ひとりで考える
「ウマクタテバ、カッコイイノニナー。ドウシテタタナイノカナ。ヤッパリムリカ。ダケドモウイチドヤッテミヨウ」
アコちゃん(十一カ月)はさっきから、くり返しくり返し三角のつみ木をさかさにたてようとしては失敗しています。「バカね。それではムリよ」家庭なら、ママの干渉がはいるところです。しかし、おなじことをなんどもくり返す自分の活動そのものに喜びをみいだしながら、かれらは成長していきます。
オモチャを使ったひとり遊びは、二歳ごろまでのこどもに多くみられます。この時期までの遊びは、身体機能の発達とふかく関係しています。
神経組織が発達しますと、手が自分の意思どおり動くようになります。子どもは自分の新しい力に歓喜しその可能性をためそうと夢中になり、おとなからみれば至極他愛ないことに、長時間熱中します。ご当人にとっては、精神力のすべてを投入した緊張の瞬間であり、ひとり黙考する思索のときでもあるのです。
こうしたひとり遊びは、自主性や自律心を育てるのに大きな役割りをはたしています。ですから保育所のような集団生活においても、ひとりだけの時間は必要です。
「そんなふうに積んだら倒れますよ。ダメね、この子は。ママのいうとおりにやってごらん」家庭におけるこうした育児サービスの過剰は、自律心の育つチャンスをつぶしてしまうことになります。
(森しげる)
=写真は広島保問研乳児部提供
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乳児の領分 集団保育の中で⑥
協力の始まり~大切な〝遊び仲間〟
マコちゃんは二十一世紀の建築家を夢みています。積み木の柱をあっちにたてたり、こっちに倒したり、十分以上も工夫しています。そこへヒロちゃんがやってきました。はじめはだまってみていましたが、ついにがまんができず「コレ、ツカッタラドウダイ」といわんばかりに、左手でマコちゃんの肩をつかみ、積み木をつかんでさし出しました。コトバを使わなくても、意思の伝え合いは、半年あまりの集団生活を続けてきた二人の一歳未満児にとっては可能だったのです。マコちゃんはさし出された積み木を、微笑みをもってごく自然に受けとったのでした。
子どもの対人関係(社会性)の発達の基準は、つぎのように言われています。3ヶ月ーほほえみかけて他の子に反応する。半年ー相手の子にふれようとする 。1年ー自分のおもちゃをみせようとする。2年ー他の子と並行的あそびをする。3年ー集団あそびができるようになる。
社会性の発達はもちろん子どもの生活環境によって違い、どの子にでも当てはまりはしません。外にも出してもらえないで、お母さんの手でだいじに育てられたひとりっ子は、学校でもひとりぼっちで友だちができません。ところがマコちゃんやヒロちゃんにとっては、この基準は大幅に書き換えられないといけないようです。
遊びは子どもの全生活であり、成長の栄養素です。これが長つづきする第一の条件は、高価で立派なオモチャがあることではなくて、いっしょに遊ぶ仲間がいることなのです。
(森しげる)
=写真は広島保問研乳児部提供


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乳児の領分 集団保育の中で⑦
(『中国新聞』昭和40(1965)年2月連載記事から)
ボクハセンセイ~りっぱに社会生活
「キョウハ、ボクガセンセイダ。サア、ミンナオトナシクミルンダヨ」ヒデ君は汽車の絵がだいすきです。毎日、家から持ってくる絵本は汽車の絵ばかりです。「うちの子は汽車の本しか買わないんですよ」お母さんもそういっていました。
かれはまた、家から木でできた箱車を持ってきては、園内を押して歩きます。それがないときは、積み木をシキイのところで、押したりひいたり、汽車ポッポの代用にします。その熱中ぶりはすごいものです。だからほかの子も、汽車のことにかんしては、ヒデ君に一目おいています。「キシャノコトナラ、ボクニマカシトキ」と、リーダーシップをはっきしているわけです。
集団の中で育つかれらは、こうしたかたちで、いろいろな社会的能力を身につけていきます。
写真の子どもたちは、満二つをやっとすぎたばかりですが、自分の欲求を、社会的ルールにしたがって表現することを、すでに知っています。相手のもっている絵本が見たいときは、自分の手もちの絵本をもっていって「カエテ」といいます。すると相手は、その本の表紙をのぞきこみ、しばし考えます。気にいらない本なら「ダメ」といって、交換を拒否するわけです。
かれらは自分の頭で考え、意思決定をやっているのです。ときにはそんな場合、保母さんのところへやってきて「カエテクレンノト」と訴えます。それでも保母さんは子どもの間にはいって口出しはしません。もう一度、子ども自身に交渉させます。そうすることによって自分たちの問題は自分たちで解決することの大切さを、子どもたちは学ぶわけです。家庭の中だけで甘やかされて育っているこの年齢の子はどうでしょうか。ひきつけを起こすほど泣き叫んででもほしいものは奪いとるのがふつうではないでしょうか。
(森しげる)
=写真は広島保問研乳児部提供
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乳児の領分 集団保育の中で⑨
(『中国新聞』昭和40(1965)年2月連載記事から)
いきいきと描く~楽しいひととき
E保育園の乳児保育室の入口正面の壁には子どもたちの絵が貼ってあります。クレヨンやマジックや鉛筆で線や円や点などがグシャグシャに描かれています。ところが子どもを預けているお母さんたちは、この絵に気づかないふうです。教えてあげても「あれが絵なの」と鼻先で笑います。学歴を鼻先にぶら下げた大学出のママさんは、特にひどいようです。彼女たちの頭にある幼児画は、青い空に軍艦旗みたいな赤い太陽が輝き、家があって電灯がついておりチューリップの花が咲いている─だいたいそういったものです。概念でコチコチに固まったもの以外は目に見えないらしいのです。
保育園では十カ月ぐらいの子には、もうクレヨンを与えます。兄姉のいない子は経験がないので、なめてみたりトントンたたいたり材料そのものにまず興味を示します。
いつもは小さな机の上で、小さな画用紙や西洋紙に描きます。机や紙の小ささが気になり、線は細くちぢこまります。ときどき大きな模造紙を床の上に広げてやると子どもたちの目は輝き、思い思いの自由なポーズで、力のはいった生き生きとした線をのびのびと引きます。ふつうなら20分─30分(二歳児)続く関心が、2倍以上になります。「紙がもったいない」「床をよごす」といわれはしないかとひやひやするのです。
(森しげる)
=写真は広島保問研乳児部提供
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乳児の領分 集団保育の中で⑩
こどもの中に生きるテレビ~大人の選択はダメ
教育ものの中にもスピードと楽しさを
わたしは当年とって二歳五カ月のオシャマな娘です。ときどき「ママジョセイネ」といっては「むずかしいコトバおぼえて。この子わりかし頭いいのね」とママを喜ばせたり、「アイスルッテ、ナーニ」と質問しては、ママをドキリとさせたりします。うちのママは、よろめきドラマとかいうのが大好きで朝っぱらから「愛より愛へ」「いつの日その胸に」といったものをみています。一日中ママとつきあうので、おシャマになるのも無理ありません。
隣のカッちゃんは保育園に行ってますが、園では教育番組みしかみせてくれないので、コマーシャルソングがきけず残念だとこぼしています。カッちゃんの園で一番の人気番組みは「おはなしの森」です。「かくしてる─かくしてる」という歌がきこえると、みんなテレビの前にすわりこんで、終わるまでブラウン管にすいつけられるそうです。テレビからコトバと物や行動との結びつきを自然に学びます。けれど保育園では、なんといってもいちばん楽しいのは、テレビでおぼえた歌をお友だちといっしょに歌ったり、見たことを遊びの中に利用するときだそうです。私の場合ママ相手ではみんなお手あげです。テレビについてのカッちゃんの希望は教育番組みの中にも、アトムやケンや28号のスピードや力や楽しさをとりいれてもらいたいということです。おとなの番組みにノックアウトされないためにも。
宇宙時代をになう世代の豊かなイメージは、おとなの目だけでの番組み選択ではダメなようです。白痴化番組みをつつき破って進むエネルギーをぼくらの中にみつけ、のばすことが、テレビ時代を準備したおとなの義務だと思うのですが、どこまで期待できるか疑問です。
(森しげる)
=写真は広島保問研乳児部提供

